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読んで、書いて、やり直して—「夢見る少女の観客であること〜『アイドルマスターミリオンライブ!』考察〜」の、遅ればせながらの「あとがき」

 

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 君にとって一番おもしろい文章ってなに? このように問われて、私の頭にはこれまで読んできた数多の作品が駆け巡った。思わず腕組みをして、天を仰ぐ。そのとき、ひとつの答えが降りてきた。

「自分が書いた文章かも」

 口にしてから、なんて身の程知らずの恥ずかしい答えなんだ、と思った。しかし、不思議と腑に落ちた。そうか。僕は、自分が読みたい文章を読むために自分で文章を書いているのだ、と。

 

 私はかつて、初めて自分の本を売りに行った文学フリマで、見知らぬひとから、商業出版を目指さないならばどうしてこんなところで本を売る意味があるのか、といったようなことを言われた。

 

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たしかに、初めて作ったそのコピー本は、質・内容ともに水準の低いものだったことは否めず、遊びで来ているかのように見られても不思議ではなかったのかもしれない。いや、そもそも遊びで来てなにが悪いんだ、ものを作るとは非常に骨の折れることで、暇つぶしでできるようなものではないんだぞ。第一、見ず知らずのあなたにそれを言われる筋合いはない。そのような反論・文句が頭の中を渦巻いていた。けれど、いや、本当に言いたいことはそんなことではないとも感じていた。しかし、そのときは言葉にはならなかった。

 あるいは、もうこれだけの作品や物語にあふれているいま、自分に小説を書く意味があるのか。自分が書くようなことは、もうすでに誰かが書いている。このような言説もしばしば耳にする。この気持ちはよく分かる。私ごときが独創的だと思っていることなど、すでにだれかにやられている。そんなことは言われるまでもなく、嫌になるくらい分かっている。分かっていながら、それでも私は書くことを辞めていない。書くこと、これはけっこう疲れる。うまくいかず、心身ともに参ってしまうことだってざらだ。でも書いている。だれにも頼まれていないのに。辞めたって、だれに怒られるわけでもないのに。

 本題に入る前に、もうひとつ思い出話。私は一時期「ブクログ」というアプリを利用していた。そこで利用者は、本についてのレビューを書いて、そして読むことができた。ある本のレビューを読んでいたとき、「お、このひと良いこと言うな」と思うコメントがあった。投稿者の名前を見る。私だった。自分の文章も、いったん公の場に出してしまえば自分の手を離れて他人のものになる、そんな一例だ。

 

 2年前の7月ごろだったと思う。この時期の私は、2ヶ月後の大学院入試の準備をしているフリーターだった。いまだから言えるが、それまでの私は社会のレールを踏み外さずに歩けていたと思う。しかし、ここで大きく踏み外してしまった。

 くわえて、大学1年生のときに壊してしまったメンタルは、そう簡単には治らない。おそらく一生まとわりつくこれと付き合いながら、このレールの外で生きられるのだろうか。そもそも院試だって受かるとは限らない。常に不安に苛まれていた。

 先行きが見えなかった。小説や評論を読むのにも、少し疲れていた。だったら外に出て遊ぶか、と言われれば、それは勉強をさぼってるようで気が咎める。そこで本棚から出してきたのが漫画で、そのひとつが『アイドルマスター ミリオンライブ!』(小学館)(以下『ミリオン』)だった。私は中学生でアイマスを知って以来、細々とこのコンテンツを追い続けていた。コミカライズ作品もいくつか持っているが、特にこの作品が好きだった。全五巻で、ちょうどいい長さであることも、選んだ理由のひとつだった。

 学術書のタイトルには、「○○・△△・××」と3つの単語を並べたものがしばしばある。これに倣い、私をいまの道に引きずり込むきっかけとなった3つのものを挙げると、「谷崎潤一郎・アイマス・黒田夏子」になる。訳の分からない並びだが、マジである。正直、自分でも引く。

