ソガイ

批評と創作を行う永久機関

誤字を肯定する「内輪の空気」

 この前の論考で、「いま同人誌を造るということ」について、本というものに着目し、藤森善貢や小尾俊人を横に置きながら考えた。そこで私は、広い意味での質にこだわった。ものとして残る本は、過去・現在・未来を繫ぐものであり、形として残る本というものを造る者は、自分の造った本がいつかどこかで読まれるかもしれない、その可能性を想定する必要がある。その「自分が造る本が、過去・現在・未来、どこかで読まれるかもしれない、と意識し、それに堪えるものを造ろうとする、責任と覚悟」が、結果として「おのずと本の質を高める」ことになるのではないか。私はそのように論じた。その具体例として、良いブックデザイン、組版、そして校正・校閲が現れてくる。本造りにおいてこれらの要素は、造り手が、未知の読者をどれだけ想定しているかどうかを示す物差しにもなりうる。

 かつてと比べ、だれもが簡単に本を造れるような時代になったからこそ、各々がそのことについて意識していくべきなのではないか。私は、同人誌が商業誌の下部リーグ的存在のものではないと思っている。「安くても、稚拙でも」、まったく構わない。だが、少なくとも本というものを造っているならば、その覚悟がなければ、結局、内輪で消費されるものに終わる。それは、情報が氾濫して流れ去るこの時代において本という「遅いもの」の持つ最大の特徴、あるいは強みとも言えるものの放棄ではないか。私のこの論考は、この一言を言いたかったがために書かれたのかもしれない。

「内輪の空気とは、限りなく『いま』を確認するだけのものだからだ」

 

 前置きが長くなった。最近、同人誌界隈(後述するが、ここでの「同人誌」とはニアリーイコール「二次創作」であるらしい。また、自分で使ってしまってなんだが、「界隈」という言葉の響きはあまり好きではない)で少し話題になっている問題がある。やや問題が錯綜しているのだが、そのうちのひとつが、「同人誌に対して、誤字脱字や語の誤用について」である。

 ことの発端は、ある同人作家が、投稿作を再録した同人誌を発刊することに対し、その読者の一人が「マシュマロ」という匿名のメッセージツールを通じて、作品内に数多くの誤字脱字、特に誤用があることを指摘、現段階では「対価を出版物としての完成度は十分では」ないから、再録前に確認してほしい、との意見を送った。これについて書き手がTwitter上で、このような意見はつらいと、筆を折ることまで匂わせる発言をしたことから、拡散していった。

 件の「マシュマロ」を見つけられたので読んでみたが、Twitterでの総意とは大きく乖離しているといってもよい(https://marshmallow-qa.com/messages/f8e77f97-2f85-4fd1-8bfb-262924c9351a?utm_medium=twitter&utm_source=answer 2020/05/30閲覧)。Twitterでは、この質問者がほとんど鬼畜であるかのごとく言われ、ほとんど人格否定に近い批判が飛び交っているが、この「指摘」が、私にはそれほど厳しいものには思えなかった。もっとも、私だってひとの同人誌に誤字を見つけたからといって、よほど親しいひとでなければ多分指摘はしないだろうし、そして、ひとによって、なにによってどれくらい傷つくのか、それは異なる。だから、この書き手がこのメッセージでひどく傷ついたことは責めないし、責める必要もない。*1

 とはいえ、やはり皆がこぞって批難するほどのものではないと思われる。これは慇懃無礼だ、との意見もあった。この程度で慇懃無礼と言われてはたまったものではないがともかく、たしかに、少し言い方を気を付ければ、結果は違ったのではないかと思う。

 例をあげると、「対価を得る出版物としての完成度は十分ではありません」。その前には、このままだとせっかくの作品がもったいない、との言葉もあるのだが、それはほとんど無視されて、この言葉だけが広がっている。なぜか。この言葉がとりわけ強いからだろう。往々にして、ひとは強い言葉に飛びつくものである。

