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習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第4回

 

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 第4回

 

 本題に入るまえに、ちょっとした余談。

 昨日、仕事のあと書店に寄って店内を歩き回っていた。ひとつ、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)が気になっていて、これは確実に欲しかった。売れ行きが好調だと聞いていたから心配だったが、ちゃんとあった。あとは目的なく棚を見ていた。最近はそこまで漫画を読まないけれど、もちろん漫画の棚はいつも見る。ちょうど目線の高さに、いわゆる「面陳」されていたA5判の漫画があって、惹きつけられた。松本大洋『ルーヴルの猫』(小学館)。上下巻の2冊。松本大洋の名前は知っていた。『ピンポン』や『鉄コン筋クリート』のひとだ、くらいのことは知っていた。でも、実はちゃんと読んだことはなくて、特に『鉄コン筋クリート』はいつか読もう読もう、とは思っていたのが、思っているだけでここまで来てしまった。

 なんで『ルーヴルの猫』に惹きつけられたのか。ここまで追って来てくれている方(いるのかどうかわからないけれど)には言うまでもないことだろう。そう、「猫」だ。『シュレーディンガーの猫を追って』を追っているうちに、「シュレーディンガーの猫」から始まり、平出隆と猫、室生犀星と猫、ニュートンと猫、果てには私の従兄弟の家に飼われている猫、あと、まだ書いてはいないけれど、私が中学生くらいの頃までいつも同じ場所の草むらかトタン屋根の上にいた野良猫のこと、などなど、さまざまなひとと猫とのことを考えていた。だから今回、『ルーヴルの猫』のタイトルの「猫」、そして表紙に描かれる碧と黄のオッドアイの白猫に目を奪われたのだ。(すっごいどうでもいい話だが、私の母がたしか砂町銀座に出かけたとき、どこかのお店にいた、まさにこの表紙と同じ、碧と黄のオッドアイの白猫を写真に撮って、私に送ってきたことがある。一時期、私の携帯の待ち受けはその写真だった。)

 いや、少し嘘をついた。本当は、この本は一年近く前から気になっていた。初版が2017年11月だったから、これは辻褄があう。妙に惹かれてはいたのだが、購入にまでは至っていなかった。積み本が増えていく一方だったし、漫画としてはちょっとお高い(各1296円+税)のも、その理由だったかもしれない。

 しかし、なんという縁だろう。『シュレーディンガーの猫を追って』を通して、いままで以上に『ルーヴルの猫』への興味が抗しがたいものになっていた。いや、『「差別はいけない」とみんないうけれど。』は、平凡社ということもあって、2200円+税と、まあ高くはないが、安くもない。それに併せて、1296円+税を2冊買うだけの魅力が、このときの『ルーヴルの猫』にはあった。いやしかし、まさか『シュレーディンガーの猫を追って』を通じて『ルーヴルの猫』に手を伸ばしたひとは、他にはいないのではないだろうか。

 こういうまさかの繋がりが生まれることがあるから、真、書店は歩き回るに限る。

 

 さて、『ルーヴルの猫』の舞台、ルーヴル美術館はフランスの美術館だが、フィリップ・フォレストはフランスの作家。フランス繋がりでそろそろ本題に戻るとしよう。

 第三章「密やかに」。前回、昔に捨てた仕事が再開することを匂わしていた。その冒頭がこれだ。

 昔のことだ。何歳だったか。五歳か六歳。いや、もう少し大きかったかもしれない。わたしはベッドに横たわり、眠りが訪れ、世界がほんとうに消えてしまう瞬間を長いあいだ待っていた。(31頁)

 前回では、「打ち捨てた仕事」と言っていたから、まさかこんなにも小さいときの話が始まるとは思っていなかった。いや、しかしこの感覚はわかる。私も小さい頃、それこそ小学校1、2年生のとき、自分が眠りに落ちる瞬間、その境を見極めたいと思っていた。これは好奇心からではなく、むしろ恐怖からだったかもしれない。自分の意識はないのに確実に外の世界の時間は進んでいる。眠るとき、ひとは自分を世界の何者かに委ねている。それはいい。けれど、自分が、その何者かに自分を委ねる過程、それを知らずして身を預けているとしたら、それはなんだか、とても怖いことのような気がする。

 しかし、私はついに、その境を見ることはできなかった。「わたし」も同じだった。

 わたしは思わず瞬きをしたにちがいない。閉ざされた瞳には、すでに眠りがのしかかっていた。不注意なその一瞬に、影のかたまりはわたしに気づかれることなく背景から身をはがし、わずかだが一息にこちらに迫ってくる。(同)