『ミリオン』に話を戻すと、この浪人期に読んだこの作品、これほどまでに魅せられたものはなかなかない。なぜここまで胸を打たれるのか分からなかった。久しく、本を読んで泣くことはなかった。この作品についても、初読時には泣かなかったと思う。気がつけば、また最初から読み始めていた。その日、たぶん4回は読んだ。

 からだになにか、エネルギーのようなものが湧き上がっていた。書かなきゃ。唐突にそう思った。ノートパソコンに向かっていた。当然、発表のあてなどどこにもなかった。それでも書かずにはいられなかった。

 書けば書くだけ、言葉が流れて出てきた。次に自分がなにを書こうとしているのか、指が分かっていた。あっという間に1万字超の文章ができていた。なんのプランも立てずに書き始めたにも関わらず、大きな修正を入れることなく最後まで突き抜けた。最後の段落に入ったとき、ああそっか、この文章はここで終わるんだね。考えるまでもなく分かった。最後の一文も、するすると出てきた。この一文で締められることが、最初から分かっていたかのような収まりの良さだった。不思議な体験だった。まるでこれを書くことを運命づけられているかのような、そんな感覚だった。

 書いたものを、最初から読む。ここでも驚いた。まさか自分の書いた文章で泣く日が来るとは思ってもいなかった。

 自分の文章を読むとき、もっとも多い反応は羞恥である。生意気な子ども時代の話を親や親戚から聞かされるような、そんな恥ずかしさだ。この文章についても、多少はそういうものがあったかもしれない。しかしそれ以上に、この文章はまさにいまの私のために書かれている。私に読まれるために生まれた文章だ。そう感じていた。自分の文章なのだからこれも奇妙な話なのだが、本当にそう思ったのだ。

 これを私のパソコンのハードディスクに閉じ込めておくのは、この文章の本意ではないと思った。これはどこかで話したことがあるかもしれないが、私がブログを始めようと思ったきっかけのひとつは、この文章を開いたものにしたいという欲求だ。べつに読まれなくても構わない。ただ、いつか、どこかで、だれかの目にとまる可能性、それを作ってあげたかった。そして、書き続けていけば、またいつの日か同じような体験をすることがあるのではないか。そのための場を自分に課す。そういう狙いもあった。

 すでにレールを外れた私。そんな私にとって、再出発、実のところ大学の4年間のやり直しである大学院の試験の前にこのような文章を書けたことは、まさに僥倖だった。それは、試験当日にまで活きてきた。

 院試の英語の試験。大問1は長文の単語穴埋め問題だった。たしか、空欄は8つで、選択肢は全部で10個とかだった。そんなに難しい文章ではなかったが、なぜか混乱して、その空所にどの単語も入りうるように見えてしまう。五分で諦めて適当に埋め、以降の英文和訳に移った。そちらを終わらせてから、この大問に戻ってくる。時間が迫っていた。冷や汗を拭う暇もなく選択肢をにらみ、ひとつずつ埋め直す。結局すべての箇所が、前のものと変わっていた。帰ってからその英文を探して見つけ、答え合わせをする。全問正解だった。すなわち、最初のままだったら全問不正解だった。

 専門試験でも、院試のひと月前に友人に誘われて参加した、黒田夏子『abさんご』の読書会、そのための準備で勉強したことや当日の議論が、直接にも間接にも活きてきた。あまりにもうまく出来過ぎだった。

 お前はこの院に行って人生をやり直せ。そう言われているような気がした。それにしても、大学院という場所で、お前はやっていけるのか? 同じ声がそう問う。もちろん不安はあった。でも、なんとかなるのではないか、とも思えた。その根拠にはあの文章があった。僕にはあの文章が書けた。だからやれるはずだ。やっぱり自信というよりは根拠だった。現在地から振り返ると、この予感は当たっていた。精神を病み、ひっきりなしに不毛なトラブルに巻き込まれ、自分の生き方を否定された大学の4年間を、私は浪人の1年と修士の2年でやり直している。ようやく始め直すことができた。それだけでも、この遠回りには意味があった。