 たしかに、あえてこの言葉は言う必要がなかったかもしれない。せめて、「このままではあなたの作品の魅力が十分伝わらない」くらいにとどめておくのが得策だったか。もっとも、それはすでに言っていたのだったが。

 直後、「言葉の豊富さよりも、性描写や二人の関係の濃密さよりも、言葉の本来の使い方にも是非拘ってほしい、そう感じました」。ここも取り出されている。ここは簡単に、「よりも」を「と同じくらい」にしておけばいらぬ反発は招かなかった。そんな単純な、と思われるかもしれないが、実際に置き換えて読んでみてほしい。まったく印象が異なるだろう。言葉とはそれほどまでに繊細なものなのだ。だから、特に視覚的に残ってしまうものの場合には、語の一語の選択にまで、注意を払う必要がある(これがまさに、作者にもできる範囲での校正・校閲的感覚の必要性なのだが)。

 と、このように言ってみたが、正直なところ、私はこの出来事そのものより、これについて書き手を擁護する(あるいは質問者を批難)する声について、思うところがある。なぜか誤用の指摘がメインだった質問から、誤字脱字の方に主題が移ってしまっているのは、伝言ゲームのような不思議さがあるがそれはさておき、もちろんSNSの検索は多数派の言葉が引っかかるから、それが全員の意見だとは思わない。しかし、特に声の大きいその擁護の内容は、私が最近問題視している「内輪の空気」をまさに体現したものとなっていた。

 

 個々の発言は取り出さない。私が確認できた範囲でその種類を分類してみる。

 

・同人誌は趣味でやっているもの。商業誌のような校正・校閲の精度を期待する方が間違っている。そういったものが読みたければ同人誌を買うべきではない(嫌なら買わなければいい)。商業誌を買うべきだ。

・趣味で作られる同人誌は、むしろその誤字脱字、誤用も(こそ)味である。

・推しカプ(?)の話の内容に没頭するから、読者はべつに気がつかないし、気がついたとしてもそれは自分で変換(脳内変換)して読めるし、そうして読むべき。

・同人誌の値段は材料費が主で、作り手に儲けはほとんどない。そもそも対価という考え方がおかしい(頒布という考え方)。それはお客様精神だ。読み手もまた参加者である。批判は求めていない。(質問者は、自分の読みたいものに合わせるように書き手に書かせようとしている)

 

 おおまかに分けるとこのような感じだろうか。

 まず確認しなければならないのは、ここで多くの人が「同人誌」といっているが、それはほとんど「二次創作」と同義であるらしいことだ(もちろん、そうではない意見もあったが)。二次創作とは、オリジナルの作品の特定の登場人物にフォーカスしたり、ifのカップリングを作ったりして物語を創る営み、といってよいだろう。私が「同人誌」というときには当然「一次創作」も含むものだから、最初は私も勘違いをしていた。これは「内輪の空気」を考えるときには大きな問題だ。つまり二次創作は基本的に、まずオリジナルの作品を知っているひと同士でなければ話を共有できない。さらには、特定のカップリングを好む者同士である必要もあるだろう。ゆえに、内輪になりがちだ。さらにいえば宿命とすら言えよう。ちなみに、私は一次創作、さらには商業の文学の分野においても「内輪の空気」は充満しつつあると思っていて、それを、自戒を込めて問題視しているのだが。

 

 ひとつひとつ考えてみようと思う。

「同人誌は商業誌のような校正・校閲の精度を期待できない」

 それはそうだろう。もっとも、いますべての出版社がしっかりとした校正・校閲をおこなえているのかと言われれば疑問なのだが、一般的な単行本なら、初校、再校、三校とにわたり、複数人のプロの目が入る。私が、まだまだひよっことはいえ校正者だから言うのだが、校正は言ってしまえば、なにかを生み出すわけではない(だからこそ削減させられがちなのだが)。それでもなぜ、大きな出版社なら校閲部を持ち、あるいは外校(外部の校正者に校正してもらうこと)をおこなって、時間をかけて校正・校閲をするのか。出版物の質に直結するからである。誤字だらけ、事実誤認だらけの本は、文章を磨いていないことを自ら言っているようなものだ。つまり、一種の品質チェック部門なのだ。この部門が存在しない製造業はないだろう。しかしながら、そこまでしてもすべてのミスを拾えるわけではない。それほどまでに校正・校閲というのは難しい。ましてや、それをアマチュアが一人で、しかも自分の書いた文章についてやろうとするなればなおさらだ。

