ソガイ

批評と創作を行う永久機関

労働者であるための「表現」——川崎昌平『労働者のための漫画の描き方教室』

労働というものを批判する言葉は、軽口のようなものから理論的なものに至るまで無数に見られる。正直なことを言えば、私だって働かなくてもいいものなら働きたくはない。労働の必要がなければ自由な時間が取れてもっといろいろなことができるのにな、と思うこともある。それこそ、もっとたくさんの本を読んで、もっともっと文章を書くことができるのに、と。

しかし、果たして私に労働の必要がなくなったとして、じゃあそれだけもっとたくさんの文章を書くだろうか、と考えると、これが非常にあやしい。

思い返すと、私の執筆の動機は生活のなかで生じた感情——それは正負どちらの方向でも——が基になっている。その生活というもののなかには当然労働も含まれる、というよりもかなり大きい部分を占めている。その労働が抜け落ちてしまえば、結局の所、私はそうして生じた「自由」な時間を無為に消費することになるのではないか。いまはそうも感じている。

そして、いくら嫌だ嫌だと言っても、現在のこの国の社会においてまったく労働をせずに生きることは非常に難しいだろう。論理的、あるいは歴史的な観点からの労働批判はそれはそれで興味深い思想ではあるのだが、そんなすぐに、まったく働かないで生きていける社会になるとも思えない(それは異常な長時間労働や法外な低賃金とはまた別の問題であろう)。現実問題、たとえ労働を呪うとしても、労働の存在を前提にして生活を組み立てていくことが必要だ。

 

川崎昌平『労働者のための漫画の描き方教室』(春秋社)は、その点でなかなか面白い提言をしている。

 労働者は、あなたがそうであるように、私もそうであるように、自分の仕事をしっかりやろうとする限り、当たり前だが、忙しい日々を過ごすことになる。

 しかし、忙しいという理由で、あなたは表現を放棄してはいけない。なぜならば、表現をしなければ、あなたは忙しい日々に漫然と殺されてしまうかもしれないからだ。(……)

 本書で私は読者であるあなたに伝えたいものも、そこに尽きる。別に私は「表現者になれ!」と主張しているのではない。そうではなく、労働者としてあり続けるためにも表現をしよう、表現者としての側面を自分に築いて、疲れた心身を蘇らせようと呼びかけたいのである。(4〜5頁、太字ママ)

 編集者としての仕事に忙殺されて心身共に疲弊していた著者は、自分でもよく分からないが、帰宅してから寝るまでの30分で漫画を描くことをはじめたという。やがてそれは一つの作品に、そして一冊の同人誌になって、それが少し注目を集めて単行本にもなった。それからも漫画を描き続けるが、それによって、仕事の忙しさは変わっていないにもかかわらず、心が折れそうになる瞬間はほぼ皆無になったという。

その経験から、忙しい現実と戦うための方法として漫画という表現方法を提示しているのが本書である。

ところが、本書は著者も言うように、「漫画の描き方教室」という書名から多くの人が期待するであろうテクニック的なことにはあまり触れていない。はっきり言ってしまえば、「漫画家になりたい」とか「漫画を描きたい」と思っている人にとっては期待外れということにもなるだろう。

繰り返すが、本書は忙しい現実と戦うための一つとして、漫画という表現方法を提示している本である。なぜ「漫画」かといえば、要約すれば漫画はひとりでできて、時間やお金がかからず、そこまで技術的素養も必須ではなく、そして成果を他者と共有しやすいから、と著者は言う。こう言うと、「いや、漫画はそんな簡単なものじゃない」と不満をおぼえる読者もいるだろうが、これはあくまでも時間がない労働者がなにかしらの表現をしようと思ったときに適していると著者が考えている種の漫画のことである。実際にどういうものかと気になるならば、著者の作品を手に取ってみればその意味が分かるだろう(弱小出版社の内情を描いた『重版未定』などがおすすめだ)。もちろん、著者は別にその表現とは小説や音楽や絵画でも構わない、とつけ加えている。

私はいまのところ漫画を描くつもりはない。私は現時点でもいちおう「執筆」という表現方法を手にしているからかもしれない。もしかしたら今後、漫画を描いてみようと思うことはあるかもしれないが、少なくとも本書の購入の動機にはなかった。

そうではなく、私はむしろ、本書の大部分を占めている「表現行為論」とでも称すべき議論が興味深く、本書を手にした。最近の私は、技術よりもまずその根底にある精神のようなものに関心がある。結果を先回りして言うと、その点において本書は私に資するものだったといえる。

