ソガイ

批評と創作を行う永久機関

怒を捨てたい

 経験上、「読めない期」と「書けない期」はかなり連動して起こるもので、それはやはり、読むことと書くことが不可分な行為であることの証明だと思う。

 最近あまり文章を上げられていないことの言い訳なのかと言われると、まあ半分はそうなってしまうのだが、修士論文やら諸々で「書く」方のキャパシティがいっぱいいっぱいだった、ということにしていただきたい。

 さて、前にも書いたような気がするが、私は基本、ポジティブな文章を書いて発表しようと考えている。ここでの「ポジティブ」はやや広い意味で使っていて、前向きというか、少なくとも自分自身で読み直したときに、笑えたり、ほっとしたり、落ち着いたり、そんな文章だ。

 喜怒哀楽の4つのなかでもしひとつだけなくすことができるとしたら、おそらく私は怒を選ぶ。怒ることは、その場だけではなく、後々まで引きずる疲労を招く。私はそう感じていて、とにかく怒ることは心身ともに疲れる。それは運動のあとの爽やかさをともなったものではなく、ひたすらだらだら続く、鈍重な疲労だ。だから、出来ることならば私は怒らないで生活していきたいと常々思っている。もちろん、それが出来ていないからこんなことを思うのである。

 だからこそ、このような営利のほとんど伴わない場で、わざわざ怒りを招くような文章を上げようとは思わない。ここで詳述する気はないが、近頃は特に憎悪、いま流行っている言い方をすればヘイトを溜めるニュース、記事、書籍があふれている。これも言ったことがあると思うが、私は数年前まで書店で4年間アルバイトとして接客などをしていたが、その4年間でも、ヘイト本がどんどん棚を侵食していくだけではなく、そうではない本でもタイトルや煽り文が過激になっていくのを目の当たりにしていた。私は本が好きだし、これからも好きであり続けるだろう。だから、ただ現状を憂いているだけではいられない。言ってしまうと、いま私の本棚を見渡したとき、正直幻冬舎の本はほとんど見当たらないし、これからもほとんど買わないで済むかもしれないが、新潮社や小学館となるとそうはいかない。ヘイトとは少し違う気もするが、『美しい顔』問題で話題になった講談社まで入れると、なおさらだ。本好きにとって、この辺りの出版社は絶対に避けては通れない。

 このような歴史のある大手出版社も憎悪を煽る本を出さねばならないほど、現在の出版業界は苦しいのだろうか、と私は考えてしまう。たしかに過激な煽り、内容であれば目に留まりやすくもなるし、話題にもなる。「炎上商法」という言葉があるくらいだ。

『週刊ポスト』の問題について、校閲の立場から批判したひとがいた。そのひとに対する反応のなかには、見出しや中吊り広告の文面だけで判断するのは間違いだ、という反論が数多くあったと言う。しかし、見出しや広告、これは大問題である。見出しや広告を作るのは著者ではない。それは編集者だ。その文章の要約ともなる一節を抜き出すのが見出しであり、その選択は編集者、ひいてはその出版社の意向であり、意思表示である。広告は言うまでもない。その本や雑誌をどのように売ろうと考えているのかを、広告は示している。

 ……とまあいろいろ言ってはみたが、ヘイト系のものについて、私は単純に品がないなあと感じていて、だから好きではないというだけのことだ。だから私はそういう文章を書かない。

 物書きの端くれである私が言うのもなんだが、ものを書くとは本当に時間もかかるし疲れることである。そんな思いをして生み出したものでまた読者を疲れさせて、いったいなんの意味があるのだろうか。そんなことを思う、今日この頃である。

 

 という訳で、少しの間はかなり不定期になってしまうかもしれませんが、これからもただ好きなものを好きと言うだけの文章をあげていくと思うので、よろしくお願いします。

 

(宵野)