 それは認めるし、事実私だって自分の発行した本には、少なくとも2〜3回の校正をかけているが、やっぱりあとからミスが見つかる。特に自分の文章については顕著だ。だから、たしかにアマチュアの同人誌に誤字脱字は付き物と言える。

 とはいえ、それは味でもなんでもない。また、今回は誤用の方も問題になっているが、私からすればもっと問題なのは、むしろ言い逃れのできない、単純な誤字脱字の方である。これは、文章において基本的には瑕疵である。不良と言ってもよい。他者から誤字を指摘されると、頭を抱えて穴に入りたくなる。それくらい、恥ずかしいことなのだ。なぜか。誤用は、知らなくて、かつ調べる必要性を感じられなかった場合にはどう頑張っても見逃してしまう一方、誤字脱字は、慎重に読みかえせば見つけられたかもしれないものだからだ。これは、いくら趣味で作っている同人誌だから、といっても変わることはない。誤字脱字はただのミス、瑕疵である。それを「味」などという曖昧な言葉でむしろあっても良いものとして擁護するのは、きちんと慎重を期して誤字脱字を拾おうとしている他の同人作家にも失礼ではないだろうか。

 プロのようにはできないと言うが、校正自体は、べつにプロでなくともできる。簡単だ。文章を紙に出力して(スクリーン上、ましてや横書きだったりすると、プロの校正者でもすべてを拾うことは難しい)、指や鉛筆を当てながら、いつもよりゆっくり読む。ときには声に出してみる。場合によっては、定規などでとなりの行を隠しながら読む。これだけでよい。可能ならば、実際に組まれた状態で出力することをおすすめするが、これだけでも拾えるものがある。これを素読み校正という。原稿と一字一字突き合わせておこなう突き合わせ(引き合わせ)校正と比べれば、これは、少なくとも自分で文章を書くことができるならば、ほとんどのひとができることである。もちろん、精度はプロに劣るだろう。素読み校正にも、もちろんコツや勘というものもある。だが、やっていること自体はそれほど特別なことでもない。

 もし、この程度の手間も惜しんで「趣味だから仕方ない」といっているのであれば、それは努力の放棄であり、それを許してくれる周囲への甘えだろう。ちなみに、これは私独自の方法ではなく、ちょっとGoogleなどで「同人誌 校正 コツ」などと検索すれば1ページ目でヒットするくらいの記事の情報である。忙しいというけれども、この方法は、一般的な同人誌くらの分量であれば、細かい校閲をしようと思わなければ、たぶん半日もかからないでできることだ。少なくとも、「書く」ことの方が余程時間がかかる。*2

 だったら商業誌を買うべき、同人誌を買う人間ではない、については、開き直りと言うほかない。そして、「誤字脱字は自分で変換してよむべき」については、なぜ読み方まで強制できるのか、という疑問がある。個人がそのようにして読むのは当然自由だが、それは押し付けられるものではない。文字で綴られた文章を手渡しておいて、そこに書いていない文字を読んでくれ、あるいはその字は読まないでくれ、とはいくらなんでも苦しい。

 また、その補った文字が、果たして作者の意図したものであるか、万人に共通のものであるのか。たとえば助詞。「彼のこと嫌い」という文があり、ここに助詞の脱落があったとしよう。「彼のことが嫌い」「彼のことは嫌い」「彼のことも嫌い」などが考えられる。どれもニュアンスが異なる。いくら前後関係があったとしても、読者のあいだで百パーセント一致するのは難しい。「脳内変換」というが、その変換が正しい保証がどこにあるのだろう。今回、どうにも作品をつくってくれた作者に感謝すべきだとの論調が目立つのだが、その割に、作者の意図しないかもしれない読みが生まれうる読み方を推奨するのはどうなのか。

