出版社の校閲部で働き始めてから1年ちょっとが経った。どこかで話したことがあったような気がしないでもないのだが、私はこれでもいちおう日本エディタースクールが主催する校正技能検定上級に合格していて、人よりは多少誤字脱字に気付きやすい方なのかもしれないと思っていた。だが実際に仕事をしてみると、それはもう知らない言葉だらけだし、知っている言葉も、その意味を勘違いしていたり、もう一つの意味を知らなかったり、なんてことばかりだ。
というより、普通に生きていれば『広辞苑』『大辞林』などの中辞典はおろか、『新明解国語辞典』や『明鏡国語辞典』などの小辞典に載っている言葉の3割だって理解はしていないだろう(勘違いされがちだが、別に『広辞苑』だって特別大きい辞書ではなく、当然すべての言葉を網羅している訳ではない)。
つい最近で言えば、東京都の小池都知事が新型コロナウイルス感染拡大防止のための「五つの小」というものを掲げた。それが「小人数、小一時間、小声、小皿、小まめ」だった。これに対して、「小人数」は「少人数」の間違いだ、と指摘する声がかなりあったという。
結論から言えば、「小人数(こにんずう)」という言葉はどんな辞書にも載っているもので、意味もそのまま、人の数が少ないこと。少人数と同義の言葉だ。
まあよくよく考えればたくさんの人が居ることを「大人数」というのだから、大きいの反対の小さいで「小人数」があってもおかしくない。ちなみに、「少人数」の反対で「多人数」もある。少ないの反対で多い。そりゃそうだよな、と言われてみればそんなものではあるのだが。
ここで主張したいのは、「小人数」という言葉を知らないことはなにも悪いことではないが、自分が聞いたことがないからそんな言葉はないと思い込むのは危険だ、ということだ。というより、それは傲慢とすら言えるだろう。だいたい、一人の人間が記憶できることなどほんの少しのものでしかない。これは、なにも言葉に限ったことではないだろう。つまり、世の中には自分の知らないことだらけだ、と謙虚になることが肝要なのだ。
というわけで、1年間仕事をしてみて発見したこと、特によくある間違いなどを、特に同人誌製作者に向けてごく簡単に残しておくのも悪くないのかもな、と自分の仕事の振り返りをかねて書いておこうと思う。
・〜にもかかわらず
これはよく使う言葉だ。この「かかわらず」、「関わらず」という漢字をあてられているのをテレビの字幕などでもよく目にするが、実は辞書的には「拘わらず(係わらず)」という字をあてる。私も仕事を始めるまで知らなかった。固い出版物では大抵「かかわらず」か「拘わらず」に直す指摘をする。
もっとも、語義的には別に「関わらず」でもいい気がするし、明鏡国語辞典では「関わらず」が併記されている。
また、「AかBかにかかわらず」の場合は、「関わらず」は「関係なく」と言い換えられることからこの字でも良いとする向きがあるらしい。私個人としては何の異論もない(校閲の立場としてはまた異なるが)。
・暖かい、温かい
これはいくつかの辞書を引いてみて驚いたのだが、思いの外この二つの表記、それほど厳密に区別されていないらしい。学校ではなんか習った記憶もあるのだが。
気候の場合は「暖」、心情的なものの場合は「温」を使うことが多い、といった注記がされているものは確かにあるが、あくまで傾向といった程度だ。事実、プロの文章でも使い分けはけっこう曖昧だ。
結論として、作品内で明らかに揺れてでもいない限り、そこまで神経質になることはないのではないか、と考えている。
あとは、これはこの言葉に限らないが、それと同義の熟語を考えてみることが案外役に立つことがある。たとえば、「あたたかい水」。これは熟語で「温水」というから、「温かい水」としておけば無難だろう。しかし、風はどうだろう。「温風」「暖風」両方ある。水についても、これが海流だったら普通「暖流」といって、「暖水渦」なんて用語もある。……やはり、厳密な使いわけが困難な言葉なのだろう。
・岸壁、岩壁
