ケンジくんとトモカちゃん
「ケンくん。今日はあっちに遊びにいかないの?」
夏休みになって毎日のようにケンジの部屋に入り浸っているトモカが、今日もスケッチブックを床に広げて十二色のクレヨンでなにかを一生懸命に描きながら、ベッドに横になって虫の図鑑をながめているケンジに向かって、質問を投げかけた。
「え、なに? ぼくにいってほしいの?」
「うん」
「でもトモ。そしたらきみ、ひとりになっちゃうじゃないか」
「ううん。わたしもいくから大丈夫!」
トモカは小柄な体を目一杯にはって、自信満々に言い放った。チョウのページから顔をあげたケンジは、うろんな目付きでトモカを見据える。
「いやね、トモ。いつもいっているけど、きみ、虫がダメじゃないか。あの森には虫がたくさんいること、きみも知っているよね。この前だってきみ、ちょっと大きなアリが足を登ってきただけで気を失ったんじゃなかったっけ?」
「へ、平気だよ」
露骨に顔をしかめて苦々しい声で強がるトモカに対し、ケンジは手元の虫図鑑の「アリ」の項目を大きく開き、自分の体重の何十倍もの物体を持ち上げることができる強靭なアゴがアップで表された拡大図を、問答無用でつきつける。
健康的に少し日焼けしたトモカの顔が、さあっと血の気を失って青ざめる。紫のクレヨンを握った右手がカタカタと震えているのが、ケンジの目に入った。
「……へ、へいき!」
それでもなお強がろうとするトモカに、ケンジはため息をつく。
やっぱりな、とケンジは呆れる。この手の押し問答も、もう何度目のことだろうか。いつもは自己主張をほとんどしないトモカが、なぜかこのことに関してはやけにわがままになる。
「……仕方ないなあ」
わざとらしく声のトーンを落としてトモカにいうと、
「だったらいまからいくぞ。油断しているとすぐに日が落ちるからね」
「……うん!」
承諾をもらえたトモカはぱあっと顔を輝かせると、嬉々としてクレヨンを片付けてスケッチブックをたたみ、大事そうにそれを胸にかかえて、彼女のお母さん手作りの手提げかばんに仕舞った。
「……その絵、見せてくれないの?」
つたないながらもどこか繊細な線と色使いが光るトモカの絵をひそかに好んでいるケンジは、一縷の期待をこめて、それとなくトモカに尋ねる。
麦わら帽子をかぶって外出の準備も万端に済ませたトモカは、大きな目をさらに見開き、両手で麦わら帽子のつばを顔の前に引っぱって、朱に染まった頬をケンジから隠そうとする。
「……それは、まだダメ」
その声は、外のアブラゼミの鳴き声にかき消されてしまいかねないほど、か細かった。
母親に一声かけ、トモカの分と合わせて五本のスポーツドリンクを持ってから外に出る。南の空にどんと鎮座する太陽は、日に日にその体を大きくしているような錯覚を受ける。外に出て間もないのに、すでに背中には汗がにじんできている。
「トモ、大丈夫か?」
「う~ん。暑いけど、大丈夫~」
トモカから、すでに疲れ切ったかのような返事が返ってきた。
「はい、これ」
「うん。ありがとう、ケンちゃん」
リュックから取り出したスポーツドリンクを手渡すと、トモカは両手で包み込むようにして受け取って、こく、こく、と小さくのどを動かせて飲む。
現在はそこまででもないとはいえ、それでもあまり体が強くないトモカ。みんなが校庭でボールや縄跳びを手にして走り回っているなか、教室でただひとり絵を描いている姿が、ケンジに付いて離れない。自然と、ケンジはトモカの体を心配してしまう。同級生からは「過保護だ」とからかわれるが、それでも、「トモカ、大丈夫か?」という言葉が頻繁に口から出てしまう。
トモカがよく外に出るようになったのは、あまりにも気を遣いすぎるケンジの影響なのかもしれない。
森に入ると、案の定トモカはひっきりなしに叫び声をあげた。
アリ、ヤブカの群は仕方ないとしても、さすがにミンミンゼミが顔にぶつかってきたのは、不幸としか言いようがない。さすがにそれは、ケンジでも厳しい。
森も深まったところまできたところで、突然トモカが立ち止まって、腕を横に広げてケンジをとうせんぼする。
「ケンちゃんはここで待ってて!」
しつこくいうトモカに、ケンジは呆れながらうなずく。このあたりになると。トモカはいつもケンジを足止めして先になかに入る。そもそも、最初にここにきたがったのもトモカだった。
今日は気絶していないといいなあ。ケンジがのんきにそう考えながら、横の大木に止まっているセミを数えていると、
「あ!」
記憶にない、トモカの甲高い声があたり一帯に響き渡った。ケンジはあわてて森のなかに入る。
「どうした、トモカ⁉」
最悪の事態まで想定していたケンジの目の前に、しかし意外な光景が広がっていた。
「あ、ケンちゃん!」
ふり向いたトモカの目には、木洩れ日がきらめいていた。
そして、彼女の周りを踊るように舞っていたのは――
「……オオムラサキ」
この森で、ごくまれにみられるという、オオムラサキ。それも、羽の紫が鮮やかなオス。
ケンジの一番好きな虫だった。
いつだったか、トモカに話したことがあったろうか。
「ケンちゃん、ケンちゃん! 見て見て!」
呆然と立ち尽くすケンジの肩を、トモカは興奮した様子でゆする。
「これ、ケンちゃんの好きなちょうちょだよね!」
「……うん」
ケンジはちゃんとした返事ができなかった。現実に見るオオムラサキは、図鑑のよりずっと小ぶりだったが、でも美しかった。
「ね。ケンちゃん」
トモカは後ろに手を組んで、上目づかいにケンジを見つめる。
「わたし、もう大丈夫だよ」
トモカの笑顔は、オオムラサキの羽と同じくらい輝いていた。
オオムラサキが一番好きな虫であることを話したとき、「オオムラサキは大事な虫なんだよ」と一緒に話したこと、そしてそれを聴くトモカの真剣な顔つきを思い出した。そしてトモカは、ケンジが決して虫を捕まえないことを知っている。
「……そういうことか」
顔をほころばせて、麦わら帽子のうえから、ケンジはトモカの頭をなでる。
「わわっ」
ケンジの不意の行動に驚き、トモカはつばの下からケンジの顔をのぞき見るが、その顔はすぐにはにかんだ笑顔に変わった。くすぐったそうな微笑みだった。
家に帰ったら、トモカのオオムラサキの絵を見せてもらおう。
トモカの笑顔を胸に抱きながら、ケンジは思った。
(1時間程度の制限時間のなか、ノートを縦にして手書きで書いたのを電子データに起こしたもの。一部、誤字脱字は訂正したと記憶している。また、日時については、ファイル名に日にちが記録されていたために、特定することができた。——が、もうちょっと前だった気がするのだが。)