 そもそも、この「彼のこと嫌い」という文章は、とくに小説であったら、このまま正しい文章、という可能性だってありうる。私の知っている範囲で、とにかく日本語はそのあたりが緩いといえば緩いし、柔軟だと言える。だからこそ、特に本という形で渡されたものは、そこに書かれている表記がその本のなかにおいては正しいものである、という前提がなければ、いったい何を信頼して読めば良いのか、分からなくなってしまう。言葉に注意を置いているひとならば、各々の読者の「脳内変換」がいかにあやふやなものであるか、当然分かっているはずだ。校正・校閲には、事故防止としての役割がひとつとしてあるし、ブラッシュアップの役割も果たす。そもそも、自分の文章を読みかえさないで公開し、ましてや頒布してしまうなど、校正・校閲の話よりも前の段階で、手抜きにもほどがあると思うのだが。

「同人誌は儲けの出るものではなく、その頒布価格は材料費と作業費である。読者は、その分のお金を渡して、それを読ませてもらっている立場だ。だから対価を求めるのはおかしい」。そのような考え方があるのか、と驚かされた。また「頒布」という言葉をそのように用いるのか、と。*3たしかに、内輪ではそういうこともあるのだろう。事実私も、自分の本をいつも買ってくれるひとが作った本は買おう、と思っている。そういった付き合いは、たしかにある。

 しかし、それは他の読者には関係のないことではないか。買い手は黒い染みのついた紙の束を買っているのではなく、その本、そこに書かれた文章を買っているのである*4。その文章に、先も指摘したような瑕疵があったら、それは落ち度である。もちろん、見て見ぬ振りをしてくれる読者もいる。それは、そのひとの善意である。しかし、善意に寄りかかってばかりではならない。それは「趣味」の活動に限った話ではない。

 実際問題、読み手は自分のお金を払って、その文章を買う。それは紛れもない事実だ。たとえ「趣味」だろうが、ひとが自分の作ったものに対してお金を払ってくれるというのは凄いことなのだ、ということは意識してもしすぎることはない。その意識が、お金を払ってくれるひとに対する最低限の責任、あるいは、相手に示すことのできる真摯さではないだろうか。それを、「頒布」という言葉を免罪符にするのはいかがなものか。質問者は言っている。「無料で読めるpixivであればこのような事には触れません。しかし、出版物はその価値に見合った代金を貰い人の手に渡るものです」。この「見合った『代金』」云々について、またひと悶着が生まれてしまったのだが、しかし、それに対して、これは材料費と作業費だからとの反論は、だったらあなたたちが頑張って作って、そして買って愛しているものとはいったいなんなんだ、と問いたい。その擁護は、私にはむしろ作品の価値を貶めているように聞こえる。*5

 

 ここまでいろいろいってみたが、要は、この「二次創作」、ひいてはいわゆる「同人誌」とは閉じたジャンルで、外部の読者を拒んでいるのではないか、というのが結論だ。このコミュニティの掟が分からないものは入ってくるな。そのように言っているように思えた。だから、その安寧を揺るがしうるアクション(今回の場合は間違いの指摘)に、これほどまでに過敏に反応しているのだろう。つまり、ここのひとたちがしたいのは「本を造ること」ではなく、二次創作や同人誌で繫がることなのだろう(ゆえに、よりコストパフォーマンスが良く、かつ一定以上のクオリティと利便性を望めるメディアが登場したら、あっさりと「同人誌」という形態は捨てるかもしれない)。だから、ここまで私が言ってきたようなことは、もしかしたら見当違いも甚だしいのかもしれない。

「校正は専門のひとがやる仕事であり、書き手の仕事の範疇ではない。別途報酬の必要となる仕事なのだから、それならずっと価格が高くなっても同人誌を買うのか」という種の批判が、数多くみられた。私は、「同人『誌』をつくって頒布しているのだから、当然発行者として、委託するにしても、編集、ブックデザイン、校正・校閲のような種々の責任も負うのではないか。なぜ書き手の役割のみで良し、あとは管轄外とするのか」と最初に感じたが、もし本を造っているつもりではないのだとすれば、いちおうは理解できる。*6

