ソガイ

批評と創作を行う永久機関

「ソガイ〈封切〉叢書」開始について

 「ソガイvol.5」の編集をしていたのは主に2月から3月のことであるが、計画を立て始めたのは年が明けるよりも前のことだ。当時、世の中がこのようになることは予想できなかった。ソガイはそれまで、個人的に直接手渡す以外では、文学フリマ東京での販売のみでおこなっていた。その文学フリマが中止になった。販売の経路を失った。

 次回の開催に向けて刊行をスライドする選択肢もあった。多くの在庫を抱えている現状を見るに、そうするのが賢明だったのかもしれない。しかし、そうはしなかった。

 なぜか。文学フリマが中止になったことで、いかに自分が文学フリマが作ってくれる場に依存していたかを思い知ったからだ。文学フリマは、多くのアマチュアが集う文章系同人誌即売会だ。出店者はもちろん、客として来る人も、アマチュアの書き手が作る本に興味を持っている。つまるところ、出店すること自体が宣伝であり、集客は完全に任せてしまってもある程度問題ないだけの場を作ってくれている。

 もちろん、そこで生まれる横の繫がりも大事だし、単に他の人の活動を見て刺激を受けることもできるから、これからも時間が許す限りは参加していこうと思っている。

 しかし、同時に文学フリマに頼らない販路を開拓することも大事なのではないか、と、多くの書店の休業も相まって、強く思うようになった。それは、本というものは可能な限り、いつ・どこでも手に入れようと思えば手に入るものであることが理想だ、と考えるようになったからだ。たとえ、それで1冊も売れなかったとしてもいい。手に入る手段を開いておくことが肝腎なのだ。1年に2回、そして文学フリマの会場のみでは足りないのではないか。そう考えた。

 もちろん、私程度の発信力では、文学フリマにおける注目と同程度のものを集めることは不可能に近いだろう。本当に1冊も売れないかもしれない。その可能性まで考えた。その場合、自分はがっかりしてやる気を失ってはしまわないだろうか。正直、不安もあった。それでも、始めるならいましかないと決心し、そのひとつの試みとして、BOOTHを利用した自家通販を始めた。幸いといってよいのか分からないが、注文が殺到するようなことはないので、これならある程度仕事と両立できると感じている。もっとも、BOOTHだけで満足するつもりはなく、他にも販路を開拓していきたいと思っている。

 

 前置きが長くなったが、この度、販路とはまた別の新たな試みとして、新レーベル〈封切〉叢書の刊行を開始した。製造のほぼすべてを自分でおこなう手製本のシリーズだ。https://sogai.booth.pm/items/2184696

f:id:sogaisogai:20200711112645j:plain

〈封切〉叢書第一号「墓地のムラサキカタバミ」(見本)

 なぜこのような手製本を始めようと思ったのか。主にふたつの理由がある。

 ひとつ。「ソガイvol.5」で「本造り」について調べ、書く中で、もっと「本造り」の工程を自分の身を以て体感したい、と思った。本を作るのは、これはこれはとても大変なことなのだ。

 しかし、技術の進化によって、案外それが忘れられているのではないか。そう感じる出来事が、いくつもあった。私だって、そのような技術の恩恵にあずかっている。もちろん、技術を活用することは悪いことではないのだが、そこでおこなわれている行為の仕組みを知っているのか知らないのかでは、物に対する向き合いかたが変わってくるのではないか。たとえば、活版印刷時代の文章差し替えの大変さを知ることで、原稿の段階で完全原稿に近づけようとする大切さを知る、といったように。これは懐古主義ではない。しかし、たとえば研究などでもそうだが、後の時代に生まれた、ということはそれだけで有利なのだ。なぜなら、過去の産物の蓄積を無条件で参照できるからだ。

 もちろん、その優位性に溺れてはならないが、しかし、その利用を遠慮することはない。思う存分、利用させてもらえばいいのである。せっかくそこに、過去の多くの人の知識や経験の結集の成果があるのだから、それを使わない手はない。個人的に、いま本を作る人は、戦前のものまではとは言わないが、活版印刷時代の本も含めて市販の本の造りを一度くらい、しっかり見ておくべきだと思う。同人誌を見ても、この作り手はいまの本しか見ていないな、というのは案外感じられるものである。

