ソガイ

批評と創作を行う永久機関

男性作家/女性作家棚—エドゥアルド・ガレアーノ『日々の子どもたち——あるいは366篇の世界史』から

 BOOTH以外の販路も開拓していく、と宣言してからだいぶ時間が経ってしまったが、ようやく1軒、書店に自分たちが作った本を置いてもらうことになった。

 地元の小さな書店、向島の「書肆スーベニア」さん、こちらに「ソガイvol.5」を3冊置いてもらった。文学フリマのような本のイベントももちろん良いが、特別なイベントがない日にも店頭に自分の本が並んでいる、というのも良いものだ。親切にも、書店に本を置いてもらう際の注意点や必要なものまで教えていただき、近く、他の書店にも窺って、お話をしていきたいと思う。

 

 さて、本を置かせてもらったその日、このお店で1冊の新刊を買って帰った。前々から少し気になっていた本が、その新刊棚に並んでいたのだ。エドゥアルド・ガレアーノ『日々の子どもたち——あるいは366篇の世界史』(久野量一訳、岩波書店)。「小説、随想、ノンフィクションやジャーナリズムを自在に結びつけた執筆手法」という紹介からして惹かれるものがあり、そして、1年366日、1日1話、その日にちなんだ出来事について記していく、その掌篇形式が興味深かった。

 一見して日めくりカレンダー、あるいは「今日はなんの日?」的なコラムとも思われる構成だが、その内容は一般的なそれとはずいぶん異なる。その多くは、戦争、植民地主義、女性蔑視、黒人差別、帝国主義、資本主義、独裁政治など、人間の「負」の側面についてのものだ。あまりの惨たらしさに、一篇一篇は短いのだが、読み進める手が重くなる。

 日本について触れられたものだと、3月11日の震災(震災について言及しているのは3月12日の掌篇)、8月6日のヒロシマなどがある。そして、私が特に驚いたもののひとつに、5月16日の文章にあった、「1990年の今日まで同性愛は世界保健機関の精神病のリストに入っていた」との記述だ。

 そんな最近まで?とちょっと信じられずに調べてみると、それは事実で、同性愛が「精神疾患」のリストから外された5月17日が「IDAHOBIT:LGBT嫌悪に反対する国際デー(International Day Against Homophobia, Transphobia and Biphobia)」と制定されていることのほか、性同一性障害が「精神疾患」のリストから外されたのはなんと2019年、つまり去年のことである、ということまで知り、二重で驚かされることになった。

 この他にも、人間は果たして、ここまで惨いことを平気でできてしまい、そしてそのエピソードだけで1年間の日付を埋め尽くすことができてしまうものなのか、と暗い気持ちになる。

 

 最近、私は出版について関心があるので、その関係で触れておきたいエピソードがある。それは1月23日の篇。ヴィクトリア女王の葬儀がおこなわれたこの日に引っ掛けて、当時の大英帝国の社会的規範について紹介している。

 帝国の中心では、礼儀作法を教える作品を読むことが求められた。一八六三年に出版されたゴフ夫人の『エチケット・ブック』が、当時の社会的規範のいくつかを定めていた。一例を挙げると、図書館の書棚に、男性の著者による書物と女性の著者による書物を隣り合わせに置くことは禁じられていた。

 ロバート・ブラウニングとエリザベス・ブラウニングのように、結婚している作家同士だけ、一緒に並べることができたのである。(18頁)

 結婚したら並べても良い、という最後に付された一段落の衝撃も大きいのだが、ここで触れたいのはその前の部分。

 これについては、現代でも思い当たる節がある。

 さすがに現代の図書館は違うだろうが、書店のなかには、一部の棚(しかも、それは小説の単行本の棚であることがほとんど)で、男性作家と女性作家の作品を分けて並べているところが少なくない。

 私は前々から、この分け方については疑問を持っていた。いったい、なんの意味があるのだろうか?というのもひとつだし、もうひとつは、これだけ女性作家が一般的ないま、この分け方は時代の流れに逆行しているのではないか、という不満がある。また、百歩譲って男女で分けるのは認めるとして、だったら、なぜ文芸の単行本ではそれをやるのに、新書、ビジネス書などの他のジャンルはまだしも、同じく文芸が並ぶ文庫本の棚ではそれをやらないのか。その不徹底さと、なぞの文芸聖域化も嫌な感じだった。もちろん、業務上だったり販売戦略の面だったりに利点があるからおこなわれているのだと思うが、それでも違和感は拭えない。