 幸運にも、私のこの文章は公開からちょうど1年後、多くのひとに読んでもらう機会を得た。もとは自分だけのために書いた文章がこんなにも多くのひとに読まれて評価される、というのは、なんだか不思議な感覚だった。ブログという形でこの文章を公にする。その判断が間違っていなかったことが証明されたことが嬉しかった。

 をれを期に、再びこの文章を読み返した。こんなことをいうと自画自賛しているように見えてしまうだろうが、いい文章だと思った。「いい」というのは、技術的に上手いとか、議論が優れているとか、そういうものとは違う。私が一番読みたいと思っている文章。その点でピカイチだと思えたのだ。

 いちおう私は小説のような文章も書いている。小説というと、作者独自の感性とか、そういったところに注目されることが多いかもしれない。しかし、こと私の場合は、独自なものはほとんどないと思っている。いままで自分が読んできたもの、見てきたもの、体験してきたものについてしか書けない。世の中には、私などよりもずっと優れたものを書くひとがごまんといるし、私が生まれる前にもたくさんいた。けれども、完全に私が求める作品というのは、そうはない。というか、あり得ないだろう。だとすれば、どうするか。自分で書くしかあるまい。過去を踏まえながらも、いや、ここをもう少しこうすればもっと私が真に欲するものになるんだ、と手を入れ、作品を作ってみる。

 だから、私にとって創作とは、自分自身のための、この世界の二次創作なのかもしれない。あり得る、あり得たかもしれない可能性、それを追い続けるために、文章を書いている。

 すると、(いまは少し滞ってしまっているが)『シュレーディンガーの猫を追って』という作品をちまちま読み進めて文章を書いているいまの状況も、やはり地続きである。書くこと、語ることによってもうひとつの世界に接続する。この作品は、ものを書くことについての小説であるのかもしれない。

 いちおうこれは、「夢見る少女の観客であること〜『アイドルマスター ミリオンライブ!』考察〜」の「あとがき」という体で書いてみた文章である。だから、最後くらいはちゃんと、この文章に絡めて締めたい。

『ミリオン』の最終的なテーマは、「親友」と「夢」のどちらかひとつを選ばなければならない少女の葛藤だ。二者択一、トレードオフの究極の問い。これは人生においても同様だ。ひとは、常になにかを選びながら、つまり同時にその他すべての可能性を捨てながら生きている。

 しかし彼女、最上静香は、より正確には彼女たちは、自分の力、そして周りの力を借りて、その両方を同時に掴み取る。最終話、プロデューサーが静香に対して出会ったときと同じ言葉をかけるのは、だから示唆的だ。あの日、不可能であると目を逸らしていたもうひとつの可能性を、彼女は生き直す。父との約束か、本当の夢か。

 それでも、1年間という時間を経て、そのどちらかではなく、父にちゃんと認めてもらって、本当の夢を追う。どちらも成し遂げる。その道を歩むことを決心した。それは厳しい道のりになるだろう。しかし彼女は決めたのだ。周りに支えながら、でも、自分の意志で。宙づりだった当時の私は、もしかしたら彼女のこの決意に憧れて、涙を流したのかもしれない。

 生き直すこと。これこそが物語に宿る究極の力なのではないか。こう言ってしまうのはあまりにもナイーブだろうか。しかし、物語によって、本当に人生の一部分をやり直そうと思った人間がここにひとりいること、これは事実なのだ。

「私の〝夢〟はきっと今ここだから」。あのときはただまぶしかった少女の宣言を、いつか私も口にできるようになるだろうか。まだ遠い道のりだけれども、けれど、間違いなくそこに向かって歩んでいる。きっと、そこにたどり着くことが私の夢だ。

 その夢をこの世界で摑みたいから、だから、これからも書いていく。

 

(宵野)