ソガイ

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「ナイン・ボウリング」5(宵野過去作)

 

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 三ゲーム目も終盤になると、さすがに疲労の色が隠せない。ある程度は指にかかった、腕の力と遠心力とが伝達した球を投げられるようになっていたはずだったのだが、いまや、振りかぶって振り子の最下点までいくと、そこで球はがたん、とほとんど重力に引きずられるようにしてレーンに落ち、惰性だけでピンに向かうその球は、あるときは右に、あるときは左に、と曲がって、力なくガーターに落ちる。そういえば今日、まだ休憩をしていない。幸人はだいぶぬるくなったスポーツドリンクと、持参してきたスポーツタオルを用意し、三ゲーム目をガーターで終えた裕里に差し出す。

 ありがと、と小さく口にした裕里は、幸人からひとつ空けたとなりのベンチに腰を下ろす。横目から、裕里の額ににじんだ汗がうかがえた。ボウリングって、こんなに汗かくものだったんだな。幸人がつぶやくと、その汗を拭いながら裕里は頷いた。そうだね。もっと気軽なレジャーだと思ってた。耳の裏か首の後ろかの汗を拭こうとしたのか、裕里は後ろ髪を手であげる。なんとなく視線を下にそらした幸人の目には、幾分か肌にぺたりとひっついたスカートが入る。

 あの日、あの出来事のあと、一睡もしていなかったらしい裕里は紅茶を少し飲むと、一度お手洗いに立ってから、幸人に掛けられていた毛布をひったくって、おやすみ、とベッドで横になった。ものの数分で、穏やかな寝息が聞こえはじめる。二日酔いとはいえ十分な睡眠をとった幸人にはもう眠気は訪れず、だからといってあらためて講義に出るようなやる気は湧いてこない。自宅に帰るにしてもとくにやることはなし。別に朝帰りをしようが、一日程度なら両親はなにも言わないだろう。なにより、このまま裕里を置いて出ていくのが、なんだか忍びない気がした。

 手持ち無沙汰で、その辺に放置されている裕里の読みさしと思われる本を手に取る。なんだか難しい本だった。もっともこのとき、たとえそれがだれにでもわかる簡単な本であったとしても、ほとんど内容は頭に入ってこなかっただろうが、しかし、ただ頁をめくっているだけで、なんとなく、気分が落ち着いてきた。ところどころに線が引いてある。かといって、裕里の思考がわかるわけではなかった。

 昼頃に目を覚ました裕里は、お弁当買ってくる、とすぐに外に出ると、ものの二十分で戻ってきた。近くに安い弁当屋があるらしい。それなりのボリュームの唐揚げ弁当をもらって金額を聞くと、四百円ちょっとだという。払おうとすると、いいよ、お酒の分でちゃら、と裕里は受け取らなかった。それよりも、脚。やっぱりあきらめてなかったか、と幸人はうなだれながら箸を進める。さすがに油が、少しだけ胃に重い。

 思えば十時過ぎたあたりからテンションおかしかったんだけど、急に寄ってきて、いいかな、なんて訊いてきて、なにが?って当然聞き返したんだけど、そうしたらだんだん目がうつろになって、大きなあくびをすると、私の脚に頭を乗っけたんだよ。幸人よりも箸の進みが幾分か速い裕里は、その分といっていいのかひとくちが小さく、早送りの映像を見ているかのようだった。きっと、眠かっただけだよ。だったらベッドで寝ればいいじゃない。さすがに女性のベッドはさ。女性の脚だったらいいの? それは、酔ってたから動きたくなかったんだよ、べつにいいだろ。気まずさもそうだが、それ以上に、幸人は罪悪感のために、詰問されながら口調がぶっきらぼうになってしまっているのを感じていた。しかし、この罪悪感は、いったいだれに向かってのものなのか。それは裕里に対してとも、幸人自身に対してとも、少し違う気がする。しいて言うなら、それは裕里と幸人、ふたりの間にある空気みたいなものに対してかもしれない。

 裕里から、返事が返ってこない。気分を害したのかもしれない。さすがに場を取り繕おう、と思った幸人は箸を置き、口のなかの米を飲み込んで裕里の方にからだを向けて口を開きかけたとき。いいよ。裕里はこともなげにつぶやいた。そんなに好きなら、脚くらいなら、気が向いたら貸してあげる。幸人の方を見ず、箸を進め続ける。最後のひとくちを飲み込み、両手を合わせ、箸を親指と人差し指の間に挟んで、ごちそうさま、と目をつむって軽く頭を垂れた裕里は、ごみとなったプラスティックのトレーを片づけながら、箸の手が止まったままの幸人を一瞥し、どうしたの?と首を傾げる。いや、なんでも、と言葉を濁しながら幸人も残ったおかずを口にかき込んで、空になった容器を渡す。

