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漱石と子規の「硝子戸」

日本で「文豪」と言えば真っ先に名前が挙がるのは、おそらく夏目漱石だろう。もはや死語になっている感もある「国民作家」という呼称を与えることに特に異論は覚えない漱石だが、その作品は、現代の読者からすれば必ずしも読みやすいものではないと思うのは私だけではないはずだ。

『坊っちゃん』はまだ読みやすいが、もう一つの代表作『吾輩は猫である』については、読書好きなら読んでいるよね、とは到底言えない作品だと思っている。ひとつひとつの言い回しもそうだし、けっこう改行が少なくて文字は詰まっているのもそうだが、なによりも、この作品には文明批評の側面もあり、そのために古今東西の固有名詞がちりばめられている。

日本の文人や画家はもちろんのこと、海外でも、デカルトやライプニッツといった哲学者、バルザックやゾラやユーゴー(ユゴー)に「トリストラム・シャンデー」(ローレン・スターンの小説『トリストラム・シャンディ』。語り手が長篇の後半に至るまで母の胎内にいる胎児、というかなりの奇書。漱石は当時からこの作品を原書で読んでおり、「トリストラム、シヤンデー」という論考も書いている)という文学関係、さらには画家や歴史家、遺伝学者の名前までぽんぽん出てきて、その上で登場人物たちが滑稽さを交えながらも議論を重ねているので、けっこう目が回る作品だ。それでいてまあまあ長い。事実、私は大学入学前に一度、4分の1で挫折した。数年後、なんとなしにもう一度最初から読み始めたら、今度は面白くて読む手が止まらなくなったが、だったらもう漱石は読めるかと言えば、つぎに手にした『虞美人草』はきつかった。漱石は、それほど易しくない。

こうしてみると、漱石の作品は傾向として初期のものほど晦渋といえるのかもしれない。それはさておき……先日、漱石最晩期の随想集『硝子戸の中』を読んだ。ちなみに読み方は「ガラスどのうち」とされている。

1915年1月13日から2月23日まで『朝日新聞』に連載されたこの随想集は、翌1916年に亡くなる漱石の、最後のまとまった随筆になった(尤も、その後『道草』、未完での絶筆となった『明暗』と、執筆活動自体は続いている)。

硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、赤い実の結った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てる程のものは殆んど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうして又極めて狭いのである。(夏目漱石『硝子戸の中』新潮文庫、1952年初版、2016年102刷、5頁)

これが第1回の書き出しだ。漱石はこの時期体調を崩しており、ずっと「この硝子戸の中にばかり坐っているので、世間の様子はちっとも分らない」。また、読書もあまりできないという。しかし、それでも「頭は時々動く」。それに客人もあり、「私の思い掛けない事を云ったり為たりする」。そんなことについて少しずつ書いてみよう、というのがこの随想である。

ここだけ見るといわゆる身辺雑記に思われるが、その後で書かれるように、当時は第一次世界大戦の最中、日本も前年に日英同盟を理由にドイツに宣戦布告している。硝子戸の外で起きている戦争は、漱石の硝子戸の中での随想にやはりなんらかの影響を与えている。『吾輩は猫である』がそうであったように、世界的な戦争の時代に「死」をひとつの大きなテーマに据えた『硝子戸の中』にもまた、批評の精神が見られる。それでいて随想という性格もあってか比較的読みやすい文章なので、ちょっとした時間に軽い気持ちでも読める点で、おすすめしやすい。

ところで、『硝子戸の中』には1箇所、正岡子規の名前が出てくる。漱石と子規の関係についてはいろいろなところで語り尽くされている。同い年のこの2人の間には、親友という言葉で語り尽くすことができないような精神的な紐帯があったように、書簡などを見ていると感じられる。

周知のように、子規は1902年、結核からの脊椎カリエスにより、35年の人生の幕を閉じる。晩年、布団から起き上がれず「今ははや筆取りて物書く能はざるほどにな」った子規は、「長きも二十行を限とし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし。病の間をうかがひてその時胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書かざるには勝りなんかとなり」と、自らも大きく関与していた新聞『日本』にて、『墨汁一滴』 を連載する。その終了後、引き続き『病牀六尺』を連載、死の直前まで続けられた。

 

そこで思い至った。漱石の『硝子戸の中』と、子規の『墨汁一滴』『病牀六尺』。この二者は同じ精神から伸びたものなのではないか、と。

詳細な検討は今後の課題とすることにして、その思いつきの根拠らしきものだけでも、いくつか提示してみたい。

 

子規は『墨汁一滴』のことを「欄外文学」だと言っていた。もちろん実際にはきちんと『日本』の紙面に配されているのだが、それでも「かかるわらべめきたるものをことさらに掲げて諸君に見えんとにはあらず、朝々病の牀にありて新聞紙を披きし時我書ける小文章に対して聊か自ら慰むのみ」だと言う。

