ソガイ

批評と創作を行う永久機関

体の一部としての本—「本づくり学校修了展」製本ワークショップ体験記

 8/22の土曜日。休日にもかかわらず、明らかにいつもより人通りの少ない浅草の町を歩き、浅草Book&Designにて8/22〜24に開催されている「本づくり学校修了展」、そこで行われている製本ワークショップに参加してきた。(http://misuzudo-b.com/news/291/ 2020/08/23閲覧)

 私は最近、「ソガイ〈封切〉叢書」という手製本のシリーズを始めた。なぜ手製本を始めたのかという理由については前に書いたのでここでは割愛するが、

 

www.sogai.net

 

この本を買ってくれた大学時代の後輩がこのワークショップのことを教えてくれ、誘ってもらった。

 この日は「和装本四つ目綴じ」の製本の体験だった。私は〈封切〉叢書で三ツ目綴じを採用しているが、それは綴じ方が比較的簡単であることのほか、私が作成しているのが16頁のA6判、つまり薄い文庫判ということもあって、穴は3つくらいでも充分であると思ったのが理由だ。

 当然のことだが、本の綴じ方にはかなりの種類がある。糸での綴じ方に限ってもそうだ。日頃「本」とひとくくりにして言ってしまうが、その本にもいろいろな形がある。

 いま新刊書店で売られている「本」は、そのほとんどが洋装本であろう。洋装本とは読んで字の如く、ヨーロッパ風の製本方法で作られた本であり、背を表紙で覆い、本文は紙の両面に印刷するのが一般的だ。日本には1873年に、お雇い外国人のパターソンがその技術を伝えたと言われており、明治末期には、新刊はほぼ洋装本に移行したという。いま、普通「本」といえば洋装本のことを思い浮かべる人が大半だろう。

 しかし、それまでは洋装とは異なる製本、洋装本が流入したことにより和装本と呼ばれるようになった本が普通だった。和装本は、洋装本とは異なり背はむき出しになっており、本文は紙の片面に印刷し、袋とじで綴じられるのが普通だ。少し話が逸れるが、日本に今の形の本棚が登場するには、洋装本の普及が必要だったことはいうまでもない。洋装本は厚紙で背まで覆うので自立するが、和装本は、平らに積んで収納するのが普通だ。製造方法や材料が変わることで、その受容のされ方もおのずと変容していくこと。これは重要なテーマとして私が抱えていることだ。

 話を戻す。拙いとはいえ手製本を始めたからには、一度は和装本を作ってみたいとは思っていた。この日体験した四つ目綴じは、和装本のなかでも基本中の基本の綴じ方であるようで、そういった意味で、これは良い経験になるだろう、とワークショップが始まってすぐに感じた。

 まず最初の工程は、本文用の和紙(今回は「牡丹」という和紙だそうだ)32枚を1枚ずつ半分に折ることだ。このとき使うのが、「折りへら」という竹の長方形のへら。このへらを、重なった紙の束の上で軽く左から右に擦っていくと、一番上の1枚だけがずれていく。その1枚をやはりへらで掬い、指で角に直角を作っておきながら角と角を重ね、折りへらで空気を抜くようにしながらすうっと軽く引いて半分に折り、それをひっくり返しながら左側に置く。これを32回繰り返す。とりあえず、先生のお手本を見よう見まねになぞっていく。最初の数枚は、あんな風にスムーズにはできないよ、と思っていたのだが、回を重ねるごとに、借り物である折りへらが手になじみ、やがて体の一部であるかのように自在に微妙な力の入れ具合も調整できるようになった感じがした。32枚が、思いのほかあっという間だった。

 その後、刷毛を使って背を軽く湿らせる水引きをし、(台座と兼用の)重しを乗せたあと、背から13ミリ、天地からそれぞれ50ミリのところに印をつけ、めうちと柏木を使って、穴を空けていく。このときも、目打ちを支える左手の側面で紙を押さえる、柏木を持つ右は肘を上げて水平にし、手首のスナップを利かせて目打ちと垂直に振り下ろす。上手く打てれば、柏木はカコーン、カコーンと高い音を立てる、とコツを教授される。その通りに体を使うと、たしかに柏木は金属音のような音を立て、まっすぐと穴が空いた。そこにこよりを差し込み、先をハサミで切って、めうちの背などを使って穴をこよりで埋める。