 そうだ、ひとつ忘れてた。裕里は幸人をまっすぐ見ているが、口がものでいっぱいの幸人は、返事ができない。脚が好きでもいいけど、私以外にはそんなことしないでよね。なんで。ようやく返事ができるようになる。べつにいいでしょ。そう吐き捨ててから、ゴミ袋の口をかしゃかしゃ音を立てて締めはじめる。もう、幸人の顔は見てくれない。

 ああ、いいよ。幸人は、こう答えることしかできなかった。けれども、おそらく裕里に言われなくとも、そうしたであろうと思っている。幸人はけっして、女性の脚が特別好きなわけではない。

 ゲームは続いている。四ゲーム目、裕里の放った球はレーンの半分を過ぎたところで急激に左に湾曲したが、かえってそれが功を奏して一番ピンを久しぶりに捉える。倒す、というよりは倒れる、あたかも満員電車の発車直前、ひとりの乗客が駆け込んできたときのような惰性的なピンアクションで、ばらばらと六本のピンが倒れた。残ったのは、向かって右側に三本、左端に一本。スプリットだった。それでも、戻ってくる裕里の表情に、汗以外の変化は見られない。

 ぼうっとしていた幸人には、裕里が倒したピンの音が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。そのくぐもった音が、ひとつの記憶を引き出してくる。ここではない。ここから電車で三十分ちょっとのボウリング場。三年前、幸人はそのボウリング場の隅で、生まれてはじめてのビリヤードをしていた。たくさんあった方がおもしろそうでしょ、という理由で、十五個の球でナインボールのルールを採用したのは、正月に一度、家に帰ってきたときに会った以来の姉だった。

 駅で待ち合わせたとき、和真さんはどうしたの? と、その近い将来に姉の夫、幸人にとっては義理の兄となるひとがこの場にいないことについて訊くと、今日は入社前研修ってやつで、そのあと、同期の懇親会、というか飲み会があるんだって。なんでまだ入社もしていないのに大学の講義休んで行かなきゃならないんだよ。お金も出ないのに、とか、朝もいやいや家を出ていったよ、と姉は明るい口調で答えた。

 和真さん、今日のこと知ってるの? 幸人が恐る恐る訊くのには理由がある。姉がはじめて和真さんを家に連れてきたときのことだった。姉が作業的に和真さんを両親に紹介してから、いちおう同じ席について近況報告などをしている間、和真さんは、ソファでテレビを見ていた幸人に近づいてきた。邪魔していい? もとからテレビの内容など頭に入っていなかった幸人は頷き、となりを空ける。

 きみが羽月の弟の幸人くん、だよね。その質問にも頷くと、少しだけど、羽月から話は聞いてるよ、と言ったのち、やや前傾姿勢になりながら、幸人の顔をのぞき込んでくる。その目つきは鋭い。しばし見つめられたあと、和真さんは目元を緩ませて、なるほどね、とどこかおかしそうにひとりごちる。笑うと、目尻には数本のしわが見られる。僕はきみに負けた、というわけか。

 自分のけじめを和真さんに話したことについて、姉は、和真にはちゃんと言っておきたかったから、と言い切った。大丈夫だよ、和真、びっくりはしていたけど、わけを話せば納得してくれたから。幸人のことも、全然怒ってないよ。そのわけっていうのはなんなんだ。幸人は、それを訊くことができなかった。姉の言うとおり、和真さんとはたまにしか会わないが、会えばきまって、気さくに話をしてくれる。あのことを怒っている、という気色はない。だからこそかえって、幸人の方が勝手に気まずさに押しつぶされそうになり、一度、尋ねたことがある。和真さん、僕と姉の間のこと、怒っていないんですか。唐突な質問に目を丸くした和真さんは、ははは、と鷹揚に笑って、幸人の背中をばしばしたたく。幸人のからだがこわばる。まさか。羽月から聞かなかったか? それは、まあ聞きましたけど。だったら信じてやれよ、きみのことを愛してやまない、きみのお姉さんだぞ。その大仰な表現が、冗談だとしてもこの場合はあまり笑えない。うつむいて膝のうえのこぶしに目を落とす幸人に、和真さんは続ける。もっとさ、素直に物事を受け止めてみてもいいんじゃないかな。無い腹を探られるの、羽月はうんざりしてるみたいだし。僕との関係も、ぎりぎりまで周りに悟らせないようにしてたからね。それについては、幸人にもなんとなくわかっていた。

