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自己啓発としての『在野研究ビギナーズ』

 

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 『これからのエリック・ホッファーのために』を在野研究の理論編だとすれば、この『在野研究ビギナーズ』は実践、実例編ということになるだろう。本書は、現在進行形で「在野」から研究を行っているひとたちの文章やインタビューをまとめている。『これからのエリック・ホッファーのために』は過去の「在野研究者」の伝記集としても読めるものだから、この「現在進行形」というところが、もっとも大きな違いということになるだろう。

 ここで「在野」と鉤括弧にくくったのには理由がある。それは、序文において荒木優太も述べているように、本書に寄稿しているひとの、皆が皆「在野」というものを受け入れているわけではないためだ。「在野」という言葉に疑問を覚える者、そもそもアカデミズムも「在野」も関係ないと主張する者、さまざまな立場のひとの言葉が集まっている。では、この本のタイトルに「在野研究」の名を冠することは不当なのだろうか?

 いや、そうではない。本書の執筆陣は大学の外で主に研究活動を行っている点で共通はしているが、大学研究機関との距離感やスタンス、研究者としての出自など、ひとそれぞれだ。そもそも、ここでの「在野」とは、「在朝(朝廷)」の対義語から多様な広がりを経たものとして用いられている。だから、「在野」にはそれこそ枠に当てはまらぬ多種多様なあり方が存在してよい、というよりも、してなければおかしいとさえ言える。「一般解」は存在しないのだ。「大学に属していない」という否定によって定義されるものは、ただその否定によって結びつけばよいのかもしれない。その緩やかなつながりが、研究という営みの底上げとなる。研究とは個人プレーのように見えて、その実、団体戦なのだ。その点で、在野研究は当然、アカデミズムの研究とも手を結ぶ。在野研究はアカデミズムのカウンターではなくオルタナティブである。だから、本書は在野研究に限らず、研究を志す者すべてに参考となる書であると思う。

 

 ……と、このように御託を並べたが、私は本書を、それこそ「研究」を志して「いない」ひとにも薦められる本だと思っている(というより、これを「在野研究」を志すものだけを対象の本だと読者層を限定してしまうことは、この本の本意ではないと私は勝手に思っている)。たとえば、本業とは別に副業を持っているひと、仕事をしながら夢を追っているひと、趣味を極めようとしているひと、一日の大半を費やされる仕事があるという意味では、学生だって対象の範囲だ。

 つまり本書は、余暇の時間を用いてなにかを追求・追究したいと思っているひとにむけた、自己啓発本とも言えるのだ。

 

 個人的な話をすると、私は現在修士2年であり、ストレートで博士課程に進む予定はないから、来年の3月には大学機関から出ることになる。けれども、研究や批評、創作といった、ものを書く営みはこれからも続けていきたいと思っている(最近始めたもうひとつの活動の目的は「社会人になってからも文芸同人を絶対に続ける」ことであり、私はそこに共感したので参加している)。そのためには時間が多いに越したことはない。が、だからといって働かないわけにはいかない。生きていくためにはお金が必要で、そのためには働いて賃金なり報酬なりを手にするのが手っ取り早い。しかし、働くとなると時間が取られる。仮に完全週休2日、1日の拘束時間が8時間だとしよう。すると、週労働時間は40時間になる。そこに通勤時間や前後の準備、残業や会合などを加味すれば、少なく見積もっても50〜60時間は取られる。1週間は168時間だから、残り100時間強。しかし、当然食事や睡眠の時間もある。食事・入浴で1時間、睡眠を6時間とすれば、残りは50時間ちょっと。

 1週間で50時間もあれば十分じゃないか、と一瞬思うかもしれない。しかし、これは不確定要素をすべて除いた理論値のようなものだ。実際は、帰りの電車が遅れることもあるし、仕事で疲れていれば休憩したくなるし、体調を崩すこともある。家庭があれば子どもの世話や家事もあるだろうし、一人暮らしでも、家事は当然のこと、買い物や公共料金の払い込みなんかもあるだろう。すると、実際に使えるのは20時間程度なのではないか、と思う。

 本当の意味での「余暇」がそれほど持てないことは、おそらく多くのひとが肌で感じていることだろうと思う。私も半年後にはそのような生活を送ることになると思うと、不安を感じないでもない。

