ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ9

いままでに何度も試みては失敗・挫折している読書ノートを、性懲りもなくもう一度始めてみようと思う。というのも、読書量が減っていることに少し危機感を覚え始めたからだ。時間がないといえばないのだが、だからといって皆無なわけではまったくなく、読書に充てられる時間があるのは確かなのだ。しかし、読まない。それはモチベーションの問題が大きい気がする。読んでいても、どこか散漫な気がする。なにかしらモチベーションとなるものが欲しい。もちろん、それを論考のようなまとまった分量の文章にするのもいいのだが、それがそう易々と出来たらだれも苦労しない。かえってそれがプレッシャーになってしまっては元も子もない。

あまり肩肘張らず、かといってちょっとした緊張感は残し、そのうえ積み重なっていく実感を感じられるものは……。それは、読んだ本について200~400字程度の感想か考えたことか印象に残った一節について書き記して、それを記事として公にすることではないか。そう考えてみた。

薄々気づいている方も多いと思うが、私はひとつの物事を続けるのがあまり得意ではない。すでにして何個も頓挫している企画。往々にして手段が目的化した際に挫折する傾向にあるのはわかっているのだが、ある日突然そうなるのではなく、グラデーションを作るようにそうなっていくので、気が付いたときには手遅れ、なんてことがしばしば。継続は力なりと言うが、まったくその通りである。

 

魚住昭『出版と権力——講談社と野間家の一一〇年』(講談社、2021年)

1909年に野間清治が起こした大日本雄弁会。現代日本における大手出版社のひとつ講談社はここから始まった。

歴史的には、講談社といえばやはり雑誌だ。「おもしろくてためになる!」などのキャッチコピーで有名な『キング』をはじめとして、『講談倶楽部』『少年倶楽部』『少女倶楽部』『婦人倶楽部』『現代』など数多くの雑誌を作り、野間清治は「雑誌王」とまで呼ばれるようになり、出版界において大きな地位を占めることになった。

この時代は、知的エリート層を中心とした「岩波文化」に対し、大衆的な「講談社文化」があった、と間違いなく言えよう。

これまた有名な話だが、講談社は関東大震災に際して、『大正大震災大火災』という「本」を、スピード刊行している。震災によって大きな打撃を受けた出版界では、一定期間雑誌の刊行を止めようという協定が結ばれていた。しかし講談社は、雑誌ではなく「本」という名目のものを作り、そしてそれを当時流通としては単行本を扱うよりも優れていた雑誌のルートにのせて行き渡らせた。これが現代にまで繫がる日本出版業の流通の元祖と言えよう。その他にも講談社は以後の日本の出版にかなりの影響を及ぼしている。それは良くも悪くも、である。

本書では、必ずしも講談社にとっては都合の良くない、たとえば戦争協力、あるいはぐっと現代に進んで「ヘイト本」問題などにも触れられている。

日本の出版がどのような環境のなかでどのような変遷を遂げてきたのか、それを見渡すのに有用な1冊。

もっとも、分厚い本でありながらノドがキツいのが難点ではある。

2段組にするなどすれば、もう少し可読性の高い版組でかつ持ち運びやすい厚さになったのではないか。

(出版業界において、単価を高くするために嵩を増すという方法論があることを分かった上で言っています。)

 

川崎昌平『重版未定』全3巻(中央公論新社、2021年)

弱小出版社・漂流社を舞台に、出版業界の現実を描いたエッセイ(?)漫画。

ところどころ入る専門用語の解説もおもしろい。

タイトルからも想像できるとおり、あんまり明るい話ではない。それも当然で、現代の出版業界を描いて希望しか見えないような明るい話をされたら、あんまりにも噓っぽい。というより噓である。

この作品で特に印象に残っているのは、重版がかかる本だけが出版社に利益をもたらす、という話だ。出版の利益率は低いから、それもやむを得ないのかもしれない。

しかし、だからといって重版がかからない、かかりそうもない(重版未定)の本は要らないのか。そうではないはずだ。それが本書において一貫している主張だ。

クライマックスでは漂流社が大手出版社に買収されて……といった話もあり、その大手出版社の姿勢を登場人物たちが非難するのだが、この出版社の名が「漫談社」。なんだか聞いたことのある響きだ。

