ソガイ

批評と創作を行う永久機関

読書日記的備忘録 2025年9月—本と言葉を巡る随想〜時間、生と死、郵便〜

2025年9月

 先月、「本当は明るい話がしたい」と嘆いたばかりだが、世情から目を背けない限り、もはやこれは叶わぬ願いなのだろう。このような状況の中で(狭義の)政治的な主張を続ける人々の胆力は大したものだと感嘆する一方で、そこにどうしようもない不毛さを感じてもしまう。「論争」が論争になっておらず、お互いの、いや、各々の言葉が一方通行になっているように見えるのだ。中にはもはや誰かに届けるつもりもないのではないかと思える、ただネットに向かってがむしゃらに球をぶつけているような言葉も少なくない。

 宝島社のムック『はじめてのZINE』において——私はどうにもこの「ZINE」という名称が好きではない——ZINEの製作者の許可無く書影等を掲載したことを巡って起こった議論についても、批判者の抗議の意図は理解できるのだが、やはりここでも、言葉が交通していないような空気を感じてしまった。法律上の問題はかなり厄介であり微妙な部分なので、これといった主張はまだ持てていない。大前提としてこのムックの表紙のデザインはあまりにも他人の製作物に寄りかかっており非常に安易なものだと思う。だが、この問題を巡る議論を別の側面から見てみると、釈然としない部分も散見される。たとえば、今回の主張の根幹にもなっている営利/非営利目的の区分が、現在の出版空間においてはどこまで明確に機能するものかが分からない。文学フリマでかなりの部数を売り上げるだけでなく、大手を含めた数々の書店にも置かれるようなZINEは果たして非営利的出版物と言い切れるのかどうかなど、従来的な個人出版観について再考すべきところに来ているようにも感じる。

 また、今回の主張を押し広げれば究極、それこそ同人誌や有料note、いや、無料のSNSの投稿であったとしても、そこで同人誌等について紹介、感想を書いたり、書影を載せたりする際には製作者側に道義上承諾を得ねばならない、ということにもなり得るだろう。製作者が自分の本が意図せぬ、望まぬ所に届くことを良しとせず、その心情を汲まないことを悪とするのであれば無理のない流れである。たしかに、厳密で分かりやすいかもしれない。しかし、本当にそれが心地よい、というより風通しの良い言論空間に繫がるのだろうか。こうなると、ZINEについて批判的に言及することも難しくならないか。それは息苦しくないか。そんな風にも考えられる。

 もっとも、実際のところは書影の使用に一言なかったことそのものではなく、「強い」商業出版に「弱い」個人出版物が簒奪された、という権力勾配に強く反応しているのだろう。故に、より小さい個人ブログやSNSについては咎められないものと思われる。それはそれでどうなのかとも思うがさておき、だが、今回の主張で一部持ち出された著作権については、無視して良いとは言わないが、あまり厳密に捉えすぎることが文化活動にとって必ずしも良い環境を生むとは限らない、ということは、個人出版を営む者も多少は意識しておいた方が良いだろう。ZINE界隈が自分で自分の首を絞めかねない空気を、今回のことで私は感じている。全体的に、もう少しゆとりであり、寛容さを持った方が良いと思う。無論、それに凭り掛かってなんでも許してもらう、ということではない。この二つは両立できるはずだ。なんとかいい落とし所を見つけられないか。しかしそのためには対話が必要だ。その対話が、今の世の中には欠けているのである。

 言葉の数は膨大に増えているにもかかわらず、どうしてこうも交通が滞り、窒息しているように見えるのか。田中和生『なぜ文芸時評は終わるのか——文芸時評 2007-2022——』(アーツアンドクラフツ)において、ある時期から文芸時評という制度が成立しなくなった理由として、それまでは作家や評論家に共有されていた戦後文学的な理想がある意味で達成され、文学的評価の基準が無くなったことを挙げている。これと同じことが、いま他の多くのものについても言えるのではないか。共通の目的(end)なきところに、論争は起きえない。文芸時評の存在意義を含め、それが世の中にとって良いことなのか悪いことなのかは、正直なところよく分からない。しかしながら、叫ばれるようになって久しく、その理念自体には私も大いに賛成するところがある「多様性」が思いのほか、この共通の目的として機能していないことについては考えさせられる。議論の成熟の過程、そのプラットフォームなどになにか問題があったのか。あるいは人間の心理的な部分に要因があるのか。その結果が現在の暗澹たる惨状なのだとすれば、真面目に検討すべきターンに来ているのではないか。私は現状を、多様性文化の反動、とは言いたくない。どこか責任転嫁しているような響きをそこには感じてしまう。この運動の中に、なにかしら今の動きを生むものがあったのではないか。その検討はきっと、将来に活きる。その前に世界が修復不能なところまで滅茶苦茶になっていなければいいが。