 話を戻すと、「趣味で造ったものだから誤字脱字があるのは仕方ない、むしろそれが味」という言葉をとらえて、それは、これまで数多に造られてきた「本」というものに対する軽視にほかならない、と感じ、「本を造る」ことの意味を考えてきた私が勝手に憤った。ただそれだけのことなのかもしれない。

「他の読者」とさきほど言ってしまったが、このような界隈は、私のような「他の読者」を求めてはいないのだろうか。同人誌ではなく、繫がりを買っているのだとすれば、たしかに今回のような指摘は余計なものかもしれない。

 私はそもそも、二次創作が悪いなどという話をするつもりはまったくないし、まったくミスをしてはならない、とも言わない。クオリティが低いこと自体は、まったく問題にしていない。意にそわない意見だったからスルーするとしても、一顧だにしないのは少し問題だと思うが、一度飲み込んだ上で採用しないと決めたのであれば、それは構わない。それこそ、作り手の自由である。ただ、最初から、「まあ趣味なんだし、こんなもんでいいよね」みたいな空気が蔓延しているなら話は別だ。そのようななあなあの空気を感じて、真面目な者は去っていく。すると、内輪感がさらに強まる。新規参入への心理的障壁が高くなる。そして、やがてはジャンルの消滅につながる。私は、それを危惧している。決して、他人事ではないからだ。

 

 そのような危機意識も手伝って、私は、趣味でつくった本だから質が悪くても当然、むしろそれが味、という声に、素人なりに懸命に本を造ってきた者のひとりとして、反論しただけのことである。私は、二次創作の同人誌も含めて、真剣に本の質を高めようと努力し、試行錯誤しているアマチュアを数多く見てきた(ここは自信をもって言うが、私だってその一人である。「ソガイ」では、フリーペーパーを含めればいままで5冊の本を造って、私自身はほかの活動もあわせれば10冊ほど、本を造ってきた。明らかに、回を重ねるごとに質は上がっている。それは、毎回自分の造ったものを見直して、反省しているおかげだと思う。当然、校正・校閲の精度もその一つだ)。このような言い方で「同人誌」というものを括られ、そういったひとたちの思いが踏みにじられたように感じた。「部外者」たる質問者を批難し、それにより傷ついた仲間を庇うのはある意味当たり前の反応であるのかもしれないが、その擁護の仕方を間違えると、その言葉が知らぬ間に、ほかならぬ仲間を傷つけているかもしれない、ということを考えていただきたい。事実、Twitterだけでもそのような声は見られた。

 

 最後に、これは余計なお節介かもしれないが、ひとり出版社夏葉社、島田潤一郎の言葉を紹介しておきたい。

 夏葉社はおもに復刊をメインとして細々と、しかししっかり仕事を続けている出版社だ。ここの本は、けっして大衆受けするものではない。しかし、だからこそ彼は、分かってもらえるひとだけに分かってもらえばいい、という考え方はしていない。なぜか。

 ぼくは、どんなに努力をしても、お客さんの何割かは必ず離れていく、ということを経験的に知っている。

 かつてのぼくが、大好きだったアーティストの新譜をあるとき突然買わなくなったように、彼らはある日、夏葉社の本を買わなくなる。(『古くてあたらしい仕事』新潮社、132頁)

 だから彼は、「門戸をひらいておくこと」を重視する。そのひとつとして、ここでは可能な限り若者にも手に取ってもらえるような価格設定があげられているが、それは趣味でやっている同人誌であれば、もしかしたら優先順位が落ちるかもしれない。しかし、以下は趣味だろうが商業だろうが、変わらない点だ。

 わかっている人たちにわかっているものを届けるというスタイルでは、ただただお客さんは漸減する一方だ。彼らの不在を補塡するのは、さらなる定価の上昇であり、さらには「限定」という販売スタイルにほかならない。(同書、133〜134頁)