「表現」と呼ばれる行為を行っている人、私の関心領域で言えば同人誌をつくっているような人、あるいはそういったことをやってみようか悩んでいる人には一読をおすすめしたい内容だ。本書は「なぜ自分は表現をするのか」という根本の問題を反省するきっかけを与えてくれるだろう。こういった抽象的な問題は考えるのが難しいことではあるが、一度この問題を経過していた方が、結果としてその活動は長続きする、というのが私の見立てでもある。

細かい話をすると長くなるので、数点だけ抜粋してみたい。

 

まず第一に、著者が考える「表現」の定義。

「表現とは思考のための道具である」

ここで著者は、表現は「訓練された感性の発露」「よく鍛錬された技術の発表会」「高度に洗練された娯楽の発現」などではない、とかなり厳しいことを言う。そして、そこに思考が伴わなければ、たとえそれがどんなに技術的に優れたものであろうと、それは表現ではない、と主張する。

なぜここまで「思考」を重視するのか。それは「思考の最も優れた効能は、決して建設的たりえない『負の感情』を、一時的とはいえ、沈静化させてくれる点にある」からだ。本書が忙しい労働者に向けて書かれていること、自分を持った労働者であり続けるための手段としての漫画を提示していることを思い出そう。働いていれば、いや生活していれば、どんな人間だって理不尽な目には遭うし、怒りや不満をいくつもおぼえるものだ。しかし、その感情に支配されてしまっては、やがて自分が蝕まれる。たとえどれだけ嫌だったとしても、1日の3分の1以上は働かざるを得ない。その時間、常に負の感情に囚われていれば当然のことだ。

だが、「思考」することにより、少しだけ冷静になれる。その感情と少し距離を取ることができると言ってもいいだろう。もちろん、思考したからといってその問題は解決しないし、負の感情だって完全に解消される訳でもない。でも、それでいい。今度はその感情を表現の動機とするのだ。著者は、表現にまず必要なのは技術ではなく動機だと言う。まったくその通りだと思う。

もっとも、その動機が名詞化される、つまり「漫画家」や「小説家」といった肩書きになってしまうと表現が続けられなくなることが多い、と芸大出身で芸術予備校の講師の経験もある著者はのちに述べている。これについては私にも思い当たることがある。私にも、かつては「小説家」になりたいと思っていた時期があった。傾向なんかも考えながらいくつかの公募にも出したりしていたのだが、いつからか公募用の作品を書いていて、筆はまったく進まないし、それがつまらなく感じられるようになった。

そんなとき、ここの前に別の友人に誘われてコピー本を出すことになった。その作品はほとんどがそのために新たに書いたものだったのだが、どうせ全部自分の責任でつくるんだし、とにかく自分の好きなものを、書きたいと思っていた光景を書こうと思った。すると、それはもうどんどん筆が進む。まったく売れなかったその冊子に載せた、特に少し長めの短篇は、実はいまでもかなり気に入っている作品なのだ。この頃から私は、プロの書き手というのは結果としてそういう道もあったらいいかもな、くらいの気持ちにおさめている。だからこそ、いまだにこうしてかろうじてではあるが活動を続けられているのかな、とも思う。

そういえばそのコピー本を文学フリマで販売したときに、「プロにもなれないのにこんなことしてなんの意味があるの」と絡んできた男性がいた。散々無駄話に付き合ってあげた挙げ句、ついに100円の本を手にもしなかった人にそんなことを言われて、当時はショックでなにも返せなかった。だが、私はこう言ってやれば良かったのだ。「あなたみたいな人間がのさばるこのくそったれな世界で、俺が俺として生きていくためだ」と。まあ、現実的に考えればさすがにもうちょっと濁すだろうし、この前半部はあえて言う必要もないだろうが……。

話が逸れた。ここで提示される動機とは「怒り」だ。もちろん、これは激情に駆られて怒りを攻撃的に外部にぶつけるという意味ではない。現状を許さないという気持ちで、すり減った精神を守る。そのための「怒り」だ。そしてその「怒り」を冷静に振り返る。それは物事を多角的に見る、という表現の基本のキにも繫がるだろう(あまりにも立場がはっきりしていると、その言説は狭量なものに見えるものだ)。もちろん、怒りを解消できずとも良い。それでも、冷静になることによって「許す」契機は得られる。この「許す」というのは近年の私のテーマでもある。どうしても怒りの発露の言葉ばかりが目立つ世の中で、いかにして「許す」という姿勢を持てるか。当然のことながら、これはなあなあにすることとは全く異なる。ダメなことはダメだと言い、追及しながらも、それでも「許す」という道を持つこと。これが必要なことではないか、と思う。表現もまた、そうあって欲しい。私が、とにかく糾弾するばかりの表現をあまり好きになれないのには、こういったところが関係しているのかもしれない。