一方、漱石『硝子戸の中』第一回。「私はそんなものを少し書きつづけてみようかと思う。私はそうした種類の文字が、忙がしい人の眼に、どれ程つまらなく映るだろうかと懸念している」と言い、そして、

要するに世の中は大変多事である。硝子戸の中にじっと坐っている私なぞは一寸新聞に顔が出せないような気がする。私が書けば政治家や軍人や実業家や相撲狂を押し退けて書く事になる。私だけではとてもそれ程の胆力が出て来ない。ただ春に何か書いて見ろと云われたから、自分以外にあまり関係のないつまらぬ事を書くのである。それが何時までつづくかは、私の筆の都合と、紙面の編輯の都合とできまるのだから、判然した見当は今付きかねる。(7頁)

自分一人では、他の記事を押し退けることはできそうもない。ここにも欄内に入ることへの躊躇いが感じられる。そして、「自分以外にはあまり関係のないつまらぬ事を書く」。これは子規が「自ら慰むのみ」と書き付けることと似たものを感じる。

加えて、子規にとって『日本』、漱石にとって『朝日新聞』とは、どちらも彼らが大きな位置を占めてきた重要な媒体である。晩年の漱石は、『朝日新聞』のなかでももはやさほど大きな位置にはなかった、とも言われているが、それでも漱石が『朝日新聞』に果たしてきた功績は大きい。そんな媒体の欄内に入ることに躊躇うとは、いったいどういうことなのか。いまの私にはまだ、その精神を論じることはできそうにない。

 

また、『墨汁一滴』にはこんな一節もある。

春雨霏々。病牀徒然。天井を見れば風車五色に輝き、枕辺を見れば瓶中の藤紫にして一尺垂れたり。ガラス戸の外を見れば満庭の新緑雨に濡れて、山吹は黄漸く少く、牡丹は薄紅の一輪先づ開きたり。やがて絵の具箱を出させて、五色、紫、緑、黄、薄紅、さていづれの色をかくべき。(正岡子規『子規三大随筆』講談社学術文庫、1986年、95〜96頁) 

もちろん、目がひかれるのは「ガラス戸」の語だ。

先に引用した『硝子戸の中』でも、漱石がやはり「硝子戸」の外の「芭蕉」や「梅もどき」といった植物を描写していることが興味深い。

とはいえ、ここでは2人の差も見られる。その他のものは目に入らない、とネガティブな漱石に対し、子規はその風景を絵に描こうと思う。子規も漱石も絵を描くことを趣味にしていたが、この硝子戸の外の風景への筆致の差は、「書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうして又極めて狭いのである」という漱石に対し、『病牀六尺』の冒頭で、「病牀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病牀が余には広過ぎるのである」と皮肉を交えて書く子規との差異とも言えるかもしれない。もちろん、書き手の言葉をそのまま受け取ることが正しいとは限らないし、それに『硝子戸の中』の随想はもう一つのテーマ「時」を巡り、ただ現状を嘆くばかりではなく、その目はやはり外へと広がっていくのだが。

『硝子戸の中』で特に印象に残っている文章がある。

 私の立居が自由になると、黒枠のついた摺物が、時々私の机の上に載せられる。私は運命を苦笑する人のごとく、絹帽【シルクハット】などを被って、葬式の供に立つ、俥を駆って斎場へ駈けつける。死んだ人のうちには、御爺さんも御婆さんもあるが、時には私よりも年歯【とし】が若くって、平生からその健康を誇っていた人も交っている。
 私は宅へ帰って机の前に坐って、人間の寿命は実に不思議なものだと考える。多病な私は何故生き残っているのだろうかと疑って見る。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。(67頁)

もしかしたら、漱石はこの問いを子規に対しても感じることがあったのではないだろうか。特に、この2人は同い年だ。余計その感は強かったのではないか。

漱石は「死は生よりも尊い」という考えを絶えず持っていた。しかし、それでも最終的には死を肯定することができなかったことが、『硝子戸の中』には書かれている。作中では、多くの死者について書いている。人は死ぬと、その形は残らない。だからといって、なにも残らないわけではない。

漱石は幼い頃に一度養子に出されていたが、数年後にまた生家に帰ってくる。しかし物心つく前に家を出された漱石は、実の両親のことを祖父母だと思い込んでいたのだという。ある夜、座敷で一人寝ていると、耳元で下女の声がする。あなたが爺婆だと思っている人は本当のお父さんお母さんなんですよ。下女は小さな声で教えてくれた。そのことについて、

 私はその時ただ「誰にも云わないよ」と云ったぎりだったが、心の中では大変嬉しかった。そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。不思議にも私はそれ程嬉しく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。覚えているのはただその人の親切だけである。(90頁)

長谷川郁夫『編集者 漱石』(新潮社)を読むと、漱石の陰にはいつも子規の姿が感じられる。子規の精神は常に漱石のなかで生き続けており、『硝子戸の中』もまたそうした文章の一つなのではないか。最後、「硝子戸を開け放って、静かな春の光に包まれ」た漱石の背中を見ながら、そんなことを考えた。

 

(矢馬潤)