 私が「内輪の空気」を問題視するのは、このためだ。閉じこもっていてはひとは減り、それに伴ってより鍵は強固になって、そしてやがて廃れるのだ。この負のスパイラルに陥る要因のひとつが、「内輪の空気」なのである。

 門戸を全開にしておけ、とまでは言わない。ただ、内側から鍵を閉めないでほしい。ちょっと窓を開けてくれるだけでも構わない。

 私は、同人誌界隈が本当は誤字脱字に無頓着なのではなく、危険因子となりうる要素を締めだして内部を強固にするために躍起となり「仲間」の擁護に走った結果として、今回のような騒動になっていったのではないか、といまは危惧しているし、自分自身、反省している。前々から感じてはいたが、どこか「同人誌」は商業誌に劣るもの、というニュアンスで語られている、しかも、それは「同人誌」界隈においてすら共有されている価値観になっているのではないか。私は、それは少し違うと思うし、危険だとも思う。クオリティが低いことをアイデンティティにする。それは、売れないことをアイデンティティとする一部の「文学」界隈とパラレルだ(しつこいようだが、私は、クオリティが低いこと、売れないこと自体を責めたりはしない。ただしそれを誇っているならば、それは問題だ、と言っているだけだ。自分を守っているつもりかもしれないが、その意識、言葉は、自分を内部から蝕んでいく)。

 同人誌はオルタナティブな出版物としてあるものではないか。

 商業誌はたしかにたくさんの人の手が掛かっているし、資金力も桁違いだ。しかし、民間企業なだけに、それだけ制約も大きい。資本があるからといって、必ずしも出したい本が出せるわけではない。会社であるからこそ、出すことのできない本というのも多いし、嫌々出している本もまた、あることだろう。一方、同人誌ではその手の制約は小さい。ゆえに、同人誌でしか出せない本というものが、たしかに存在するはずだ。商業誌に従属するのではなく、商業誌の不足分を補っている。それくらいのポテンシャルと意義があると思っている。だからこそ、「本造り」の精神という面においては、商業誌だろうが同人誌だろうが、根っこにあるものは変わらない。技術では必ず劣るのだから、せめて精神が同等でなければ商業誌の不足を補うなど、到底不可能だ。そうなれば、やはり同人誌は下部組織で終わり、生まれては消えていくことだろう。

 私は、多様な出版の形があってほしいし、むしろ出版はそうあるべきだと思うが、この傾向が続くなら、やがては一極集中が進み、同人誌が、オルタナティブの本としてのあり方を棄てざるを得ないときが来るのではないか、とも感じている。いや、すでにその歩みは進んでいるのかもしれない。私などはここに、最近の「講談社文芸文庫界隈」とあえて言ってしまうが、同様の問題を抱えていると思っている。おそらく、いまの同人誌のあり方を擁護する人のなかには、「とはいえ、仲間内で盛り上がることが目的なのだからいいじゃないか」と思っている人も多いと思う。しかし、それではやがて廃れるのだ。本当に好きなら、続いてほしいのなら、酸欠を避けるために、どこかに外と通じる隙間を開けておかなくてはならない。「本」というものについて、その窓となるひとつに、ふと手にとっても余計なつっかかりのなく読める文章を作る、「校正・校閲」という作業がある。

 今回、私は自分の造るものに「同人誌」の名を冠し、そしてそれを「頒布する」という言い方をするのをやめようかとも考えた。単純に、「本」を造って「販売する」と言えばいいのではないか、と。しかし、私はまだ同人誌の持つ意義を諦めたくはないようだ。だからもうちょっと、頑張ってみる。私はこれからも、質の向上を諦めず、開かれた本を造るよう考えていきたいと、改めて思った次第だ。

 

