ひとは、どこを見て過ごしているのだろうか。
数年前、とは言っても、もう零よりは十に近い年数が経っているが、精神に不調をきたして外に出られなくなったときのリハビリとしてはじめた散歩が癖になって、意味もなく一駅とか二駅とか、それくらいの距離を歩くことがある。そんなとき、たとえばそれは、赤信号を、足元の鳩を、道脇に生い茂る紫陽花を、保育園のお散歩を、そして空と流れる雲を眺めているとき、前触れもなく目の前が滲み、涙が流れそうになるようになったのは、いったいいつからだったのだろう。
昼も夜も関係ない。つらいことを思い出したからでもない。ただ、どうしようもなく悲しく——いや、悲しくすらないのかもしれない。涙が潤むときの自分の感情を、少なくともいま持ち合わせている語彙では示すことができない。なにせ、思い当たる出来事がない。そのタイミング、そのときの風景に、共通点らしきものも見つけられない。
一年前、自分の書いた短い創作の文章を合評する場で、なんだか、すごくひとを見ているように感じました、と感想をもらった。そんな意見をもらったのは、小説のことに関係なく初めてで、なにより、意外だった。ひとを見る。自分は、そこから遠い場所にいる人間だと思っていた。交友関係は広くないし、人間というものに対して、特別な興味はそれほど持ち合わせていない。ひとの顔を憶えるのも苦手。自分は人間というものにあまり興味を持てていないのではないか。そんな風に感じていた。
しかし、そう言われてみると、気にもなってくる。
以来、ふとした瞬間に、いま自分がなにをどのように見ているのか、ということを考えるようになった。すると自然、ひとの顔を見ているときもあって、そんなときには自分の視線ばかりではなく、その相手の視線もまた、気になるようになった。
そんな風にしていて、気づいたことがある。自分は、外を歩いているとき、上下左右に、ふらふらと視線を揺らしがちだということ。そして、ひとは必ずしもそうではない、ということ。とにかく前を向いているひと、終始うつむきがちなひと、ずっと手元の画面を見つめているひと、そんなひとが多い。少なくとも、一瞬でも上を見ているようなひとは、あまり見かけない。また、下を見ているからといって、足元を歩く鳩の行く道筋は見ておらず、衝突寸前までいって鳩の方が慌てて避ける。
いま私が気になるのは、大人よりも子ども、それも、ベビーカーに乗っていたり、大人に抱っこされていたり、いつつまずいて顔を地面にぶつけないか不安になる、ぎこちなく歩いている子どもの視線だ。信号待ちをしているとき、横のベビーカーに乗った子どもが、ひねるようにして身を乗り出し、上を見た。真ん丸の瞳が一心に見つめていた。つられるようにして、顎をあげた。けれども、その先では蝶が飛んでいるのもなく、ビニール袋が舞っているのでも、飛行機が横切っているのでもなく、ただ、いつもの空があるだけだった。子どもは、同じ体勢のままだった。ベビーカーを押すお母さんが子どもが顔を出していることに気づき、からだを傾けて、子どもの頬に手を伸ばす。子どもは、口をぽかんと開けて、お母さんを見上げた。
「落っこちるとあぶないから、前を見ててね」
鞄からデフォルメされたゾウのフェルトのガラガラを渡すと、両手でつかんで、耳のところをあむっとくわえた。
あの大きさの赤ちゃんだと、視力はまだ〇・一くらいしかないはずだ。私は小学校高学年から徐々に視力が落ち、いまは、裸眼では〇・〇いくつか、といったところ。まれに、眼鏡を外して外の景色を見ることがある。輪郭らしい輪郭はなくなる。夜などは、三十メートルくらい先の信号や街灯の灯りが分裂して円状に広がり、ひとり花火大会といった様相を呈す。そんなぼやけた視界で、あの子はいったい、その先になにを見ていたのだろう。
子どもの視線について、ひとつだけ仮説を立てている。それは、子どもたちは歩いていない、より正確に言えば、移動だけを目的とした歩行をしていないがゆえに、視線がさまようのではないか、というものだ。
これは、自分に引きつけても同じことが言えそうだ。あ、自分、いまなにかを見ているな、と感じるとき、それは目線よりずっと上かずっと下か、あるいは脇だったりする。多分それは、歩行を、移動だけを目的とした行為とするならば、そこから逸脱する視線の方向だ。逆に、急いでいて、とにかく先に先に、と足を動かしているときには、前方以外に気をとめている余裕がない。
リハビリとして始まった趣味としての散歩では、いろいろなものに目がとまる。同じ場所を、それまでも何回も通っているはずなのに、気づかないでいたものに興味が惹かれる。散歩は、明確な目的や目的地をもたない。散歩も、たしかに移動は伴う。けれども、移動が目的ではなく、外に出ること、それ自体が目的であって、すると散歩は、外の世界との接触、出会い、邂逅を期待しているのかもしれない。私の場合、外出への不安を克服するための行動療法(暴露療法、エクスポージャー法と呼ばれるもの)としておこなっていた行為であった。だけど、それはただ外に出る、というだけではなく、外の世界とひとつひとつ出会い直すことで、自分の不安に、内向きに内向きに入りがちな視線を発散させる、ある意味では薬を使わないところでの対症療法だったのかもしれない。
