ソガイ

批評と創作を行う永久機関

「日常」の記憶に生き続ける—金子直史『生きることばへ—余命宣告されたら何を読みますか?』

「余命宣告されたら何を読みますか?」

 この副題に、私の目は止まった。もともとべつの本を買うつもりで書店に来ていたのだが、目当ての本の近くにささっていた金子直史『生きることばへ』(言視舎)を手に取って開く。「まえがき」の冒頭に、私は引き込まれた。共同通信社の文化部長、加藤義久の文章だ。

 2018年9月13日、午前7時過ぎに携帯電話が鳴った。「金子直史」という表示を見て、嫌な予感がした。電話は本人ではなく、妻の康代さんからだった。「直史が亡くなりました」。がんのために入退院を繰り返していた金子さんだったが、その前日に普段と変わらないメールをもらっていただけに、突然の知らせに言葉を失った。58歳だった。(3頁)

 この本の発行は、2019年8月。つまり、この本は故人の著書ということになる。

 かいつまんで紹介すると——金子直史。1960年生まれ。1984年に共同通信社に入社すると、広島支局、大分支局、那覇支局などを経て、95年に本社の文化部に配属される。三島由紀夫の未公開書簡をスクープ、オウム真理教関連で村上春樹、米中枢同時テロ、アフガン攻撃に際して講演集を刊行した大江健三郎、司馬遼太郎没後十年企画では鶴見俊輔、そして、2007年にはその年に亡くなる小田実へインタビューをしている。その他、原爆、被爆者、沖縄米軍基地問題など、戦後日本に切り込む取材や連載をおこなってきた。18年9月、大腸がんのため死去。

 一度は完治した大腸がんが再発したのは、2016年。その年の12月28日に、「まあ、何もしなかったら1年。処置をして、2年?…3年かな??」と余命宣告を受ける。年が明けて1月6日に、今度は正式な余命宣告を受けることになる。

 本書は、突然「死」を突きつけられた記者の、文字通り最期の、30回に渡る連載をまとめたものである。そのテーマが、「死に向き合った文化人らの作品」を読み解くことであった。

 人は普段、いつもの平穏な日常が続くことを疑わない。だから思いも寄らない病や命の危険に突然直面すると、未来への不安、死への恐怖が避けようもなく広がる。そこで人の生、そして死は、どう見えてくるだろう。その問いに正面から向き合った文化人らの作品を読み解きながら、生きるための希望を探りたい。(14頁)

 第1回、戦没画学生慰霊美術館「無言館」での体験から、この連載は始まる。ここで「筆者の体験」を踏まえた文章から始まることが必要だったことは、想像に難くない。本書の後半は、妻の康代さんによって編集された、直史さんの日記である。その2017年10月18日には、この「生きることばへ」と、もうひとつ「遠近法の現代図」という連載のイメージがわいたときのことが綴られている。

 来年の企画として、学芸で「遠近法の現代図」、生活で「生きることばへ/いのちの文化帖」というイメージを立てた。

 遠近法のほうは、現代を明治近代や昭和、戦後などの対照軸を照らし合わせることで、その姿を浮かび上がらせようというもの。「生きることばへ」の方は、それこそ1月の余命宣告以来で読んできた、生と死と希望をテーマにした文章を、自分に引きつけて感想をつづる。(167、8頁)

 連載記事では、直接的に自分の余命が幾ばくもないことを示してはいない。それでも余命宣告を受けた直後の2016年1月9日に、連載でも取りあげている中江兆民『一年有半』を読んでいるように、自らの境遇に拠るところが大きいことは、間違いない。

 その後の連載は、正岡子規、スーザン・ソンタグ、中江兆民と、死を前向きに捉えて生を全うした文化人から、戦争や災害によって命を奪われた者へと視点を変える。広島の原爆では、たとえば原民喜の言葉から「祈り」を読みとろうとし、保阪正康の作品から、特攻隊員が「死」を「仕事」として受け取ろうとする「意識の操作」を感じ、特攻隊を美談としがちな戦後日本に疑問を投げかけ、石牟礼道子や鶴見和子の文章や生き方を通じて、自分の生と他の人の生が結びついている意識が根付いている水俣という地で、近代社会の弊害たる公害が起きてしまったことについて考察される。その他にも、東日本大震災や沖縄問題にも切り込んでいる。

