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批評と創作を行う永久機関

たまたま見つけた美作太郎『執筆・編集・校正・造本の仕方』から

 先日、大学の研究書庫に用事があって言ったとき、目当ての本を見つけたついでに、その周辺の棚もみて回っていた。そこでたまたま目に入った本があった。

『執筆・編集・校正・造本の仕方』。著者は美作太郎で、発行はダイヤモンド社。昭和26年に刊行されている。

 私は、これくらいの時代のシンプルな装幀の本がけっこう好きで、この本も、淡い青一色に、濃い青で書名と著者名が刻まれただけの表紙が、なんだか潔い感じがして良い。また、これは当時の物資の問題があったとは思うのだが、いまの本と比べると本当に軽い。これは、稀に海外のペーパーバックを手にしたときにも感じることなのだが、いまの日本の本は重すぎるのではないか。良い紙を使っているのは分かるのだが、私は、やはり本には持ち運ぶものとしての性質もあると思うので、その本の内容によってはもっと軽い紙を用いるとか、そういった工夫があってもいいと思うのだが。……もちろん、採算とか流通の面で容易ではないのだろう、と推測はできる。個人的には、小学館が少し前から始めている「P+D BOOKS」という、昭和の作品をペーパーバックと電子書籍(デジタル)の形式で出すシリーズは、非常に良い試みなのではないか、と思っている。

 ところで、なぜ日本の書籍にペーパーバックが少なく、どれもカバーが掛かっているのか、その理由は実のところ、それほど周知されてはいないのではないだろうか。もちろん、その理由とはけっしてひとつではないと思うのだが、そのひとつは日本独自の出版形態にある。

 日本の出版を独自なものとしているふたつの制度がある。委託販売制度と、再販制度である。

 委託販売制度とは、小売店が、買切りではなく、「委託」という形で本を仕入れることができる制度のことだ。小売店は、期間内であれば売れ残った本を、取次を介して出版社に返本することができる。

 多くの出版社は、小売店と直接取引するのではなく、取次と呼ばれるところに取引を委託している。出版社は刷り上がった本を取次に収める。このとき、出版社は取次から一時的に、それに見合ったお金をもらう。そして、取次が各小売店に商品を流通させる。小売店は、売れ残った場合にはそれを取次に返す、返本することができる。取次は、今度はその返された分のお金を出版社に請求する。

 そして再販制度だが、本は基本的に、出版社が定めた価格以外で販売してはならない。たとえそれが古くなっても、である。小売店は、基本的に自分で価格を定めることができないのである。だから、本の割引は普通あり得ない(大学の生協のフェアなどは例外だが)。これは本来、市場経済における競争を促すことを目的とした独占禁止法で禁じられている行為なのだが、出版については例外として認められている。

 さて、このふたつが結びつくと、本にカバーが必要になる。というのも、いったん売り場に出た本でも、委託販売制度によってどんどん出版社に返されていく(事実、現在返本率は50%近い)。在庫を圧迫すれば裁断されることもあるが、しかし再販制度があるから、その返された本を、注文があればまた売り場に出すことができる。そして、もしまた売れなかったら返されて……。

 このように日本の本は、頻繁に動き回る。当然、運搬や陳列、箱に詰めるときに本はどうしても傷ついてしまう。その傷から保護するために、カバーが必要とされてくるのだ。

 

 ……といった話が、昭和26年刊行の『執筆・編集・校正・造本の仕方』にも、もうすでに書かれている。いや、私がこの本を読んで思ったことは、「ここで言われていること、いま言われていることとほとんど変わらないではないか」ということだ。

 たとえば、校正という仕事は出版のなかで十分に尊重されているとは言えず、「現場の若いインテリ編集者」ですら、校正を、編集より劣る「技術」程度だと軽視しているから驚く、と言い、このように叱責する。

校正の意味を軽んずる編集者は、ちょうど自分の生み落した卵の育成を忘れて顧みない馬鹿な鳥のようなものである。これは自ら従事する文化財の生産に責任をもつ者の態度ではない。(144頁)

 また、装幀については端的にこう言っている。

右に述べたように、製本のさまざまな様式によって作られた書物を、全体的な体裁の美として捉えるところに、「装幀」が成り立つ。したがって、装幀とは、表紙のきれいなデザインのことだけを指すものではなく、その書物の内容(文化価値)とこれに規制された用途、組み方、判型、用紙の紙質等の諸要素を総合し、それに最もふさわしい製本法を採った上で、表紙の形状色彩を考案することを指すのである。重々しい内容の本を、派手な仮綴にしたり、興味本位の文学書を黒クロースの上製本にしたりすることは、たとえその外観自体がいかに立派に出来ていても、装幀としては失敗であろう。内容と形式との間然するところない一致こそ、装幀がめざさねばならぬ究極の目標なのである。(183頁)

  これは大変耳の痛い話である。私も3、4回ほど表紙を作ったことがあるが、どうしても情報過多にしてしまう。まあ、そうしなければ唯でさえ手に取られにくい本が、さらに目につかなくなるという事情もあるのだが、もし自身がそれをよしとしないなら越えていかないでどうするのだ、と自分を叱責してやりたい気持ちだ。

 装幀については、谷崎潤一郎もこんなことを言っていた。

私は自分の作品を単行本の形にして出した時に始めてほんたうの自分のもの、真に「創作」が出来上がつたと云ふ気がする。単に内容のみならず形式と体裁、たとへば装釘、本文の紙質、活字の組み方等、すべてが渾然と融合して一つの作品を成すのだと考へてゐる。(「装釘漫談」1933年6月)

  次回本を作るときには、もっと挑戦してみようと思う。

 

(ずいぶん停滞してしまっている『シュレーディンガーの猫を追って』連載だが、先日、そういえばどれくらい書いたのだろう、と調べてみたら、48000字もあってびっくりした。これが終われば、本当に再編集して、一冊の本にしてみようと思う。)

 

(宵野)