ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ5

 最近、少し記事の更新が滞っている。別のところに寄稿する文章を書いていて、そのための調べ物もあったりしたことが主な要因なのだが、少し疲労があって、さらに文章を書くだけの余裕がなかったのも事実だ。ただ、それでも本自体は読んでいて、特に池内了『寺田寅彦と現代——等身大の科学をもとめて』(みすず書房)と、山本貴光『マルジナリアでつかまえて——書かずば読めぬの巻』(本の雑誌社)は非常に面白かったので、おすすめです。

 さて、この前者の本には「セレンディピティー」という言葉が出てくる。セレンディピティーとは「偶然に幸運な予想外の発見や発明をする才能」のことであり、とくに科学の分野で用いられることが多いらしい。また、この「偶然」には「失敗」が絡むことも多い。有名な例では、フレミングのペニシリンの発見がある。ブドウ球菌を培養している際、誤ってカビの胞子を落としてしまったところ、カビの周りのブドウ球菌が溶解していることに気づく。そこで調べてみると、アオカビから抗生物質が発見された、という次第。あとは、ポストイットなんかもそうである。

 もちろん、セレンディピティーには運が大きく絡むのであるが、だからといって運だけがあっても不十分だ。そこには、運を待ち受ける心構えと洞察力が求められる。

 研究者は、誰でも一度や二度は大発見に近づくことがあるが、大ていは気づかないまま平凡な研究者で終わってしまう、と言われる。質的な研究には「待ち受ける心構えと洞察力」が必要なのだが、いずれか(いずれも)の能力に欠けているため幸運が訪れないのだ。(32〜33頁)

 寺田寅彦といえば、日常生活のなかの科学という考え方を持っていた科学者だ。寺田は、数量的に計算することばかりに焦点を当てた量的研究の偏重を非難し、思いつきや直観といった質的研究の重要性を説いた。寺田のエッセイは最近、やたらと角川ソフィア文庫でまとめられているから、読もうと思えば簡単に読むことができるので、是非ともおすすめしたい。例の「災害は忘れた頃にやってくる」という警句のように、もっとも、寺田がこの言葉をそのまま言った文章はないのだけど、とにかく寺田が書いていることは現代でも通用する普遍性があるし、「珈琲哲学序説」なんてものもあるように、着眼点がおもしろい。

 そんな寺田は晩年、「道草食いの怠け者ともいうべき純粋な科学者」が必要だ、と説いている。もちろん、彼はいわゆる勤勉な科学者を否定しているわけではない。寺田は学際的な考え方を重視しており、専門外の事はなにも分からない、という態度をいましめていた、と取るべきだろう。それに、道草食いができないひとには、偶然が乏しい。よしんば出会ったところで、そこから発見を見出すことも難しいだろう。つまり、セレンディピティーがない、ということになる。

 さて、「セレンディピティー」といえば、外山滋比古に『乱読のセレンディピティ』(扶桑社)という本がある。存在は知っていたが、いままで読んではいなかったこの本を、良い機会だからちょっと読んでみようかと思い、手に取ってみた。

 細かい説明は省くが、外山さんもやはり、専門外の領域のことはなんにも分からないという態度をいましめている。また、「アルファー読み」と「ベーター読み」という分類が面白い。アルファー読みとは、事柄、内容について、読み手があらかじめ知識を持っているときの読み方、ベーター読みは、そうではないときの読み方のこと。いうまでもなく、乱読に必要なのはベーター読みであるが、学校教育ではアルファー読みばかりが鍛えられ、それが良くないと言っている。

 このようにして、セレンディピティーを起こしうる「乱読」というものを勧めるなかで、次のような一節がある。

 乱読はジャンルにとらわれない。なんでもおもしろそうなものに飛びつく。先週はモンテニュー【ママ】を読んでいたがちょっと途中で脱線、今週は寺田寅彦を読んでいる。来週は『枕草子』を開いてみようと考えて心おどらせる、といったのが乱読である。ちょっとやそっとのことでは乱読家にはなれないのである。(75頁)

 なんとも唐突に寺田寅彦の名前が出てくる(ところで、ここで「モンテニュー」と記されている人物は、後のほうでは一般的な「モンテーニュ」と書かれている。私が参照したのは単行本だが、この前書店で文庫版を覗いてみると、この表記に変化はなかった。だが、先に引用した箇所は文庫版の帯に引用されており、そこでは「モンテーニュ」となっている)。というのも、外山さんが学生時代に寺田寅彦の文章を愛読した、ということらしい。そんなこともあってか、この本のなかにも「道草」という言い回しが出てくるのがおもしろい。ところで、この「道草」、寺田寅彦が師事した夏目漱石に同名の小説があるが、そのこととなにか関係があるのだろうか。

 それはさておき、この『乱読のセレンディピティ』は最後のほうは、外山さんの「散歩のすすめ」となっている。散歩をすると頭がすっきりし、考え事もはかどって、思わぬ思いつきがある。その上、健康にもいい。良いこと尽くしだ。散歩とは、いってしまえば、道草を食う歩行である。私もよく散歩をするのだが、出掛ける前、しばしば家の者から、どこに行くのか、何時くらいに帰ってくるのかと訊かれる。しかし、これは困る。なぜなら、目的地がないのが散歩であり、ゆえに時間もそのとき次第としか言いようがないのだ。

 と、こう考えて、そういえば最近はちょっと散歩をしていなかったことに気が付いた。これはもしかして、最近ものを書く気になかなかならないのは散歩が足りていないせいなのではないか。ということで長めの散歩をしてみると、ほどよく汗もかいて、こうして多少は文章を書くこともできたのだから、やっぱりものを書くにも、心身の両輪が必要だというわけだ。というより、そういえば私はもともと道草を食うような文章ばかりを書いてきた。そのことを思い出した。ともかく、これからも散歩を日課にしていきたい。

 さて、しかし、実のところいまの私にもっとも足りていないのは他のところにもあるように思う。それは、『乱読のセレンディピティ』でもうひとつ勧められていること、「乱談」である。この情勢下、ひとと会う機会が減った。これは私にも身に覚えがあるが、おしゃべりをしているときほど頭が回り、思いも寄らない発見が生まれる時間はない。こう見えても、私はスイッチが入ると何時間でもしゃべり続けてしまうほどにはおしゃべりだ、ということに数年前気づいた。基本、話したくて話したくて仕方がない。それが、最近はめっきりできていない。これが良くないのではないか。

 もちろんまだ完全に安心できる状況ではないけれど、その点には充分気を付けつつ、少しずつ人にも会っていきたいな、と思った次第である。

 

(矢馬)