 

次は短く。本書は、労働というものを蔑ろには当然していない。当たり前のことかもしれないが、これは重要だ。ともすれば、表現のために労働を疎んじるようになってしまいかねないからだ。

繰り返すが、本書は労働者としてちゃんと生きるための手段として漫画という表現を提示している。表現を通して、しっかり自己を持った労働者となることが目的だ。だから、表現は労働に返ってくる。「労働があり、生活があり、はじめて表現が生まれるのである。その逆はない。あってはいけない。私はそう考えている」。

たとえば、「漫画を描くことで労働のリズムをつくる」という項には、「労働者にとって、もっとも重んじるべきは当然だが労働そのものである。(……)その労働に心を殺されないようにするためにも漫画が、表現をする姿勢が、有効である」と端的に書かれている。このあとでは、その上で、いかにして足りない時間を補い、かつ継続して表現を続けていくか、その生活の中での方法が書かれている。といっても単純なことで、すぐにメモできるようにする、とか、ランチはできるだけ一人で食べる、とか、夜はできるだけ帰ろう(もっとも、会社に残らねばならないときにそのことをを自分が受け容れられるのなら残れば良い)とか、できれば6時間は寝よう、とか、そんなことである。なんて単純な、と思うかも知れないが、案外こういうことが大事になってくるのだ。

そして、そのあとには端的に「サボらない」という項目がある。曰く「ちゃんと働こう」。「表現は自由の産物だが、自由は労働によって守られている側面もある」。

どうしてもこの国において表現者というものは世捨て人のようなイメージがいまだ根強い気もするのだが、そんなことはない。そのことを思い出させてくれる。

 

さて、最後に。「最大級の注意事項」として筆者が提示するのが、「感謝をするということ」である。これは労働ができる環境に置かれているということや、その労働が(怒りを生じさせながらも)表現の動機を与えてくれていることに対しての感謝でもある。そして、表現の発信者と受容者のあいだに交わされるべき感情もまたそうだ。以下の言葉は至言だ。

 読まれてもらえることに感謝し、読んでもらえることに感謝する。感謝ができない人間に漫画を語る資格はない

 鑑賞者とは何か。それは作品と向かい合うことを決意し、作品に対して思考を重ねるために、自分の時間を投資すると決心した受容者のことである。私はそうした覚悟を持たない人間を、鑑賞者とあまり認めたくない。また、覚悟のない人間の吐く意見や感想を、そこまで重く受け止めようとも思わない。(393〜394頁、太字ママ)

ここで自分を省みる。果たして自分の表現は、そんな受容者の覚悟に応えるものになっているのだろうか。私はつねづね、自分の文章にお金を払ってくれる、その行為のありがたさを訴えてきた。

良くも悪くもこれだけ本や文字が溢れている世の中で、なんの肩書きも持たない私のような素人の文章に時間を割いてくれる読者が、たしかに存在する。言ってしまえば、同じ時間やお金を使って(あるいは無料で)、もっと質の高いものを享受することは容易なはずだ。にもかかわらず、私の文章にその時間を割いてくれる。改めて、私はそのことを感謝すべきなのだ。

 

結局精神論か、と言われてしまうだろうか。否定はしない。私だって明らかに不合理な根性論は嫌いだし、無論、やる気さえあればどうにでもなる、とは思わない。

しかし、とかく嫌われがちなこの精神論にも一考の余地はある。というより、精神がなければ話にならない。精神あっての技術である。その前提を置去りにした技術論こそ、少しの衝撃で瓦解してしまう軟弱なものだと思う。

私はプロの技術論が好きだが、それはその中にその人の精神を感じられるからだ。積み上げてきたものに裏打ちされた技術論がきちんと求められる、そんな世の中を期待したい。

 

繰り返すが、私だって働かなくていいのならば、できれば働きたくない。幸いなことに比較的良い環境で働かせてもらっているが、それでもままならないこと、理不尽だと感じることは、本当に些細なことだったりするのだけど、やはりある。だからといって、働かないで生きること、それは難しい。

だったら、どうせ働かなくてはならないのなら、その中でどうやって生きていくかを考える方が有意義だろう。いまはそう考えようと思っている。

なんだか労働讃美に捉えられてしまうかもしれないが、最後に著者の言葉を借りてそんな誤解を解きつつ、この文章をしめよう。

労働は大切だが、労働のために自分を犠牲にする必要はどこにもない。(431頁)

(矢馬)