 だったらやめればいいではないか。時間だけやたら食い、しかも心身ともに疲弊するのに、大した金にもならないこんなこと。プロじゃなきゃ、こんなことやる意味もない。……と、このようなことを私は、実際に見知らぬひとに言われたことがある。知ったこっちゃないわ、と思っていたが、いわゆるコスパがそれはもう異様に悪いことは事実だ。

 それでも、これは何度も書いているような気もするが、書くことを辞める気はいまのところない。というより、お金のことを考えるのならば、そもそも違うことをやっている。あるいはやらない。では何故書くか。ある程度は自己満足であることは間違いない。私はたぶん、生きるために書いて、そして書くために生きている。

(…)つまりは、私もふくめ、友人や恋人といった人間関係に恵まれなければ、社会的評価の高い仕事で認められることも望めず、早くも人生が終わっている連中にとっては、書くことはすなわち希望を書くことにほかならない。(荒木優太、179頁)

  もちろん、仕事によって自己を充足させているひともいるだろう。それはお金の面かもしれないし、やりがいという面かもしれない。それはそれでいい。というより、ある意味では理想的な形だろう。そして、それを否定するのもおかしな話だ。

 しかし、仕事ではそれができないひともいる。それもまた否定されることではない。むしろ、自己実現の方法と社会的に報酬をもらえる仕事とが一致することは、よほどの幸運である。

 そんなひとびとを掬い取るひとつの方法がものを書くことである。おそらく、私はそちら側の人間だ。そして、私のような人間は少なくない、とも思っている。私の場合はものを書くことだったが、別の方法によって慰めをもらっているひともたくさんあることだろう。最初、この本は在野研究の「実践編」だと言った。そこには「在野研究」に収まらない、プロフェッショナルの場にないこと、つまりその行為がすなわちお金の発生する仕事とはならないことをし続けようとするひとへのアドバイスもある。

 

 たとえば「週末学者」として、サラリーマンをしながら批評理論を研究している伊藤未明は、自分が心掛けていることを挙げている。「人的なネットワークづくり」や「語学力ブラッシュアップ」は在野研究向けかもしれないが、「毎週一定の時間数を研究にあてること」や「会社の仕事との関係」、さらには「体力づくり」といったものは、その他多くのものに応用可能である。個人的には、この「体力づくり」が案外ばかにならないと思う。命あっての物種、ではないけれど、からだあっての活動、である。

 そして、公務員として働きながら怪異や妖怪を研究している朝里樹は、とにかく研究を楽しむことを、心得としている。だれかに強制されるでもないが、自分の時間とお金を少なからず費やしてやっていることなのだから、義務感に駆られるのではなく、まずは楽しむことが大事である。

 そこで紹介されている水木しげる『水木サンの幸福論』の「幸福の七カ条」は金科玉条であると思う。孫引きになるが、ここに挙げる。

第一条、成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

第二条、しないでいられないことをし続けなさい。

第三条、他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。

第四条、好きの力を信じる。

第五条、才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

第六条、怠け者になりなさい。

第七条、目に見えない世界を信じる。

  それを受けての次の言葉は、在野研究に限らず多くのことに当てはまる。

たとえ誰の役に立たないとしても、自分の気持ちを満たすことができる、それだけで在野として研究することに意味はあると思うのだ。(朝里樹、137、8頁)

  このような意識が、「在野研究者」をゆるやかにつなげていることは言うまでもないし、そして、広義の在野人をも包んでいると言っても、過言ではないだろう。

 

 さて、最後に、本書に寄稿しているひとに共通しているもうひとつの事柄を挙げておきたい。それは、みなブログや電子書籍など、自らの発表媒体を作っていることだ。

 SNSの普及によって「井の中の蛙」になれないために、イラストや音楽など、腕が上がるまで発表を恐れる傾向がある、という話がある。たしかに、公共の電波に流すことによって自分の作品や文章が批判される可能性が常について回ることになる。しかし、これは私の経験則でもあるのだが、こういうことはとにかく声に出してしまったほうが良い。

