ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ7

3月10日

2ヶ月に1本程度、〈封切〉叢書を刊行しようと思っていたのも今は昔。そもそも、2月の中頃からはまともに本も読めていない有様であり、ましてや本をつくるなどという気持ちにもならない。

いや、気持ち自体はあるのだけど、体がそれとちぐはぐで、盛大に空回りし続けているといった方が正しい気がする。それにしても、こんなに本が読めなくなったのは久しぶりだ。高校時代でももうちょっとは読んだ。前年、久方ぶりに友人に会ったときには口を揃えて「痩せた」「やつれた」と言われたものの当人はいたって健康なつもりだったのだが、とうとう体調も芳しくはなくなってきている。

原因を考えることに果たして意味があるのか。正直疑問ではあるが、長らく続く在宅勤務がその一因とは考えられる。

当初、私は時間を有効活用できる在宅勤務は選択肢としてありではないか、と思っていた。このような状況になる前からいっちょ前に、もっと多様な働き方が増えていけばいいのに、などと考えていた。私はそれほど人付き合いが得意な方でもないし、自分にはそちらの方が合っているのではないか、とも思っていた。まさかいきなり自分がそのような働き方を求められるとは予想だにしなかったけれども。

いざ始まってみると、たしかに良い面はある。やはり、通勤時間がゼロであるのが良い。たとえば7時間勤務だとしても、通勤で往復1時間掛かれば、実質8時間の拘束、いや、出掛ける準備や帰宅してからのあれこれを考えるとそれ以上になる。1日2時間だとして、仮に1年200日勤務であれば年400時間、これは大きい。それに、平日の朝一に役所や病院に行けることも大きかった(もっとも、これはいまの私の仕事が午後から始まる、ということが大きいが)。

ところが、私はこの通勤時間というものがある程度は必要なものなのかもしれない、と最近思うようになった。

もっとも、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に1時間も2時間も乗ることはストレスでしかないだろう。満員電車自体は、私もなくした方がいいと思っている。だからこれは私がいま出社の際に、そこまで混雑した電車に乗らないで済んでいるからこそ言えることなのかもしれない。それを承知の上で、やっぱり多少の通勤の手間というものの効用を考えている。

仕事に入る前のその時間で少しずつ意識を家から職場に、帰宅時には疲れた体と頭を休ませながら、これまた少しずつ仕事のスイッチをオフにしていく。このときのスイッチは、パチッ、パチッと音が鳴るものというより、スライドさせて光量を調整するタイプのものがイメージされる。物理的な移動に合わせて、つまみをゆっくりずらしていく。この時間が自分には必要なのではないか、と考えるようになった。

日常的に本を読む人は忘れがちであるが、そもそも本を読むということはけっこうハードルの高い行為だ。ましてや小説なんて、文字だけでその世界に入っていこうというのだから、かなりのエネルギーを要する。私はよく分かった。本当に疲れているときは——これは肉体と精神の両面という意味で——本なんか読めやしない。当然、文章だって書けやしない。

このとき、ちゃんと自分を休ませられる心得を持っている人なら上手く解消するのであろうが、私は貧乏性というかなんというか、家にいるならなにかやらないと、と思ってしまう。しかし、在宅勤務明け、自分では仕事から家のモードに入っているつもりでも、まだつまみは少ししか動いていない。いや、下手したら、これは帰宅の電車に乗っているあいだよりも動きが遅いかもしれない。物理的な移動がないこともそうだし、電車に乗っていれば、おのずとできることは限られている。なにかやりたいことがあってもどうせできないのだから、大人しくしているしかない。本を読む気力すらないときは寝るか、ぼーっとするか、適当にスマートフォンを眺めているかして、時間が経つのを待つだけだ。でも実は、これが良いのかもしれない。

家に居ると、たとえばすぐWordを開いてなにか書こうとしてしまう。まだスイッチは切り替わっていないのにもかかわらず。こうして無闇につまみの移動を自ら遅らせ、ようやく家に振り切れたときにはもう身体的な限界、つまり眠気が訪れているのである。あるいは、たとえ身体は元気でも、社会的な限界、すなわち翌日の仕事が待っている。10代の頃と違って、夜更かしをすれば翌日以降に大きく響く。集中力が低下すればそれだけ仕事の能率も精度も落ちる。私は現状1年契約なので、下手なことをすれば簡単に仕事を失う。社会人としての責任云々ももちろんだが、もっとシンプルに生活がかかっているので、そんなことはできない。そこまで眠くなかったとしても、ベッドに入らざるを得ない。結局寝られずにうだうだしているだけなのだが。

私はこんなちぐはぐな生活を2ヶ月近く続けていたことに、ようやく気付いた。なにをしているんだ、と思いつつ、しかし上手く改善できそうな気もしない。こんなところでも、なくなってみて初めてそのありがたみを知る、なんてことがあるのだなと思った。もちろん、かといって片道2時間満員電車という通勤はどんな状況だろうが御免だが……。

さて、とはいえ4月からは担当が変わり、今度はコンスタントに仕事があるようになると思われる。在宅勤務も減る(というか、なくなる?)だろう。とりあえずまた1年間は仕事があることに安堵しながら、心機一転、頑張っていこう。

ひとつ弁明すると、まったく文章を書いていないわけではなく、第6号に向けた文章は草稿があがっているし、〈封切〉叢書に向けた小説も書いていた。しかしながら、この小説は筆が乗ってしまい、明らかにこの叢書には収まらない分量になってしまったのだ。短く刈り込むことも考えたのだが、すると作品があまりにも駆け足になってしまうと思ったので、これはこれで別の場所で出すことにしようと考えている。 

最近は本もあまり買っていなかったのだけど、魚住昭『出版と権力——講談社と野間家の一一〇年』(講談社)を買って、夜に序章だけ読んだ。なかなか興味深い内容で、660頁超えという大著ではあるが、これは久しぶりに読み進められそうだと感じている。