 それにさ、あの日のことは羽月にとって、必要なことだったんだと思うよ。なにか吹っ切れたようだったからね。知らなくて当然だけど、それまで羽月、あんまりきみの話をしなかったんだよ、その話題になると、なんか急に暗くなるし。だから最初、僕はきみたち姉弟の仲が悪いんじゃないか、と思っていたんだ。もっとも、それまでの姉との関係は、良い、とは言い切れない。でもね。和真さんは続ける。いまならわかる。いわれのない陰口や嫉妬にうんざりして、どいつもこいつも目の前のありのままを見ずに憶測ばっかり語って、そういうの全部、ばかみたい、と思っていた羽月も、きみのことになると、自分も同じように裏を勘ぐってしまっていたんだよ。僕も最近わかるようになってきたんだけど、そういうときって、相手を見ているようで、それは自分を投影しているだけなんだと思う。で、羽月の場合、きみのことを大事に思っているからこそ、不安だったんだろうね。きみが、自分のことを嫌っていないかどうか。親御さんのこととか、それを裏付けるだけの状況証拠は、実際いくらでもあったわけでしょ。でも、だったら素直に訊けばよかったし、言えば良かった。言えば実際、きみは答えてくれたと思う。それでも、できなかった。それはやっぱり、もう嫌われていたら、それがわかってしまったら、どうしようって怖かったから。実際にはそんなこと、ないのに。

 その一言に、幸人は明確に頷いた。

 たぶん、羽月もそれはわかってた。それでもなお怖かったのは、やっぱり、もしかしたら嫌われているかもしれない、と自分で思っていたから。それが、きみが羽月のことを嫌っているかもしれない、と少しずれたかたちに置き換わっちゃったんじゃないかな。

 そう考えると、姉は意外にも臆病な一面があったのかもしれない。しかし、その姉の臆病さを、幸人は笑うことなどできなかった。思えば、自分だってそうだったのかもしれなかった。自分よりずっと、なんでもできる姉。そんな姉が、いたって普通である弟のことをどう思っているのか、幸人はそれまで、深く考えたことがなかった。自分が、姉を自分とは別格の人間だと思っていて、その視線を、姉自身の視線にも勝手に適応していたからだったかもしれない。しかし、きっと姉は、弟である幸人のことを、対等な立場でずっと気に掛けてくれていた。思い込みで、自分が姉のことを嫌っているかもしれない、と思われていたかもしれないことに、一瞬ばかりは反感を抱いた幸人であるが、むしろ、自分の方がずっと身勝手であった、と、身のつまされる思いだった。

 和真さんは、きっと、そんな幸人の自己嫌悪について、見て見ぬ振りをしてくれて、話を続ける。羽月、あれ以来、なんていうのかな、素直になったでしょ。幸人は、少し考えてから頷く。あの出来事は、自分と姉との関係に気まずさを生むのではないか、と幸人は思っていた。翌朝に顔を合わせたときにはもう、姉はあっけらかんとした表情だった。おはよう、幸人。荷造りをする姉の背中は軽い。挨拶を返して朝食に向かおうとすると、あ、ちょっと待って、とドアから顔だけを出した姉に呼び止められる。明日なんだけど、午後時間ある? まあ、あるけど。よかった。じゃあゲームセンター行かない?

 およそ姉の口からは聞いたことのない単語に驚き、姉さん、ゲーセン行ったことあるの? と訊くと、ううん、ないよ、と答えた。俺、ほとんど行ったことないから、案内とかできないよ。うん、なんとなく知っている。じゃあなんで急に。彼がね、ちょっと好きなんだって。でも私に気遣って入らないのが申し訳なくて、だからあんたで練習。ついでに、幸人もゲーセンデビュー。いいでしょ。いやだから、ほとんどって言ったでしょ。あ、そっか、ごめんごめん。まあ、いいけどさ。

 姉の練習台になることに異存はないが、まだ顔を見ぬ彼氏さんにそれこそ申し訳ないな、と思っていると、姉は、それに、幸人とデート、してみたかったんだ、ずっと。それだけ言うと部屋に引っ込んで、慌ただしい音を立て始める。満杯になった四十五リットルのゴミ袋がふたつ、廊下に転がっていた。

 それは、気まずさを覚悟していた幸人には拍子抜けの連続で、ふと笑みまでこぼれた。わかった。空けておくよ。姉の耳にしっかりと届くよう、幸人は久しぶりに声を張り上げた、ような気がした。

 和真さんは、幸人の肩に手を置いて続ける。つまりさ、幸人くんは、羽月の個人的な覚悟のとばっちりを受けた、むしろ被害者なんだと思うよ。あいつに、怒ってもいいんじゃないかな。羽月にとっては、自分で決めてした初めてだけど、きみにとっては奪われた初めてなんだぞ。冗談めかしたような口調で言う和真さんの言葉を反芻し、たしかにそうだな、とその点では間違いなく姉のほとんど一方的な勝手さに気づかされた幸人だったが、それでも、どうしてだか、姉を怒る気にはならない。

 幸人のきょとんとした横顔を見ていた和真さんは、肩から手を離すと、やっぱりちょっと妬けちゃうなあ、と苦笑交じりにつぶやいていた。