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死者とともに生きる—「100分de名著」大江健三郎『燃えあがる緑の木』を観ながら思ったこと

 初めて、ちゃんと腰を据えて「100分de名著」を観ている。2019年9月は大江健三郎の『燃えあがる緑の木』を取りあげている。大江健三郎は、実のところすこし苦手で、『死者の奢り・飼育』といった短篇はまだしも、『万延元年のフットボール』や『懐かしい年への手紙』といった長篇は、かなり頑張って読んだ記憶がある。だから、それよりも長いであろう『燃えあがる緑の木』は未読だ。しかし、それであっても、この番組は非常におもしろく観ている。ゲストの小野正嗣さんはもちろん、MCの安部みちこさんと伊集院光さんがゲストに出す絶妙なパスが、本作品が未読である視聴者も置いていかず、きちんと引っ張ってくれる。

 さて、すこし苦手だといった手前、その言葉に矛盾するようにも思えるかもしれないが、いま、大江健三郎の作品に興味がある。その理由はいくつかあるのだが、それはこの番組の第2回放送でも、きっちり言ってくれていた。「死者とともに生きる」こと。大江の作品、引用の多いその書き方の根っこにあるのはこの意識だと思うのだ。そして、こと文学においていま私を摑んで離さない意識が、この「死者とともに生きる」ことなのだ。

 

 フィリップ・フォレストという作家がいる。彼については堀江敏幸「時間の森への切り込み」(『アイロンと朝の詩人』所収)などが良い導き手となるだろう。フォレストは元々、フィリップ・ソルレスで博士論文を書いていて、前衛文学や前衛芸術を対象とした批評活動をしていた。しかし、幼いひとり娘が癌を発症、4歳でこの世を去る、そのことが彼を大きく変えた。やがて、彼の関心のひとつは日本の「私小説」となる。とりわけ彼にとって大きな意味を持つ作家が、大江健三郎なのだ。

 大江健三郎の、とりわけ長男・光さんの誕生後の作品の特徴は、現実の大江健三郎や光さんなどを思わせる人物が登場する私小説的書き方、そして、古今東西の書物の引用、果てには過去の自分の作品、あるいは草稿までをも取り込む自己引用にあるだろう。ダンテの『神曲』が繰り返し言及される『懐かしい年への手紙』の下敷きには『万延元年のフットボール』があるし、作中では『個人的な体験』の書き換えすら行われている。そして『燃えあがる緑の木』は、その『懐かしい年への手紙』と地続きの作品だ。この『燃えあがる緑の木』の幹をなす作家があるとすれば、それはイェーツであり、ドストエフスキーである。

 大江健三郎作品には、他者の声が満ち満ちている。引用とは他者の声を受け入れることである、と番組で小野さんが語っていたが、まさにその通りだ。そして『燃えあがる緑の木』のモチーフであるイェーツの詩に描かれる「炎と水の共存」、語り手・サッチャンの両性具有という身体的特徴。『燃えあがる緑の木』では、矛盾するものが共存する空間が志向されている。これは引用についても言え、つまり、自分の言葉と他者の言葉がまさに自他の区別なく、「作品」という場で共存している。それはさらに、生者と死者にも広がる。ホールの完成の式で、ギー兄さんがおこなった説教は、いま自分たちが吸っている空気は森の空気であること、つまり、呼吸という行為を象徴として、ひとは死者とともに生きているという意識を説いている。私たちは、昔誰かが吸って吐いた空気を、いま吸っている。私たちの命には、他者の魂が宿っている。

 不勉強にも、私は『カラマーゾフの兄弟』の主要人物・アリョーシャの名が、ドストエフスキーが幼くして亡くした次男の名前であることを、この番組で初めて知った。息子の死のあとに書かれたということを思うと、この作品に対する見方も変わってくる。ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』を書くことによって、息子を生まれかわらせようとしたのだろうか。すると、大江がドストエフスキーに惹かれている理由も、なんとなく分かってくるような気がする。

 話がだいぶ逸れたが、フォレストに話を戻す。フォレストの「小説」作品のひとつに『シュレーディンガーの猫を追って』という作品がある。かの有名な「シュレーディンガーの猫」という量子力学における思考実験は、ざっくり言ってしまえば、観察されることによって固定される、とする量子力学の考え方を用いると、箱の中の猫が「生きている」状態と「死んでいる」状態が重ね合わせで発生してしまう、というあり得ないことが起きるとの批判だ。しかし、ひとびとを魅了するのは、むしろこのあり得ない重ね合わせの状態なのだ。量子力学については門外漢であるフォレストにとっても同様。彼は「シュレーディンガーの猫」、そして家にやってくる猫への随想を巡らし、そして語るなかで、亡くした娘が生きているもうひとつの世界に思いを馳せる。語ることによって、死者とともに生きる。フォレストはこの語り方を、まさに大江健三郎の作品から取り込んだのではないだろうか。

 伊集院さんが、「そのひとにとっての大事な言葉を集めると、それが自ずと福音書となるのかもしれない」といった旨のことを話し、小野さんを唸らせていた。『燃えあがる緑の木』のひとつのテーマは、神なき人々の信仰であるようだ。しかし、その答えはここにあるだろう。自分を作る、先人の言葉。その普遍的解釈ではなく、それを自分がどのように読んだのか、自分にはこうとしか読めない、と「言い張る」(この「言い張る」という言葉も、この番組でのキーワードとなっている)言葉が、その人その人にとっての「福音書」となるのだろう。 作品を作る度に新たな「福音書」を書き上げてきた大江健三郎。引用に満ちた彼の作品は過去への案内者であるのと同時に、読者にも各々の福音書を作ることを促す、未来への導き手でもあるのかもしれない。

 

(宵野)