 少なくとも私にとって「女性独特のみずみずしい文章」やら「女性らしい繊細な心理描写」などの評は眉唾もので、むしろ評者の適当さを感じるものだ。第一、文章だけで性別が分かるわけがない、と経験則で考えている。大学時代に匿名で掌篇を提出して読み合う形の講義などで、私の文章は、しばしば女性のものと思われることがあった。当然、それを狙っているわけではない。そして、他の人の文章においてその予感があたる確率も半分程度。つまり、予感はまったく意味を成していなかった。

 たとえば、ミステリー作家として有名な北村薫はデビュー当初、顔を出さない覆面作家として執筆していた。「薫」という名前に加えて、デビュー作『空飛ぶ馬』から連なるシリーズの語り手が女子大学生であったこと、その文体や語りが女性を髣髴とさせるものだったことから、女性説がささやかれていた。どうやら、いまだに女性だと思っている人もいるそうなのだが、ご存じの通り、北村薫は性別としては男だ。

 また、私の話になるが、高校生のときに有川浩の作品をいくつか読んでいた。私はしばらく、有川浩は男性だと思っていた。なぜかは分からない。なんとなく、そう思い込んでいたのだ。

 このような例は他にいくつもあるだろう。つまるところ、こんなものなのだ。研究的視点は別にして、一般読者の水準で考えれば、ひとが語る文章の男っぽさ、女っぽさなど、かなりいかがわしいものだと言える。

 しかしながら、女性が描く少年漫画に対する偏見はいまだに根強いという話も聞くから、これは文芸をこえて、かなり厄介な問題なのかもしれない。最近も『鬼滅の刃』の作者が女性だ、ということが話題になったりもした。もっとも、一部では炎上したとも言われたが、実際はそこまでの騒動にはなっていないと感じる。本当に一部が騒いでいただけ、というのが本当のところだろう。とはいえ、その情報が多少なりともスクープ的価値を帯びることを考えると、やはり、いまだになにかしらの男性/女性作家の区別が存在するのだろう。(もっとも、私はこの作品を読んでいないので、この作品のどこがどう「男っぽい」「女っぽい」と捉えられるのか、などを考えることはできない。)

 もちろん、その人の書いたものに、その人の性別やセクシュアリティがある程度影響しているということはあるだろう。文脈は違うが、作品と作者は別、という主張をしばしば目にする。理解できないわけではないのだが、作品と作者を完全に切り離すことはやはり不可能ではないか、と思う。それは読み手側についてもそうだが、作り手側にも言えることだ。自分と、自分が作ったものは別個の存在、と言い切ることはやはりできないと思う。いくら本人が「この作品は自分の趣味嗜好とは関係がない」と言おうとも、なんらかの形で自分の一部が根っこにあることは疑えない。性についても、そのひとつだ。

 しかし、それは一部でしかない。そして、それはその他の要素と比べて上位に立つ、とまでは言えないものではないだろうか。そのようなことを、この本を読んで考えていた。

 ガレアーノが記していく出来事の記録を読むのが苦しいのは、果たしてそれが惨たらしいからだけなのか。おそらく、それはよくて半分しか合っていない。その残酷さが、いままさに自分たちの身近にも満ち満ちていることを、あるいはいつもは目を背けているそれを、否応なしに思い起こさせられるからだ。

 読み進めるのはつらい。しかし、読む手は止められない。それはなぜだろう。

 過去は変えられない。しかし、過去を知ることで、これからの時間を変えていくことはできる。つまり、その理由はこの本のエピグラフにかかげられた、この本の題名の由来にもなっている一節に尽きるのだろう。

そして日々は歩きはじめた。

そしてそれ、日々がわたしたちを作った。

そしてそのようにして、わたしたちは生まれた、

日々の子どもたち、

調べる人、

命の探索者。

——マヤ人による創世記より

 

(矢馬)