『なぜ文芸時評は終わるのか』は、この時期の文芸誌を中心とした作品のガイドというか、カタログとしても非常に有用なのだが、そのなかで一つ、気になった作品を読んでみた。白岩玄『空に唄う』(河出書房新社)は、23歳の新米僧侶・海生(かいせい)が、初めての通夜のお勤めに向かうところから始まる。それは同い年の女性、碕沢さんの葬儀だったのだが、そこで海生はなぜか死んだはずの彼女が見えるようになってしまう。彼女もまた、自分のことを唯一認識できる海生を頼り、奇妙な同居生活が始まっていく。

 設定からしてファンタジー要素を含んだエンターテインメント小説の趣もあるのだが、思いの外読み応えがある。碕沢さんの声が海生にしか届かないほか、彼女は痛みを感じず、彼の声以外の音は聞こえない。そして彼から直接手渡されたものでなければ触れることができない。そういった細かい要素が、海生が幼い頃に亡くなった父の挿話を織り込みながら、一人の青年の成長を描くのにさりげなく上手く機能している。

 自分が死んでも、家族を始め皆の人生は続いていく。今は空いている穴がふさがり、誰ともつながらない世界に行ってしまうことに怯える彼女に請われ、子守唄としてお経を唱えた夜が明けると、彼女の存在は消えている。生と死によってつながりを断つのではなく、それでも触れ合っているという信頼を確認することによって、人は人を本当の意味で弔って送り出し、そして日常の時間を生き続けていくことができるのかもしれない。

 碕沢さんがいなくなったあと、海生と同じく幼くして父親を亡くした檀家の娘、6歳の早紀ちゃんが寺に来たときの一シーンの描写が憎い。

 子供らしい説得を断りながら、ふと彼女の手首を見て、碕沢さんのヘアゴムをしていることに気がついた。訊かれるのを先読みしたらしい早紀ちゃんは「借りてるだけだよ」とそう言って、はずしたそれを僕の手の中に押しこんでくる。それから彼女はまたヘアゴムを取り出すと、僕の手にはめ、めいっぱいゴムを引っぱって放した。地味に痛い攻撃が何度か続いて、早紀ちゃんはSっ気たっぷりな表情で「痛い?」と僕の顔をのぞきこんでくる。

「痛いよ」

 そんな当たり前の返答に、早紀ちゃんは満足そうだった。やがて彼女はヘアゴムを残して立ち上がると、僕のもとから離れていった。どこに行くのかと思ったら、講話のときに使っている机に上がって、あーあーとマイクに声をかけている。

 視線を戻せば、目の前にあるご本尊はいつものようにしんとしていて、僕に何を訴えてくるわけでもなかった。こうしてここに座っていると、生まれ落ちたこの環境をほんの少しだけ恨めしく思う。幸か不幸かはわからないけど、ここに座り続ける限り、僕は自分をごまかして生きていくことはできないだろう。(236〜237頁)

 この「痛いよ」の一言に込められた海生の感情の深さと複雑さに、この作品のメッセージが滲んでいる。

 9月7日、東京ビッグサイトにてコミティア153が開催された。何度か足を運んでいるが、相変わらず上手い回り方が分からず、全体を回っているつもりなのに、「あれ、さっきもここ通ったような……」とリングワンダリング状態に陥ってヘトヘトになるのだが、今回はそれだけの甲斐があった。面白い、というよりは好きな作品に巡り会えた。『トキウリウリコ』(サークル・つきさば、作者・こぶ、作者既刊3巻)は、19世紀のドイツを舞台にしたファンタジー作品。まず第一に絵がかわいくて好きだ。