だとしたところで、それと涙には、いったいなんの関係があるというのだろうか。棒との問いに戻ってくる。これではぐるっと回って、結局もとの場所に戻ってきた、それこそ散歩のような思索に過ぎない。そして、答えはまだ見つからない。
そんなとき、私は散歩をするのと同時に、本を読む。語り手が語る描写を通して、語り手の視線を借りる。
最近読んだなかでおもしろかったのは、小山清「犬の生活」だった。
小山清は、とりあえず分類するなら私小説作家になるだろうか。太宰治に師事したらしいが、おそらく世間がイメージする「人間失格」的な太宰とは、また別の性格を受け継いでいるような気がする。私は、「人間失格」的な太宰は正直あまり好まず、「富嶽百景」にあるような描写にこそ惹かれるのだが、「富嶽百景」に登場する、彼が師として仰いだ井伏鱒二に、むしろ小山清は近いのではないか、つまりこれは隔世遺伝のようなものではないか、などと取り留めのないことを感じていたわけであるが、それは措く。
「犬の生活」は、三年ほどまえに武蔵野に移り住んだ独り身の作家「私」の一人称小説だ。「私はその犬を飼うことにした。」という書き出しで始まるこの作品は、一言で言ってしまえば、公園で出会った捨て犬を拾って、生活にちょっとした張りと瑞々しさが出る、という心温まる作品だ。とにかくこの「私」の、「メリー」と名付けたメスの犬への溺愛っぷりが可笑しく、そして愛おしい。
私は犬をメリーという名で呼ぶことにした、メリーはお婆さんの云うように、たいした犬ではない。ありふれた雑種である。白と黒の斑で、白地に、雲の形をしたようなのや、鳥の形をしたような模様がついているのである。人間ならば、中肉中背とでも云うところだろうか。(…)躰つきは様子のいい方ではないが、さりとて不恰好というわけでもない。器量だってまんざらでもない。美人ではないが、よく見ると、可愛い顔をしている。なによりも、高慢らしい感じがしないのがいい。眼がいいのだ。メリーの眼は、ほんとにいい。眼は心の窓というが、メリーの眼を覗くと、メリーが善良な庶民の心を持っている犬だということが、よくわかる。(209頁)
とにかくメリーについては一貫してべた褒めで、親バカであると同時に、嫁バカでもある。拾ったときから身籠っていたメリーの出産で閉じるこの作品は、独り身の男が、メリーを機にして親密になった大家のお婆さんも交えながら、擬似的な家族・家庭の生活を送っていくような話なのだ。
犬と言えば、散歩のイメージがついて回る。「犬の生活」でも、散歩をする場面がある。ここの描写は、目的地を持たない、視線が遊歩する散歩というものを、よく表している一例かもしれない。
メリーは私と連れ立って散歩するのが好きらしい。鼻づらで地面をかぐようにしながら、嬉々としてゆく。池畔をめぐりながらメリーは、藻の匂いに鼻をくんくんいわせたり、鳰の鳴声に肝を消したような顔つきをする。池をひとめぐりすると、私は公園の西の端れのいぬしでの木立のある丘にゆき、そこにあるベンチに腰かけて休み、メリーの首輪から鎖をはずしてやる。そして私の姿が見える範囲内でメリーをひとり勝手に遊ばせてやる。(223頁)
このとき「私」は、メリーの眼を通して、彼もまた散歩をしている。彼がメリーの眼をあれだけ褒めているのも、メリーというもうひとつの眼によって、彼の世界が文字通り広がることになるから、なのだろう。
ところで、このような描写を読んでいても、私はときどき、胸がぽうっと温まり、その熱が、上へと伝って、涙のようなものとして、目から流れそうになる、そんな瞬間がある。やはりそれは、悲しいからではないし、嬉しいからでもない。
ひとは、悲しいときだけに涙を流すものではない。感動しても流すし、笑い転げながら流すこともある。眠いときに流す涙もあれば、激情のあまりほとばしる涙もあるだろう。
つまり、なにかがひとりの人間のからだには収まらなくなってあふれ出すとき、それが涙という形を取って、表出するのではないだろうか。だとすると、散歩をしているときに、私のなかにはなにかが溢れんばかりに満ちている、ということか。だとすれば、なんだろう。
結局答えは出ないので、いまひとつ思いついた仮定を挙げて、この文章をしめよう。
私はさっき、散歩によって世界と出会い直し、内向きの視線を外に発散させる、といったようなことを言ったような気がする。ただ、より厳密。。といいながら余計に抽象的なのだが、このとき私の視線は循環しているような気がするのだ。世界を介して、再び私の内を見る。そしてまた世界に出会い、また弧を描くようにして私を見る。輪郭を残しながら、それでも溶け込ませるような、そんな感じ。
きっといつだったか、同じ景色を見たひとがここにはいた。そのとき、私はすでにここにいない者とも、交わる。目線の高さは違うけど、いま空を飛んでいる鳥と、地面を歩く野良猫と、空間を分かち合う。種族の垣根も、当然越える。私は、その一部になる。
ああ、そうか。世界の広さに動かされ、その感情があふれ出ているのかもしれない。
なんとも尻切れトンボだが、ひとまずこんなところで締めよう。私の歩みは、まだ道半ばなのだから。
参考文献 小山清『落穂拾い・犬の生活』ちくま文庫、2013年3月
(文責 宵野)