 次に、角を保護する角裂(かどぎれ)を貼るのだが、今回、私はここがちょっとうまくいかなかった。締めが弱かったのか、少ししわが入ってしまった。そんなに間違ったようには思わなかったのだが、思い返せば、たしかにこのとき、糊を塗るのに苦戦したためにかやや慌てていたかもしれない。繊細な作業には、微妙な心の動きも反映されてしまうようだ。

 表紙の和紙(光華紙というらしい)に芯となる紙を貼る。このとき、表紙の上下から五センチくらいのところの2箇所に糊を塗るのだが、ほんの少しで良いと言う。傍から見ていると、そんな少量でちゃんと付くのだろうか、と不安になるが、ここで糊を塗りすぎてしまうと裏側、つまり表に出る側ににじんで、そこだけ染みになってしまうのだと言う。その注意を受けながらも、私は片面で、その失敗を少ししてしまった。心配性も良くないということだろうし、加えて、私はこの糊の能力を理解していなかったということなのだろう(幸い、乾いてから見てみると、ほとんど目立たなくなってはいた)。

 その次の工程も、印象に残っている。それは、表紙を本文に貼り、はみ出た表紙の紙を、中に折り込んでいく「四方がけ」という作業だ。このとき定規をあてて使うのが、「かけへら」という、先が少し丸くなった竹の道具だ。これは紙に折り目の筋を入れるときなどに使う物だ。これを、スーッと2回引いて、先端を紙と台座の間に入れて紙を持ち上げ、今度は裏から1往復、軽く折り目を付ける。すると、力を入れず、綺麗に紙を中に折り込むことができる。これは、背から初めて、天、地、小口、と順番にやる。そしてもう片方の表紙でも同じ事をする。

 今度は、天地からそれぞれ17ミリ、そしてそのあいだを3等分するように2箇所、計4箇所に、先ほどと同じ要領で、しかし今度は大きめに穴を空ける。そして、その穴に糸を通していくのだが、これがなかなか力が要る作業だった。なにせ、1つの穴に糸が3回通るのだ。後になるにつれて、なかなか針が通らなくなる。うまく穴を広げながらなんとか通す。糸の結び目が目立ってしまうので、めうちの先端に糊を少しのせ、結び目を穴に押し込んでいく。終わったら、めうちについた糊はすぐに、濡れタオルで拭き取る。

 最後に、表紙の小口側1センチ程度の幅に糊を塗って、本文とくっつける。天地は浮いたままだが小口だけでいいのか、疑問に思ったが、和装本は小口だけで良いのだという。むしろ、天地までくっつけてしまうと紙がよれてしまうのだと。神保町の古書店などで和装本を見る機会があれば、是非確認してほしいと言われたので、これからは気にしてみようと思う。たしかに小口しかくっつけていないが、開いてみた感じ、まったく違和感はない。

 こうして1冊の和装本が完成した。時間にして2時間ちょっと。しかし、その時間をまったく感じさせないほどに楽しく、そして充実した時間だった。心地よい疲労感があり、小さな動きとはいえ、やはり体を動かす作業は良いものだなと思った。

 

 ところで、教えてもらいながら、ということを考慮しても、1冊の和装本を作るにはそれなりの時間がかかる。これは、手製の洋装本でも同じ事だ。

 いまや本は、大量生産大量消費の申し子のような存在になっているようにも思われる。そうでなければ、毎日のようにこれだけの本が作られはしないし、「週刊少年ジャンプ」の大人気作の単行本にいたっては初版300万部だというから、途方もない数字である。これには当然、産業革命に象徴されるような機械化が大きいわけだ。

 もちろん、私は機械化そのものを否定する気はない。今の時代、生活は機械抜きでは考えられない。大事なのは、機械とどのように付き合っていくか。そしてそれは、本という製品ひとつをとっても同じ事だ。