「自分に引きつけて感想をつづる」としながら、それが単なる個人を越えて、歴史や社会といったものの「生/死」に向いていくのは、記者として戦後日本の問題を追ってきたこともさることながら、余命宣告を受けてから、「日常」の素晴らしさが、悲しいくらいに強く意識されるようになったことも、無縁ではないだろう。日記には、しばしば「日常」への希望がつづられている。そしてなにより、この日記を眺めていて思うのは、余命宣告を受けながらも、いや、だからこそ明るく、家族、妻と二人の娘との「いま」の時間を慈しもう、大事にしようとする著者の姿だ。「交換日記」として家族に向けられる言葉の、いかに愛に満ちたことか。その愛は、当然家族にも向けられていると同時に、「いま」という時間にまで向いていると思うのは、深読みが過ぎるのだろうか。けれど、日記に細かく書かれている食べ物を見ると、やはり日常の生活を大事にしていたように思われる。そして「日常」への意識は、迫り来る「死」を意識したことと無縁ではないだろう。2017年9月6日の日記から。

 今は午前7時。今日は5時ごろに起きた。購入したばかりの富士通PCのセットアップ。2日土曜に、茅ヶ崎に、康代のボードを取りに行き、その近くのヤマダ電機で買った。この日記帳は、先日立ち寄った日本橋丸善でそのレトロさから、衝動買いした。おれの場合、たいがいの日記帳は、最初の2、3ページで続かない。これは果たして、どこまで続くか。しかし、おれは今や死に向かっていく存在だ。そのこと自体は、今もふと気づくと茫然とするような事柄だが、しかし日常自体は実に確かに堅固なリアリティと共にいつものように流れていく。その日常の確からしさの中にいればおれが直面しているらしい「死」は、ほとんど実感の伴わない、夢のようなものとして感じられる。リアルなのは、徐々に増す痛み、クスリの副作用やしびれなどでほかは日常的には意識しない。
 ただし、ある瞬間、…例えば汐留の社屋から外に出て、舷しい陽光が汐留のビ ル群の間をいっぱいにしているのを見て、ふと、稲妻のように、「うそだろ!? おれが…え!  死ぬの? うそだろ!」といった気分になる。でもそれは、すぐに日常の時間の中に埋めこまれる。そして、いつもの日常の時間が何もなかったように流れていく。ふと思う。おれの実存はなぜ、さほどは動揺せずにいられるのだろうと。日常は、変わらずに続いていく。その中でどんな構えがとれるかを、いつも考えている。それが終わる時はおれはあえて知らないでいい。誰にとっても、いつかは終わる。それは全く同じことだ。意外なことでも何でもなく。


 井上ひさしの、犬の忠臣蔵〔イヌの仇討〕の芝居の中で、大石が死とは何かを問われ、左の座敷から右の座敷へと移動するようなものだろう、
と言った。おそらく、そんなものだろうと思う。(154、5頁 〔〕内は康代さんによる注釈)

  このとき、すでに抗がん剤の副作用などで体調は優れなかった。最期となった連載は、文字通り骨身を削るようにして書かれていく。しかし、そんななかでも「日常」への希望、祈りを忘れない。他の日には、昔通っていた新橋の喫茶店の店主が、黙々とタマネギをむいている姿や、電車のほかの乗客の姿に「日常」を見出している。著者にとって「死」と「日常」が地続きであることは、たとえばこんな言葉にも見られる。

死とはおそらく、穏やかで普通の日常の中で自然と眠りにつき、それがさめないということだろう。そしてそのことは、主観的には意識されない。それは今、ここに来ない日々は基本的に病気などまるでウソのようにしか意識しないのと同じことだろう。(127頁)

 だからこそ、私は、2017年11月22日の日記に素っ気なく書かれているこの一行に、立ち止まらざるを得ない。

 夜 人身事故 横須賀線一時間まち。(180頁)

 もちろん、人身事故にはつまずきやふらつきなどによる接触もあるが、もうひとつ、飛び込みによるものもある。この日、保土ヶ谷駅で発生したこの事故が、どういった要因によって起きたものかは分からない。しかし、その事故に巻き込まれた著者は、いったいどのような気持ちでこれを書き残したのだろうか。

 連載のなか、著者は基本的にとりあげた作家たちに寄り添うように語っている。しかし、反対とまでは言わないが、疑問を投げかけているふたりがある。それは吉村昭と西部邁である。

 このふたりに共通しているのは、自分で自分の「死」を決めたことだ。舌がんになった吉村昭は自ら点滴のカテーテルを引き抜いたし、「自裁死」を公言していた西部邁は、2018年1月に自ら命を絶った。

 著者は、ふたりの選択を尊重し、一定の理解は示しつつ、それでもどこ引っかかりをおぼえている。

 対比するように挙げているのが、当時不治の病だったハンセン病患者の作家、北条民雄『いのちの初夜』の一節だ。

主人公は施設入所を前に何度も自死に失敗し、入所して同僚からこの言葉を聞く。「人間ではありませんよ。生命です。生命そのものなんです。僕らは不死鳥です。再び人間として生き復るのです」(97頁)