 十六歳から青空文庫で翻訳作品を発表し、シャーロック・ホームズや『Le Petit Prince(星の王子さま)』なども翻訳した翻訳研究家の大久保ゆうは、専門ではない言語の作品の翻訳を発表することに躊躇はなかったのか、との問いに、「下手でもやっぱり出したほうがいいんじゃないかな」と答えている。もちろん、それによって間違いを指摘されて恥ずかしい思いをすることもあるが、それは「芸事には付き物」だ、と。

 ここで考えるべきは、あなたはなぜそれをやろうとしているのか、ということだ。これは先の心得にもつながるが、在野研究にしても創作にしても楽器にしてもスポーツにしても、だれかに強制されているわけではない。やりたいからやっている。もちろん、やるからには極めたい、上達したい、と思うのは自然なことだ。しかし、だれしも最初は「ビギナー」だ。たしかに、一部の天賦の才を備えたひともいるかもしれない。しかし、水木しげるの心得にもあったではないか。「成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。」、「他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。」と。上手いからやるのではない。上手くなりたいからやるのである。だったら、その過程での失敗は付き物だ。というより、大半は失敗である。失敗なんて、そりゃしないに越したことはないのかもしれない。仕事において、失敗は許されない。しかし、これは強制されていることではないのだから、失敗したところでだれに怒られるわけではないのだから、恐れる必要はない(もちろん、法を犯したり、ひとを傷つけたりするような失敗は、余暇の活動と言えども許されるべきではない)。

 とはいえ、私が失敗に対して多少鷹揚に構えられるようになったのも、つい数年前からである。というのも、それまで歩んできた「成功のレール」を、完全に踏み外す、社会的には失敗といわれる状況に陥ったのだ。

 地域おこし協力隊として、西周に関する事業に従事した石井雅巳は、もともとは博士課程にストレートに進むつもりだったのだが、精神的不安定に陥るなどして挫折した経験を持つ。事業を通じてプライドを取り戻し、再び博士課程への進学が決まった石井は、2年半の「まわり道」を振り返って、このように語っている。

 筆者はこれまで偏狭な視野のもと、見えない将来への不安に怯え、細く長い平均台を歩いているような心地で生きていた。修士課程のうちに学会発表や論文投稿をこなし、日本学術振興会の特別研究員になり……といった「こうしなければならない」というレールをいかに踏み外さずに進めるかという具合にである。しかし、一度盛大に平均台から落下し、泥だらけになって、良くも悪くも開き直って好きなことをしようと思えるようになった。(石井雅巳、245頁)

 私がもっとも共感を覚えたのは、実はここである。私の場合の「レール」は、大学を出たら名前がしれたそれなりの企業に勤めて、業績を上げて出世し、やがては結婚して家庭を持ち……といったようなものになるだろう。しかし、私はそれに失敗した。たぶん、私のからだはもう泥だらけだ。こうなってしまえば、もう一回泥をかぶろうが、似たようなものである。私がブログを始めたのも、同人誌を出そうと思ったのも、この失敗を経て開き直ったからである。よくよく考えれば、これらのことは学部在籍中にも普通にできたはずのことである。しかし、当時の私にはまだ照れや、失敗への恐れがあったのだろう。それに、これも何度か話しているが、私の周りには才能のあるひとが、年上年下限らずたくさんいた。これは謙遜ではなく、彼らのなかでは、私が最も才能がないと思っている。劣等感まみれだった。そのくせして、いらぬプライドの裾だけは手放せなかったことが、私の本当の失敗である。あのときからやっていればよかった。就職活動の失敗は実のところそれほど後悔していないが、二の足を踏み続けた学部4年間については、後悔が尽きない。

 しかしこうなってしまえば、あとはもうなるようになれ、だ。下手だと笑われようがなんだ。そんなことは私自身が一番よく分かっているし、だとしたところで、私は私の書いた文章が好きなのだから。

 

 ……と、結局は自分語りになってしまった感が否めない。テンションに任せて書き連ねてしまったので、論旨として明快なものを示せなかったのは失敗であり、反省すべき点だろう。

 それでもともかく、私は在野研究者と呼べるような人間ではないが、頼まれもしないのになにか変なことをしている人間としてビギナーズの末席に名を連ねさせてもらえれば、存外の幸せである。

 

 

(宵野)