 おそらく私たちは、いまの大量生産される本というものを、あまりにも当たり前のものとして消費している。自戒を込めて、そう思った。同人誌についてはどうだろう。もちろん、そうでないものもあるだろう。しかし、たしかに少部数とはいえ、この大量生産の商業出版の延長線上にある意識で作っている人も少なくないのではないか。なにを隠そう、数年前に冊子を作り始めたときの自分も、多分そうだった。少部数を比較的安価に請け負ってくれる印刷所が、いまはたくさんある。同人誌が作りやすくなった一つの大きな要因はそこにある。そして、そのコストダウンを可能にしたのも、オンデマンド印刷を始めとした技術の進歩である。製作の工程の多くを、やはり機械に頼っている。

 しかし、いま自分たちを取り巻く環境というものを一度、立ち止まって考え直す必要がある時代に生きている。いままで「ノーマル」とされていたものへの反省を抜きに「ニューノーマル」を語ったところで、空しいだけである。

 特に私は「本」というものに(最近はほぼ絶望的な)関心を抱いており、今回の手製での和装本づくりの体験が、これからの本との向き合い方に大きな影響を及ぼすだろうし、そして社会に対する目も少し変わっていくだろう、と思う。

 

 ワークショップのあと、一緒に参加した後輩と喫茶店に入っていろいろなことを話した。思えば、人と面と向かってこんなにも話したのは相当久しいことだった。この情勢などのこともあってか、話題はどうしても暗いものになりがちだったが(私がもっと明るい話題を提供できれば良かったのだけど)、この日のワークショップのことについては盛り上がった。

 そんな話の中で、後輩は、道具が体となることの感動を口にした。今回の製本で用いた道具は、どれも作りとしては単純なものだ。作業台といっても、厚紙を重ねたものであり、頑張れば自分でも作成できそうなものだったし、その他に用意されていたのはバットだったり濡れタオルだったり、どれもそれほど特別なものではない。しかし、そのすべてが、本当にうまく機能するのだ。このどれかひとつがかけたら、非常に具合の悪いことになる。しかも、単純さ故にひとつの道具が幾通りの使い方で機能する。

 それを聞いて私は、そのようにして作られる「本」という物も、やはり体の一部となりうるものだ、といったようなことを言った。しかし、体の一部となるためには、ただ「本」という形をとっているだけでは不十分で、造本や組版が読書行為を阻害しないようなものにすることによって初めてそうなるだろう。たとえば、私が小口の空白を大きめに取りたいと思うのは、読むときに、きっちりと押さえつつも指が文字にかからないようにしたいからだ。「空気のような」造本、組版であるということは、それが体の一部である、ということなのかもしれない。

 そこから連想を繫げて、いまだに電子書籍が紙の本を上回るほどの勢いを見せない理由の一端も、そういったところにあるのかもしれない、とひらめいた。電子書籍はパソコンやスマートフォンでも読むことができるが、電子書籍リーダー端末に限ったとしても、やはりまだデバイスの域を出ていないのではないか。既存の紙の本のあり方を前提としたとき、電子書籍にはまだ不都合なところが多い、ということは話したことがある。紙の本に慣れた、「本」を自分の体の一部としている人にとって電子書籍は、まだ体になりきれていない。だから裏を返せば、これが「体」になってしまえば、電子書籍はその規模を大きく拡大させていくのかもしれない。そのためには、デバイスの機能を充実させるのと同時に、使う人間の方の意識の変化が必要となるだろう。

 数年前、とある印刷会社を訪問した際、電子書籍も製作しているが、売れる数の桁が文字通り、紙の本とは全然違うという話をしていた。やはり、電子書籍はまだあまり売れないようだ。しかし一度、運転免許の筆記試験の問題集を電子書籍で作成したことがあり、それは1頁に問題文、次頁に答えと解説が載っている、という単語帳のような作りだったのだが、これは(電子書籍にしては)売れ行きが好調だったという。この出来事が示すのは、この種の問題集の場合は、むしろ紙の本のあり方では、かさばること、隣が見えてしまうこと、裏が透けてしまうことなどなどが、本来の目的を阻害しており、電子書籍の方が、マルバツ問題を解く人間の「体」になり得た、ということなのかもしれない。