 この地を旅する日本人の少女・ウリコには、ある力がある。それは、人を望む過去の時間に戻すこと。しかし、その対価としてその人は同等の自分の未来の時間、すなわち寿命を払わねばならない。半年前に戻るなら半年分の寿命、2年前であれば2年分、といった具合に。また、この力は決して万能ではない。たとえば、長患いの病気の弟が亡くなった日に戻っても、弟の命を助けることはできない。だが、その日の自分の行動を変えることはできる。自分の後悔、過去と向き合い、その日をやり直す。それはときに、払った時間以上のものをもたらすだろう。

 この「時売り」をしているウリコ自身は、時が止まっている。この力を手に入れてから、10歳ほどの体軀は老いることも傷つくこともなく、そして痛みも感じない。そこでは成長もなく、すなわち「死」も訪れない。彼女はそれを、決して良しとはしていない。彼女の旅は、自分にこの力を与えた者を探し、止まってしまった自分の時間を再び動かすことを目的になされている。

 不思議と、『空に唄う』とテーマが通底しているようにも感じる。痛みを感じない、というところも同じだ。『空に唄う』はかなり直接的に、そして『トキウリウリコ』は「時間」を題材にしながら、やはり生きることと死ぬことについて描いている。あらゆる創作の根源にあるこのテーマについては、今後改めて追究してみたいと思う。

 時間、という意味では、小沼丹『お下げ髪の詩人 小沼丹未刊行少年少女小説集 青春篇』(幻戯書房)に見られる、小沼丹作品に特徴的な追憶、現在時点から過去のことを思い出すという語りに、私は小沼作品に出会ったときから親しみを覚えている。

 妻と母を相次いで亡くしてから書かれる「大寺さんもの」と呼ばれる私小説群の印象も強い小沼丹だが、本作は、「中学生活」や「新婦人」、「女学生の友」「ジュニアそれいゆ」といった、若年層向けの雑誌に書かれた作品を集めている。話の筋は比較的単純で、多くで若い男女の交歓が描かれる。しかしながら、そのほとんどが少女の病気であったり、引っ越しであったりで、成就にはいたらない。そんな過去のほんの一時期の、果たして失恋と呼べるのかどうかも怪しい淡い出来事を思い出しながら語る。

 小沼丹の作品の多くは、過去、すなわち、すでに終わったことを語っている。思い出すことによって、もう無くなって/亡くなってしまったものを束の間よみがえらせる。無論、こちらはけっして、その過去をやり直すことはできない。だが、それは確かにあったのだ、と確かめる。過去を切り離し、自らすすんで健忘的になろうとする世の中にあって、小沼丹が終生描き続けた追想、追憶の言葉に向き合ってみたい、と思うようになった。もともと好きな作家だが、当然、その全てを読んでいるわけではない。もし次に全集を買うとするならばこの作家にしよう、と決めている。

 ところで、文学フリマであったりZINEであったりが盛り上がり、ブームになっている、という話を頓に耳にするようになった。本は売れなくなっているにもかかわらず、作品を書いて発表したい人、本を出したい人は増えているという状況は細かく見ていくと理解できる現象ではありながら、やはりどこか変でもあるな、と思わないでもないのだがそれはさておき、いま個人で本を作っている人が、いったいどこまで本の製作過程について目を向けているのか、という疑問は常に持っている。DTPに代表されるが、便利で手軽な技術が普及したことで、良くも悪くも、あまり出版や本に詳しくなくても本の体裁を整えられるようになっている。だが、本であり文章には、それなりのルールが存在する。読む人が読めば、その本がそれを理解して作られたのかそうでないのかは丸わかりだ。

 本とは残るものだ。そのとき、内容も然る事ながら、重要なのは精度だ。この精度に大きく寄与するのが校正だ。長谷川鑛平『本と校正 増補新版』(中公文庫)は、本に携わる人間でも実のところ正しく認識していない校正という仕事について、いったいなにをする仕事なのかを、中央公論社(当時)で校閲部長まで務めた著者が具体的な経験を交えながら柔らかい語り口で教える。柔らかいとはいえ、かなり専門的、かつ細かいルールにまで踏み込んでもいる。いかんせん古い作品で、活版印刷を前提としているから現在ではあまり通用しない箇所も多々あるが、根本的な心構えは変わらない。このタイミングでの増補新版の刊行は、ちょっと面白い。最近の中公文庫はこういった渋い復刻タイトルがちょこちょこある。

