ソガイ

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鎌倉の細道—私の「かまくらブックフェスタ」日記

 今日は学校が文化祭のために休みだった。お世話になっているひとが出店側で参加していて誘われてもいたこともあり、前々から気になっていた「かまくらブックフェスタ」に出かけてきた。うちから鎌倉は片道で2時間弱かかり、まあ全然行かれない距離ではないのだけど、もともと出不精の私にとってはそれなりに決意を固めないと、足が運べない場所ではある。

 なかなか奥まった場所で開かれていた「かまくらブックフェスタ」は、様々な個性豊かな出版物を作っているひとたちと話をすることもでき、そして余裕で想定していた予算を超過するだけの本を買わせてもらい、そのうえ、美味しいコーヒーまで飲み、十二分に満喫した。

 昼下がりからは由比ヶ浜あたりを散策し、海を眺め、公園で足を休め、しらすおにぎりを食べて歩き、いくつかのお店を冷やかし、古書店で思わぬ出会いをして、さらに家族や親戚にお土産なんかも買ったりして、軽い日帰り旅行を楽しんだ。よい休みの使い方をしたものだ。

 

 ただ、ひとつ不満というか、少し考えさせられることがあった。これはまったく鎌倉には関係がないのだが、行きの道中のことだ。

 鎌倉に向かうために、私はJR横須賀線を利用した。私にとっては滅多に利用しない線だ。

 新橋駅で乗り換えて、下へ下へと降りていってようやくたどり着いたプラットホーム。逗子行きの電車までには時間がある。ずいぶんとひとが少なく、ベンチにも余裕があったので腰をおろし、山田稔『別れの手続き』(みすず書房)を読んでいた。残念ながら堀江敏幸のトークには参加できなかったのだが、この日初出しの、ぽかん編集室の『門司の幼少時代』を、写真で見たドイツ装に一目惚れして買うことは決めていたので、気分だけでも高めようと思って持ってきていた。『別れの手続き』には私がとても好きな文章が集められていて、表題作のほか、ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』を巡る作者の随想「ヘンリ・ライクロフト——または老いの先取り」は、それこそ良質な短篇小説のごとき味わいがある。そして帰りに寄り道した鎌倉の古書店「公文堂書店」で、岩波文庫の『ヘンリ・ライクロフトの私記』に出会い、これはひとつの縁だろう、ということで購入して、いま手許にある。

 それはさておき、この新橋駅でのことだ。先述したようにひとが少なく、その割に地下にあるプラットホームは広いので、図書館の地下書庫を思い起こさせるキンと冷えた静けさで、私にとっては心地よい空間だった。山田稔の文章にも、自然と身をひたすことができた。

 その静けさが、天からつるされたスピーカーによって唐突に破られた。

 正確な文言は忘れた。が、とにかく、次の電車の到着時間を知らせる女性の声のアナウンスが響き渡った。それを今度は英語で繰り返す。しかしそれだけではない。次は停車駅を羅列していき、当然これも英語で復唱、グリーン車が何号車であるか、これも英語で復唱。こんなに大きい音を出す必要があるのだろうか。左耳をつんざく音にうんざりしていると、今度は右側から、男性の声で同様のアナウンスが始まった。反対方向の電車についてのアナウンスだった。稚拙な輪唱のように——もちろん輪唱にはなっていないのだが——文字通り空気をびりびり震わせる音が、がらんどうの空間にぐわんぐわんと反響した。男性と女性の声が混じって、それぞれの内容を聞き取ることが難しい。

 ようやく男性の声が収まったときには、なんだかもう軽く疲れしてしまっていた。

 もちろん、ひとの聴力は千差万別であるし、また聴力に多くを拠るひともいる。アナウンスは大切だ。だからこれは私のわがままなのかもしれないが、しかし、内容が聞き取れなくなり、頭が痛くなるほどの大音量、しかもそれを重ねてしまう、これはどうなのだろうか。果たして、本来の目的を達成できているのだろうか。

 もっとも、これは私の性向がそう思わせているところもあるのだろう。最近頓に、静かな場所を好むようになっている。家では隙あればテレビは消すし、空気清浄機も消すか、あるいは最小力、電車や図書館では耳栓をすることが多い。そういう性格だから、余計に音が気になるのだろう。これは新橋駅だけではない。気にしてみると、都会の生活空間にはいったいどれだけの電子音が飛び交っていることだろう。中島義道が『うるさい日本の私』で、さまざまなアナウンスに対して苦情を述べていたが、その気持ちはなんとなく分かる。時代はさかのぼり、永井荷風は隣家のラジオの音に苦しめられたという。気持ちとしては、私が部屋にいるとき、リビングのテレビの声を煩わしく感じるようなものと同じだろうか。

 この日は耳栓を忘れてきてしまったので、代わりと言ってはなんだがイヤホンでごまかしていたが、所詮ごまかしに過ぎない。それでも暢気なもので、電車に乗ってしまえば山田稔を読みつつ、ときどき車窓の景色を眺めて愉しんでいたのだが、武蔵小杉駅あたりから乗客が一気に増え始めると、もちろん乗客の方にまったく非はないのだが、その喧騒にプラットホームでのことを思い起こされ、本を読む気分ではなくなってしまった。

 だからだろうか。「かまくらブックフェスタ」に向かう道、由比ヶ浜の細い裏道に入ると、そこは(おそらく高級な)住宅街で、とたんに音が静まりかえった。聞こえるのは風の音、鳥の鳴き声、石畳を踏む靴の音、葉の擦れる音、そして少し遠くから聞こえる子どもたちの遊ぶ声。

 会場は見えていたが、早起きのおかげで時間にはかなり余裕があるのでそこを通り過ぎて意味もなく、その静かな道をのんびり歩いてみた。10分くらいだろうか。それくらいの時間、私はまっすぐ歩き、そして同じ道を引き返した。

 

 私は最初の方で、今日楽しんだことをいくつも挙げた。しかし、その最初を言い落としている。

 そう。このなんの変哲もない静かな道を歩いたこと。これだけでも鎌倉に来た甲斐はあり、このときに、今日という日が良い日になることは、もう決まっていたのである。

 

(宵野)