 また、だれもが情報発信をできる時代において、一般のひとに向けて校正の心得を説いたものとして、大西寿男の著作が参考になるだろう。電子書籍で手に入るものに、『校正のこころ 積極的受け身のすすめ』(創元社)がある。また、もっと手軽にセルフパブリッシングに必要な校正のコツを解説した、同氏の『セルフパブリッシングのための校正術』(NPO法人日本独立作家同盟)も、Kindleで購入できる。ち*7そのほか、読みもの感覚で楽しく校正を体験できる講談社校閲部著『間違えやすい日本語実例集』(講談社文庫)もおすすめだ。

 本を造ろうと思い、そして手がける。それは凄いことで、そして勇気のあることなのだ。ある種の後ろめたさを持ちながらも、それは自信を持ってもよい。だったらなおさら、少しくらい「本」というものについて勉強してみてもいいのではないだろうか。それが、自分の文章をだれかに届けてくれる「本」という道具であり、容器であり、ものに対する誠意ではないだろうか。書き手だけでは、本は生まれない。

 本は、ひとつの総合芸術だ。校正・校閲も、その質を担う、本の一部である。読者の存在なくして立ち現れることのない「本」。その読者を想定したときに自ずとおこなわれるはずの工程、その一つが校正・校閲だ。これは商業誌特有の工程ではないし、「同人誌」を造る際のオプションなどでもない。

 

(矢馬)

*1:今回は、この匿名で誤字脱字を指摘することの是非についても議論があったが、それは別の問題なので措く。

*2:そもそも、校正の専門技術は望めないとしても、校正の意識を持っていない書き手とはあまりにも危険な存在だと思うが。

*3:もちろん、近代文学についても多少勉強してきた身から言わせてもらえば、かつての同人誌はプロになるための練習と切磋琢磨の場として機能しており、ときに書店において、商業誌と肩を並べるものでさえあったのだから、そういった「同人誌」観が絶対であるとは言えないし、むしろ、それは割と最近の考え方なのではないか、と思う。

*4:ここには、そもそも同人誌というものは買うのではなく、お金を渡していただく「頒布物」だ、との批判があろう。しかし、ならば同人誌即売会の「売」の字はなんなんだろうとも思う。また、「頒布」とは辞書的な意味で「広く行き渡らせること」との意もある。果たしてこの「頒布」は、「広く行き渡る」ものだろうか。

*5:また、「同人誌は出版物ではない」との意見もかなり見られた。この認識は、決して特殊なものではないことが、Twitterの反響で見えてくる。この点については非常に驚き、そしてがっかりした。だとすればなにを言っても意味はないのかもしれない、と徒労感を覚えるが、百歩譲ってそうだったとして、だからといって校正・校閲を怠っていい理由にはならない。なぜだか校正は出版物においてやるものだ、との誤解があるように感じたのだが、チラシやカタログ、社内報、大学のパンフレットや、ティッシュやナプキンのパッケージなど、このような商業「印刷物」にも、校正の目は入る。これはかつて、私が実際に請け負ったことのある校正対象だ。この「商業」の部分が同人誌の理念とは異なる、と言われてしまえばもうなにも言うことはないが、ともかく、「印刷物」も校正はする。まさか、同人誌が「印刷物」ですらないとは言えないだろう。

*6:ただ、作業費云々については、それこそ趣味でやっているものであるのだったら赤字になるというか、出費が出るのは普通ではないか。なぜ当たり前のように頒布の収入でペイしようとしているのか、という疑問はある。が、このコミュニティを維持させるために、このコミュニティ内での収支をゼロにする必要が、たしかにあるのかもしれない。ただ、現実、校正のあるなしで本の値段はそれほど変わったりはしない。校正者は、残念ながらそれほどの対価を得られるような仕事ではない。校正の目が入ったからといって、1000円の本が4000円になったりはしない。見方を変えれば、本造りにおいて校正・校閲とはほんの一部分だとも言えるし、それくらい、やって当然のことだとも考えられる。

*7:なみにこの本で、大西氏はやはり、セルフパブリッシングの難しさとして、一人の人間が著者と編集者と校正者の役割を果たさなければならないこと、と言っている。校正者の役割を放棄したセルフバブリッシャーは、想定されていない。当然だろう。