これは恥ずかしい話なのだが、私は複数回この違いを見逃した。
「岸壁」は「壁のようにけわしく切り立った岸」、「岩壁」は「壁のようにけわしく切り立った岩」。言われてみれば当たり前なのだが、似たような光景だから、ちゃんと場面を念頭に置かないと意外に見逃してしまう。「岸」と「岩」が同じ音であることを呪うしかない。
・伺う、窺う
これもよく見る混同。
「伺う」は「訪問する」とか「尋ねる」の謙譲語として用いるのが一般的。「お話を伺う」「先生のお宅を伺う」といった形だ。
「窺う」は様子を見ることや、付け入る隙を狙う意味。「チャンスを窺う」「顔色を窺う」。
また、「窺う」には覗くという意味もあり、「覗う」という字をあてることもある。正直、私はあまりこの表記は見たことがない。数回はあったかもしれない。
・確信犯
これは有名な、誤用の方が一般的になった言葉の一つ。
「道徳的・宗教的・政治的確信に基づいて行われる犯罪」が本来の意だが、<広辞苑>や<大辞泉>では、俗用として「悪いことと知りつつ、あえて行う行為」をあげる。
<大辞林>では、それが問題を起こすことがわかりながらする行為、と説明され、ややニュアンスが異なるが、同様の俗用を明記している。
とはいえ、本来的な意味で(というより歴史的な意味で?)「確信犯」を使う人も、その意で承知している人もあまり多くないだろうことから、別に小説や読みものであれば俗用の意味で用いていたとして、ぜったいに直さなければならないものではないと思う。「敷居が高い」や「募金」もそうだが、俗用をいかに扱うか、これは非常に難しい問題である。
・ら抜き言葉
これは説明が長くなるので結果だけ言うと、私は別にら抜き言葉を絶対的な間違いだと思っていない。
ら抜き言葉は上一段活用、下一段活用、カ行変格活用動詞の「受け身」と「可能」を分別するが(「食べられる」と「食べれる」、「来られる」と「来れる」など)、これは五段活用の動詞が「れる」を付けた「可能形」の形(「行く」に対して「行ける」)を持っていること同じことなのではないか。むしろ、この五段活用動詞の可能形こそが、歴史的には「あ」の音を省略してできた形なのではないか、という説もあったりする(「行く」の可能で「行かれる」という言い回しも、若干古風な感じがするがある。「ikareru」から「ar」(らの音の構成音)を抜くと「ikeru」になる……みたいな感じか?)
まあこれも私個人はそう思っているが、校閲の立場としては現状、基本的に指摘は入れる。もちろんこれもケースバイケースで、たとえばセリフのなかのら抜き言葉などは、あえて直す必要もないのかな、と思う。校閲・校正には厳格さと同時に、杓子定規になりすぎない柔軟さも必要なのだ。
・ちりばめる
これもしばしばある間違い。「散りばめる」という表記をよく見るが、辞書的には感じをあてるなら「鏤める」。まああまり見ない字だし、私なら「ちりばめる」と開く。「散りばめる」を場合によっては許容する、という向きもあるが、まだ難しいだろう。
ちなみに、多和田葉子の小説『地球にちりばめられて』もこの通りひらがな表記。
・持論
これも「自論」という表記をまま見る。辞書にこの表記はほとんどない。たぶん簡単に変換もできないような気がするのだが……。
ともかく、「自説」という言葉があり、これと同音で「持論」と同義の「持説」とほとんど意味が変わらないのだから、なんだか「自論」という言葉があっても良いような気がする。
・ベートーベン
外国語のカタカナ表記とは厄介なものだ。俳優名とか、サイトによって「ス」か「ズ」か、伸ばすか伸ばさないかなど、かなり揺れているものである。
それもそのはずで、そもそもが言語によって音の数が違うのだから、カタカナという日本語の音で完全に再現することはできないのだ。
代表的なものがVの音だろう。これを「ヴ」とするかバ行にするか。結論からいえばどちらでもいい。たしかに「ヴ」の方が近い気もするが、そもそもウの濁音自体が無理やりつくったようなものであるし、「ヴ」にしたところで完全な再現にはならないのだ。新聞などはバ行表記が多いらしい。新聞は字数がタイトだから、こんなところにこだわって1文字増える方が面倒だからだろうか。