 どんどん話は逸れるのだが、先日、「作家は経験したことしか書けない」論争のようなものが、Twitter上で巻き起こっていた。どうやら発端となったツイートの思惑とはまったく異なる方向に進んでしまったが故の論争だったらしいのだが、それはともかく、いったい何十年前の議論で白熱しているのだろう、と正直辟易した。

 私の意見を言うと、「作家は経験したことしか書けない」というのは正しい。が、この「経験」が示す範囲が問題なのだ。これを生身の肉体でリアルタイムに接したこと、と限定するのなら、それは違う。

 上で、本も体の一部といった。だから、たとえば本を読んで知ったことも、それはその人の「経験」(「体験」と言ってもよい)ではないだろうか。そして、当然のことだが、優れた作品は作り手の体から伸びているもののように思う(そういった意味で、作品と作者を厳しく峻別する見方に与すことができない)。少なくとも私は、そのような作品でなければわざわざお金と時間を使って読む気にはならない(後輩とも話したが、そもそも1冊の本を読み通すことは非常に大変なことなのだ)。ある人の体の一部たる作品を、読者の体の一部たる本で読み、やはり体の一部にする(であるが故に、作者の意図を絶対視する読書観にもまた、首肯できない)。このようにして、人々の経験は受け継がれていくのではないだろうか。

 

 今回の展示では、本づくり学校を修了した受講者の作品が展示されている。まず新鮮だったのは、当たり前だが、判型がまったくばらばらであったことだ。日本でいま流通している本は、ほとんど判型が決まっている。文庫判、新書判、B6判、A5判で大半を占めるだろう。その理由はいろいろあるが、やはり大きいのが機械生産による規格化だろう。ここにも機械化の影響が見える。

 手製本だからこそ、多彩な判型が容易になる。実のところ、この判型の問題はかなり大きなものであると思う。ジャンルとして、判型に挑戦的なのは絵本だと感じている。大きさ、縦長・横長もバラバラ、長方形ではない物まである絵本の挑戦を、私はもっと注視すべきかもしれない。

(ここでひとつ言ってしまうと、本の規格化が及ぼした大きな問題だと個人的に思っているのが、「早稲田文学女性号」掲載の、黒田夏子「るす絵の鳥」である。この「女性号」については賛否両論あり、私にも思うところはある。だが、まず根本的な問題として、横書きで書く黒田夏子の作品を、縦書きの文章同様に右開きで掲載していることに、私は疑問を覚えている。他の文芸誌では当然、黒田夏子の作品は左開き、ほか作品とは反対の開きで掲載されている。この特別号は女性号というだけあってフェミニズムに焦点を当てた特集だと思うのだが、「右開き」という規範に愚直に従う姿勢を見ると、どうしても疑わざるを得ない。

 まったく偶然ではあるが、「るす絵の鳥」には「四つ目とじ」の「ちょうめん」が出てくる。)

 今回の展示で特に印象に残っているのが、お菓子の箱を表紙にした本のシリーズだ。コンビニに置かれている商品が、こうして立派な本になる。嗜好品的な食と、書の融合。これは極めて示唆的なのではないか。造本、それ自体が一つの書物論になっている。改めて、私は読書を、高尚的な趣味の領域に追いやってはならないことを痛感した。

 本の身体性。こう書くとなんだか言い古されたクリシェのようだが、今一度、真剣にこの問題について考えてみようと思った。そしてこれは、数年来、私を捉えて離さない「生と死」の問題とも、きっと深く関わっているはずだ。

 正直なところ、今はやや忙しない生活を送っている。心に余裕がなくなっているのが、自分でも分かる。だから、まずは今できること、つまり現在を真摯に生活することでそのときを待ち、そしてゆとりができたら、今度は洋装本に挑戦してみよう。

 

f:id:sogaisogai:20200823193724j:plain

 

(矢馬)