 私はいままでいくつかの同人誌に携わり、そこでは当然、同人で手分けして校正を行ったこともあるのだが、いま思うと、正しい意味で校正ができていたシーンはほとんど見られなかったかもしれない。校正というより、他人の文章の推敲に傾いているものを多く目にしてきた。それは、校正をなんとなく文章を直すものとだけ理解しており、そこで行われている仕事の中身に目を向けていなかったが故のことだろう。そして、それはいま現在多く流通している個人出版物においてもあまり変わらないような気がする。基準が曖昧なのである。

 また、本書は文章を書く者においても無縁ではない。というのも、あとがきで著者は、次のように述べているのだ。

 また、この小さなものを纏めながら、つい、もひとつ欲が出てしまった。というのは、ものを書く人、いわゆる著述家たちに、〈校正〉という仕事のありよう【4字傍点】を理解してもらって、それを頭において原稿も書き、著者校正もしていただきたいものだと、ひそかに念願し、したがって時に、そういう方向に筆の走ったことである。(232〜234頁)

 個人出版においては、著者自身が編集であり校正を兼ねなければならない。内容を深めるのももちろん大事だが、本を作るのであれば、やはり自分がこれから作ろうとするものについて理解を深めることも必要だ。

 こっそりつけ加えると、いちおう出版社に勤めている私の目から見て、校正の目を持っている書き手は、有名無名を問わず、あまり多くない。長谷川は「昔の人は原稿を大切にした。何度も推敲して、十分手を尽くしたものが届けられることが多かったのではないか」とした上で、「昨今は、校正刷りになってから、それをまるで草稿かなぞのように直してくる人が多い。ちょっと手を加えるどころではない、まるで別ものになってくるのである」と言っている。60年ほど前のこんな嘆きは、簡単に早く直すことが可能になってしまった現在において、さらに悪い方向に進んでいるようだ。完全原稿という言葉は、もはや彼岸の彼方に追いやられている。

 また、原稿の精度が悪く、初校、再校、三校、念校と最後まで往生際悪くやたら赤をいれる書き手は、ほんの一部の例外を除いて、修正を経てもそんなに文章が良くなったように私は感じない。ときには、この赤は入れない方が良かったのでは、なんでこの期に及んでここをいじったのだろう、と首を傾げるものすらある。原稿の時点でふらふらしていて、その後で弥縫策的にあちこちをいじるから、全体のバランスや統一性に歪みが生じる。適当に積み上げて作った積木の家のパーツを抜いたり足したりしては、そうそう整った家は建たない。つねに脇から傾きを手でおさえている。だからこそ、いつまで経っても自分の文章を手放せないのではないか。この法則については、アマチュアの書き手も知っておいて損はないと思う。原稿は、本当に大事にすべきである。

 ところで、本書で線を引いたのは、必ずしも校正に限らないこんな一節だったりする。

世の中には、あまりはっきり突きとめられない、突きとめるとかえって雲散霧消してしまうようなものもあるのである。(81頁)

 曲がりなりになんでも調べようと思えば調べられてしまう現代の文章に喪われてしまったものが、ここにはあるような気がする。やはり、厳密すぎることが良い結果に繫がるとは限らない。

 文庫化したので再読し、そこで取りあげられている鬼海弘雄の写真と散文がいま気になって仕方なくなっている堀江敏幸『定形外郵便』(新潮文庫)のあとがきでは、「(国営時代の)郵便が好き」と語られている。私はこの活動を始めて、いくつか郵便を利用した出版物であったり、取り組みを企画したことがあるが、郵便は奥が深い。もっとも私については、物心ついた頃にはこの国の郵便はすでに民営化されている。残念である。国鉄にも乗ってみたかったものだ。

 郵便にかかる時間や手間、制約、そして心許なさは、本を届けることと通じるものがあると感じている。だが、いま多くの人はその心許なさに耐えられないようだ。郵便の感覚を、出版であり言論空間に取り戻すにはどうすればいいのか。そんなことも考えている。

(矢馬)