 もちろん、書店に並ぶものには反面教師となる本もある。大手出版社から出ている本だからといって、質が良いとは限らない(名前は挙げないけれど、私は一社、文庫でも単行本でも、どうしても組版が好きになれない出版社がある)。私は本を造るようになって、市販されている本の装幀や紙質、版組などが気になって仕方ない(書店で本を手に取ると、まずカバーを眺め、重さや固さを確認し、版組を分析、最後にカバーを外して表紙を確認するのが癖になってしまった)。

 ふたつ。小回りが利く刊行物がほしかった。私はたまに、ブログにやや長めの文章を書くことがある。それも悪くはないのだが、改めて自分の記事を読むと、ブログの形式でその分量は厳しいものがあるのではないかと思うようになった。どちらが優れているとか劣っているとか、そういうことではなく、フォーマットによって合う文章と合わない文章がある。思うに、ある程度の分量の文章の場合、縦書きで本の形式にした方が合う。とはいえ、5000字程度ではいままでのような1冊の本にはならない。

 だったら、その分量に合うフォーマットを作ってしまえばいい。「小さい出版」。先例は平出隆「via wwalnuts 叢書」など、いくつかある。そういったものを参考にして、思い立ったらすぐに「本」にできる形式をひとつ、方法として持っておく。それにより、活動の幅、そして文章の幅も広がるのではないか。そんな期待も込めている。

 

 見てもらえば分かるだろうが、この叢書はかなりシンプルな作りだ。そして、それは「ソガイvol.5」でも同様だ。文学フリマのみならず一般の新刊書店を見ていてもそうなのだが、本がきらびやかになりすぎているのではないか、と感じることが多くなった。それは私の考え方が変わったことも要因としてあるのだろう。

「ソガイvol.5」に詩を寄稿してくれた冨所くんは、「ソガイvol.5」の表紙について、時代に逆行するかのような表紙、と言ってくれた。それは私の期すところでもあった。「空気のような」ものであること。それがいまの私の目指すところだ。彼が「時代に逆行するかのような」と感じた要因はおそらく、ソフトの機能の存在感が薄さではないか。実際は、この表紙の作成には慣れないIllustratorを使っているし、絵の編集にはPhotoshopも使用している。中の組版だって、当然InDesignを使っている。どっぷりAdobeに浸かっているわけだ。しかし、それらのソフトを駆使していますよ、という感じが前面に押し出されることは避けたかった。技術が、ソフトの機能が主役に取って代わってはならない。

 そう思いながら、しかしここまで技術が進化した時代のなか、それを貫くことは極めて困難なのかもしれない。いっそのこと、と技術をふんだんに盛り込んでそれでもってアピールする出版物も、私は与することができないが、ひとつの方法としてあるのかもしれない、と感じてもいる。しかし、それでも抗いたい。本が、かならずしもオシャレである必要なんてないはずだ。

 この叢書の製作を通じて、私は手作業の持つ身体性を忘れないようにしたい。

 

〈封切〉叢書という名前は、我ながら良い名付けだと思っている。封切りといえば、まず映画の公開のことが思い出される。本に置き換えたとき、それは切られていないページを切って開くことになるだろう。ところで、「封」じられた「筒」で「封筒」である。封筒の中身を取り出すためには、「封」を「切」る。そうすることで初めて、受け手は中のものを取り出すことができる。

 つまりこれは、本造りの工程の最後に読者を巻き込んでしまおう、という発想から生まれた出版物だ。そのためにはぴったりな封筒が必要で、当然、そんな都合のよいものが市販されているはずがなく、だったら封筒から作ってしまえばいいではないか、と(別に悪事ではないけれども)毒を食らわば皿まで、みたいな気持ちでここまで至った。

 あまり多くの読者は望めないだろう。それでも続けていくし、やがては執筆を依頼することもあるだろう。少しでも興味を持ってもらえたらな、BOOTHのページを覗くだけでもしてくれると嬉しい。

 

補足

 SNSで画像を載せて紹介しようと思ったら送り主、受け手双方の住所が載っているからできなかった、という声があった。いや、まったくその通りで、私もBOOTHのページに載せる用の写真を撮ろうと思ったとき、初めてその問題に気づいた。この時代にあってSNS戦略をまったく考えていなかったとは、我ながら呆れるほかない。この点については次号以降での課題としたいが、しかし難しい問題だ。

 

(矢馬)