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「ドナルド・エヴァンズ展」鑑賞記

 横田茂ギャラリーで開催中のドナルド・エヴァンズ展(2020年10月26日〜11月13日)に行ってきた。ゆりかもめ竹芝駅から徒歩3分という、アクセスも申し分のない立地だ。もっとも、私は盛大に道に迷ったせいで30分近く歩き回る羽目になったのだが。

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 ドナルド・エヴァンズ(1945〜1977)はアメリカ生まれの画家であり、自身で作りあげた架空の国が発行する切手を描き続けた。31歳のとき、友人が住むアパートの火事で亡くなるまでに描いたその切手の数は4000にも及ぶ。今回の展示では14点が展示された。小さいながら、天井が高く、差し込む日の光が白の壁に反射して開放感のあるギャラリーに、ひっそりと掛けられた架空の切手。不思議な感覚だった。私は思わず部屋の真ん中に立ち、天井を見上げた。広かった。

 エヴァンズが描いた切手の発行年は、1852年から1973年に及ぶ。彼の生涯の4倍の長さが、そこには広がっていた。道に迷った30分、すなわち、本来の道のり、徒歩3分の10倍の時間のなかでいつの間にか、私もエヴァンズの時間に、彼が作りあげた国に足を踏み入れていたのかもしれない。そんなことを感じていた。

 エヴァンズの名前を知ったのは、平出隆『私のティーアガルテン行』(紀伊國屋書店、2018年)だった。「時流におもねらないそのひそやかな作品制作のありかたと、架空でありながら精緻に積み重ねられていく『もうひとつの世界』のあえかな秩序に心を動かされた」平出は、亡きエヴァンズに宛てた葉書を書く。「評論であっても評論らしくない書きかた」「エッセイであってもエッセイらしくない書きかた」を志向し、それは『葉書でドナルド・エヴァンズに』(作品社、2001年)という形で結実する。また、ここでの「郵便」への思索が、「郵便=書物」という〈via wwalnuts叢書〉へと繫がる。

 2018年10月6日〜2019年1月14日にDIC川村記念美術館で開かれた《言語と芸術——平出隆と美術家たち》展の図録から、文章を引く。

2010年以来の《via wwalnuts叢書》の試みは、活版印刷の衰退や紙の本の危機、支配的な出版流通の圧制、読み書きの荒廃などに対する対抗であり、それ以上に自身の書くことの持続を賭けたところから発するものだった。(14〜15頁)

  エヴァンズの作品は、小さい。切手なのだから当然だ。指の上に乗るくらいの大きさの長方形のなかには、しかし、大きな広がりを感じる。空想の国のなか、家から家へと行き来する風景が浮かぶ。思えば切手は、一人から一人へと繫がる道を描き出す。もしかしたらそれは、出版が大量生産・大量消費ばかりに気を取られるなかで見失ってしまった道筋ではなかったか。「郵便」の意識。エヴァンズの作品が、閉じられているように見えながらもその実は大きく広がっているのに対し、読者の顔を見ない出版は、広がっているようで、実は限りなく閉じている。

 今回の展示では、エヴァンズの創作ノートというか、設定集を見ることもできた。エヴァンズは架空の国の名前のみならず、通貨や産業など、非常に細かいところまで創作したという。もちろん、それが直接的に作品に現れるとは限らない。しかし、確かに切手というものにはその国のその時代の文化がつまっている。たとえば、古い時代の切手を見ると、なんとなくその時代の空気を感じられる、なんて経験はあるのではないだろうか。エヴァンズはそこを怠らなかった。だから、彼の小さな作品には音や匂いが込められている。

 同じく、本、あるいは出版行為も、その時代が詰まっている。その紙質、組版、状態、製本、内容などから、やはりその本が出版された時代というものが感じられる。もしかしたら、切手と本は、近い存在なのではないか。もっと言ってしまえば、切手とは書物以前の書物なのではないか……。

 このようにして思考がぐるぐるしていた。このまま電車に乗って帰宅するのも味気ない。少し歩いて、浜松町、旧芝離宮恩賜庭園に入った。青空の下、庭園を3周もぐるぐる回り、池を泳ぐ鯉や鴨、岡をかける雀や鶺鴒の声に耳を澄ませ、敷かれた石の上を慎重に一歩一歩、確かめながら歩く。この庭園には、少し高くなっている「大山」と呼ばれる場所がある。そこに登って、庭園を見渡す。世界が広く見えた。

 それは、平出が見た緑閃光には到底及ばないだろう。しかし私の中でこの景色は、エヴァンズと結びついた景色として記憶されるだろう。ここから、私はまたはじめていこう。そう思った。

 さようなら、ドナルド。ぼくはいま旅立ったところだ。世界へ、世界から。すべてはまるで違っていて、親しいドナルド、ぼくにもすべてがあたらしい。(『葉書でドナルド・エヴァンズに』161頁)

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(矢馬)