 ただ「生きる」こと。「死」に直面してそのことの尊さを感じている著者は、それ故に自死に疑問を覚える。果たして「生命」に勝るものなど、存在するのだろうか。

 

 そんな感情は、伝播するのだろうか。日記によると、連載を読んだ妻の康代さんは感想として、「原民喜は自殺しないほうがよかったんじゃないか…。」と著者に話したのだという。原民喜は、まさに自らを鉄道の線路に横たえ、死を選んだ。原爆が投下される前年に妻を亡くし、その目で原爆を見つめて作品を書き続けた原が、自ら命を絶つ。妻と死別してからの作品は、それぞれ遺書だったような気がする、と義弟の佐々木基一に遺した原は、7年間、ずっと死の準備をしていたのかもしれない。だから、そんな彼にそれ以上のことを求めるのは、非常に酷なのかもしれない。しかし、それでも生きていて欲しかった。この連載を読み終わったいま、私も深く、そう思っている。

 

 最後にひとつ、この本で語らなければならないことがある。それは、著者の家族だ。

 妻の康代さん、長女の由惟さん、次女の実歩さん。日記のなかで描かれる著者の家族の強さに、私は頭が下がる。特に娘さんは、私とそれほど年齢が変わらない。しかし、すぐそこに迫る父親の死にも、毅然としている。果たして、私にそれができるだろうか。

 もちろん、ここには書かれていないところでは、深く悩み、悲しんだことだろう。しかし、父親である筆者の「日常」を愛しむ思いをしっかり引き継いでいる。あるいは、家族のそのような振る舞いこそが、著者の「日常」への祈りを支えていたのかもしれない。「死」を目の前にしながらどこか明るい空気が流れているのは、この家族あってのものだろう。だから本書は、著者・金子直史が自身の死に直面した記録であると同時に、家族が夫/父親の死を目の前にしたときの記録でもあるのだと思う。著者ひとりだったならこの連載は生まれなかった。そう思うのだ。

 

 最後も、日記からひとつ引用したい。

 思いつくことを書いておきたい。
 何の脈絡もないが、中高生のころに、指揮者になりたいと思ったことがある。
 結局、斜余曲折を経て、今の商売になり、おそらく、いよいよ体が重くなるまで仕事を続けているだろう。それだけの面白さはある。ただ、今から思えば全然別のことを選んでいたとしても、そこそこのことはできたろうと思う。
 今思えば、いろんな選択肢を前に、「これをほんとうにちゃんとした商売にできるのだろうか」と、思いすぎたかもしれない。そのあたり、由惟、実歩にも、言っていきたい。
 それにしても、あとどれだけ本を読み、書いていけるのだろうか。
 以前からずっと忠臣蔵の大石が、処刑に至る何ヵ月かの間、晴れ晴れした顔で、読書を続けたという。死が決まっていて、ならば、何のために読書か、と思っていた。
 今は分かる。以前にも書いたように、大石にとって、死はせいぜい、隣り座敷に行くようなものだとしたら、生と死は、素直に連続するものと、考えればいい。
 あるいは、特に隣座敷と考える必要もない。大切なのは「日常」だろう。死は「日常」を突然まがまがしいものに変えるのかも知れない。しかし、それは一瞬で、「日常」は再び息を吹き返す。圧倒的なのは、この「日常」の持続なので、誰それさんの死は、その日常にひとつのエピソードを付け加えるぐらいのものだろう。
 その「持続する日常」というイメージに、おれは救いを求めようとしているだけだろう。だが、それがなぜ、救いとなるのか——。
 多分、命が消えるとは思ってないからだろう。命がもし、残るのだとしたら、それはこの日常の中で繰り広げられた記憶の中だろうと、おれは勝手に思っている。(178、9頁) 

 この連載は最後、小林秀雄の歴史観に見られる「歴史とは生きた一人一人の喜びと悲しみの集積であるという考え」を指摘して締められる。しかし、著者はその続きを見つめていた。

連載はいったん終えるが、いずれ稿を改め、より広い視野を想定しつつ、人の生と死を考えていきたい。(109頁)

 残念ながら、その続きを著者自身が書くことは叶わなかった。しかし、著者が希望を見ていた「日常」は、終わらない。

 著者は、かつて娘たちに語ったことがあるという。「お父さんは、物を書き続けることで、たとえ死んでしまっても、それを読む人の中で生き続けるんだよ」と。

 

 この「いのちをかけた読書案内」(帯文)の続きを書くのは、私たちだ。

 

(宵野)