 眠りに落ちる瞬間を、いや正確にいえばそれを見ることはできないのだが、なるほど、このように表現することができるのか、と感心する。この「思わず瞬きしたにちがいない」というところが良い。この「ちがいない」という判断は、もちろん昔話の「わたし」ではなく、語りの現在の「わたし」のものだ。過去のことを語るとき、それは昔を懐かしむ、といった感傷的なものにもなりがちだが、この一言によって、あのときの自分はその瞬間を絶対に見てやるぞ、と思って目を強く見開いていたんだ!という、現在にまで残る意気の強さが伝わってくる。「波先がわたしのほうに近づいてしまってから、ようやくその前進に気づく」と表現される眠りの影の認識は、これもまた消失が出現に先立つ、猫的なものの認識だ。つまり、ここでは眠り、あるいは「世界がほんとうに消えてしまう瞬間」も、また猫なのだ。

 ここで、子どもの頃の数々の遊びが語られ始める。最初は、日本でいう「だるまさんが転んだ」で、それは「一、二、三、太陽!(アン、ドゥ、トロワ、ソレイユ!)」とオニが唱え、「一、二、三」でほかのひとはオニに近づき、「太陽!」と叫んで振り向いたときには、止まっていなければならない。このとき「わたし」は、「世界に光をもたらすとされる最後の一語「太陽!」は、ふたたび世界が不動になるという合図だった」と、この遊びを分析する。翻れば、世界は光なき闇のあいだに動く、ということだ。

 その後、鬼ごっこや高オニ(高いところにのぼっている間はつかまらない鬼ごっこ)、ドロケイを思わせるような遊びが語られるが、これらの遊びは、どれもルール自体は同じだ。異なるのは細かいところだけ。たとえば「オニ」の名称のようなものだ。

 どんな遊びも、ルールはほぼ同じだった。オニのことは、猫と呼んだり、鷹と呼んだりした。蜘蛛と呼ぶことさえあった。(33頁)

  また猫だ。しかも、いろいろなヴァリエーションがあったと言っていた割に、そのあとではオニ役は「猫」に統一されている。やっぱり猫なのだ。猫=オニは、私たちを「猫」側に引き込もうと、虎視眈々と狙っている。

 それにしても、薄々感じていたことではあるけれど、この作品はいったいどこに向かっているのだろうか。もしかして、延々とこのような断片的な随想が続いていくのではなかろうか。

 そう思っていると、ややハッとさせられる一文にぶつかった。

 もうかなり前から、休み時間の小学校の近くを通って子どもたちが騒ぐ声を耳にしても、何をしているのか見たいという気持ちはわかなくなった。(34頁)

 この「かなり前」というのがいつくらいのことなのか、さっぱりわからない。というか、そもそも「わたし」の年齢もいまいちわからないのだが、それはともかく。この一文には神妙な悲しみや諦念のようなものが滲んでいるように感じられる。このような言い方をする、ということは、昔は子どもたちがしていることが気になり、見てみたいと思い、あるいは実際に首を伸ばして見ていたのだろう。その気持ちがなくなった。それは単純に老いによる心身的な腰の重さ故なのか、それとも、子ども自体を避けるようになったからなのか。どちらにせよ、なにか決定的になる出来事があったのではないか、と感じるのは私だけだろうか。

 

 すべての輪郭が消える夜中、この「ビッグゲーム」が再開する。暗闇から現れるなにかを見定めるため。かつて「世界がほんとうに消えてしまう瞬間」を見ようとして見られなかった「わたし」は、ここでもそれを取り逃がすだろう。

 あの何ものかが奥底からとつぜん現れたのは、わたしが眠りに落ちようとしていたときのことだ。名前を与えることもできず、粉々になった単なる影として姿を現していたそのものは、闇夜のほかの部分よりも黒々とした物質でできた一種の雲となって床の上を漂っていた。素材が微かに光を放っていたのは、おぼろげな反射に照らされていたからだ。それが沈黙のなかを感知できぬほど緩慢に進んでゆく。それに触れられる瞬間をわたしは望んでいたのか、それとも恐れていたのか、わからなかった。だがそのときはけっして訪れなかった。というのも、それを間近に感じたその瞬間に、わたしは眠りに落ちるからだ。(35頁)

  この「何ものか」が「世界がほんとうに消えてしまう瞬間」であり、そして「オニ」であり、つまり「猫」であることは、もはや言うまでもないだろう。

 5頁という、ほかの章よりもずっと短いこの章は、昔話をしたり、子どものときに遊んだ遊びを詳しく説明したりしながら、じつはずっと、この等式「何ものか=世界がほんとうに消えてしまう瞬間=オニ=猫」を、繰り返し繰り返し描写していたのだ、と言うことができるだろう。そして、それを手にすることができない、ということも。

 だから、最後もこのように締められる。

おぼろげには感じたものだ。もうちょっとで、そいつはわたしに触れ、わたしを自分の仲間に、猫つまりオニにしようとしているのだと。それなのに、それ以前にみたいくつもの夢の虜になっていたわたしは、口がきけなくなっていて、言葉も叫び声もあげられず、ベッドのなかで「のーぼった!」と宣言することすらできないのだ。 (35頁)

(第5回に続く)

 

(宵野)