ともかく、だからたとえば、ベートーベンでもベートーヴェンでもどちらでも構わない。もちろん、ヴェートーベンはよろしくない。Beethovenという綴りを確認すればそれはわかる。「バス(bus)」を「ヴァス」と表記する人はいないだろう。
カタカナ表記には、ある程度寛容にならないと土壺にはまる気がする。
・ウオッカ
とはいえ、固有名詞は音だけではなく、ちゃんと字面を確認した方がいい。
時事的に、と言ってしまってもいいと思うが、牝馬として64年ぶりに日本ダービーを制した日本の競走馬は「ウオッカ」と、オが大きい。
競走馬は英語名も登録するのだが、ウオッカの英語名は「Vodka」。つまりお酒のウォッカと綴りは一緒なのだが、お酒の方はこのように小さいオで書かれることが多いようだ。ちなみに、ウオッカという名付けは、このお酒のウォッカから来ているとのこと。父はタニノギムレットだが、「ギムレット」(ジンベースのカクテル)よりも強い馬になって欲しいと、より度数の強いウォッカから名前を取ったそうだ。
競馬繫がりでは、同じく牝馬のエアグルーヴはウの濁音だが、英語名は「Air Groove」。この綴りで思い出すのは、バンドグループの「電気グルーヴ」だろうか。こちらもウに濁点。Google検索の予測だと、けっこう「電気グルーブ」も出てきてしまう。少なからずの人が間違えているのかもしれない。
カタカナのみならず、たとえば地名にまつわるものでもそうだ。駅名では四ツ谷駅だが、予備校は四谷大塚、四谷学院。他にも、ビルの名前などはやはり確認すべきだろう。また、四ツ谷駅の隣駅、丸ノ内線の駅は四谷三丁目駅。やっぱり音だけで判断していると危ない気がする。
さて、いま思いついたことをとりあえずざーっと書き殴ってみた。もちろんもっといろいろ考えていた(はずだ)が、これ以上は余計散漫になってしまうからこれくらいにしておこう。
目を通していただければ分かることだと思うが、私がいま列挙してきたことは全部、ちょっと調べれば分かることである。簡単なことと言えば、たしかに表面上はそうだ。
ただ、この調べるという行為が厄介で、というのも、人は調べようと思わなければ調べないのだ。なにを当たり前のことを、と思うかもしれない。しかし、私はこの1年、とくにそのことを痛感させられたのだ。自分には、分かったつもりになっていることがこんなにもあったのか、と毎日思わされる。そして、多くの人が案外ものを調べていない事実にも気付かされた。
校閲者は専門家ではない。大抵のテーマにおいて著者よりはずっと門外漢である。だから、ここで大切なのは調べるのを厭わないことだ。私は、校閲・校正において重要なのは言葉、ものをどれだけ知っているか、ということよりも、まずはどれだけちゃんと調べようと思えるか、自分が知っていることなんてたかが知れているんだ、と謙虚になれることだと思っている。
そしてそれは、なにも校閲・校正だけではない。人間が生きていくのに必要な態度なのではないか。
なにをたった1年で分かったようなことを、と言われれば返す言葉はないのだが、でも折角働いているのなら(働かなくてはならないのなら、と言った方が正しいか)、お金をもらうだけではなく、こんな風に人生を考えてみるのも悪くないのかもしれないな、と思う。利用できるものは利用すればいい。ただ働かされていると思うと、なんだか癪なのだ。
もっとも、いま私が考えなければならないことは、まず生活を整えるということである。顧みると、けっこう私の生活は乱れている。20代も半ばを過ぎて、早め早めに見直しておく必要があるだろう、と感じている。
これも、毎日きっちり働かねばならないという事情から否応なしに考えさせられている点で、仕事のおかげでそういったことを考えさせてもらっている、と取ることもできないことはない……のだろうか?
(矢馬)