また、第1巻の帯には「『かすり傷』の痛みを知れ!」という煽り文がある。はて、これはいったい誰のことを指しているのだろう……と、すっとぼけさせていただく。

併せて、同じ著者の『重版未来 表現の自由はなぜ失われたのか』(白泉社、2020年)、過激な出版統制が敷かれた近未来を描いたこの作品もおすすめしたい。巻末の主張を受け入れられない読者もいるかと思うが、私はこの主張はかなりまっとうで、ひとつの当たり前のことを言っているものだと感じている。「当たり前」というとネガティブな印象を持たれてしまう危惧があるのだが、私は「当たり前」のことをしっかり主張できることは大事だと思っている。

だいたい、「当たり前」のことも言えないようではどうしようもない。当たり前ができてからその先がある。この当たり前を怠る、面倒がる傾向がどうにも蔓延しているように思われてならない。

 

小山清『風の便り』(夏葉社、2021年)

小山清(1911〜65)は、太宰治にも師事した作家。「小さな町」や「落穂拾い」などの私小説で有名だ。

私はこの作家の書く文章の視点の低さとでも言おうか、その淡々とした歩みが好きだ。なにも特別なことは書いていない。それでも何度も読みたくなる。

彼の文章に出てくる人物たちは、やっぱり普通の人々だ。本書の言葉を借りれば「平凡」だ。それでも、読んでいるとだんだんとこの人たちのことが好きになってくるのだ。

「僕には世間の人が、『平凡』であるには、みんな少しく欲が深すぎるような気がしてなりません。」

この書き手のような目で世界を見れば、少しは希望を持てるのではないか。私はそう信じている。

 

千葉紀和・上東麻子『ルポ「命の選別」 誰が弱者を切り捨てるのか?』(文藝春秋、2020年)

2016年、神奈川県の障害者施設「津久井やまゆり」で、19人の入所者が殺害された事件が起きた。その実行犯、植松聖死刑囚が、「障害者は生きている価値がない」「本人も家族も不幸になる」と言ったことから、「優生思想」という言葉が一時、メディアを席巻した。

植松死刑囚が元々この施設の職員であったことは衝撃的だったが、どうにも私には、彼を異常なモンスターとして処理してしまわなかった、という疑念がずっとあった。

本書は、出生前診断や受精卵診断、障害者施設建設に伴う反対運動、ゲノム編集、社会的入院、そして相模原殺傷事件と、優生思想に関連するテーマをひとつひとつ丹念に取材した本だ。当事者へのインタビューも豊富で、ひとつひとつが非常に読み応えのある内容になっている。

このなかで一貫しているな、と感じたのは、往々にしてビジネス、もっと露骨に言ってしまえばお金儲けの波が浸入してくると碌なことにならない、ということだ。

しかし、それがビジネスとして成立するのは、需要があるからだ。

これは「ヘイト本」の問題とも共通している。過度な出生前診断を行う無認可のクリニックやヘイト本を売りまくる出版社の姿勢にばかり目が向くが、それを求める者の集団、つまり社会があるということにも注意しなければ、問題の根幹はまったく見えてこない。

障害者施設建設に対して、「なにをされるか分からない」「土地の資産価値が下がる」などと強く反対し、行き過ぎた行動に出る人々を取材した項のなかで、その人たちがしかし、いつもは「普通」の良い人である、というところが重要ではないか。

いま、広く社会に「優生思想」を望む土壌があるのではないか。しかし、それは自分が「優等」であるときは都合がいいかもしれないが、自分や家族が次の瞬間に弱者になる可能性はある。そうでなくても、人間はやがて衰える。優生思想が蔓延る社会では、途端に自分が生きづらくなってしまう。他人事ではない。

 

笹乃さい『味噌汁でカンパイ!』第11巻(小学館、2021年)

私がリアルタイムで追っている数少ない漫画のひとつ。

実は昔から、バトル漫画がそこまで好きではない。

そういった事情もあって、私は「ジャンプ」タイプの人間ではないらしい。

私はやっぱり、こういった雰囲気の作品が好きなのだ。

 

『港のひと』11号(港の人、2021年)

斉藤毅氏の講演録が特によかった。

本や詩を「贈り物」という観点から見る。

本とはやがて手放すためにつくるもの。

まったくその通りで、しかし果たしていまこの考えを持っている人がどれだけいるのだろうか。

これは多くの人に、とりわけ、本をつくっている人には是非とも読んで欲しい。

 

基本的には、読んだ本を余すことなく紹介していこうと考えている。

 

(矢馬)