2021年1月13日
久しぶりに片頭痛に見舞われた。
私が片頭痛を発症したのはたしか高校2年生のときだった。大学受験に向けて勉強をしているなか、目を開けているのもつらい頭痛に、月に2、3回も襲われるのはきつかった覚えがある。高校2、3年生のとき、1年で10日近くの欠席が記録されていたはずだが、これには、早退や遅刻による半日分の欠席も含まれるため、実際にはやはり、月に2回程度、頭痛に襲われていた、ということになるだろう。
それはさておき、初めて頭痛に襲われたとき、それは高校で行われていた夏期講習の最中だった。日本史の講義を受けているとき、急に自分のシャープペンシルの先が真っ白になって、自分が書いている文字がまったく見えなくなった。いくら目を擦っても、目薬をさしてもそれは消えず、目をつぶっても、その光は消えない。だんだんとその範囲が広くなり、やがて点滅をはじめた。講義をひとつ残していたが、友人に言づてを頼んで帰宅した。
階段を恐る恐る降りながらようやく電車に乗って腰を下ろすと、いよいよ視界の右半分すべてが点滅しており、やがてこめかみがズキズキと疼き出す。私はただひたすらに目をつぶって、30分強の道のりを耐えた。
これが、片頭痛の前兆症状として現れることがあるという閃輝暗点だと知ったのは後のことだ。
ところでこの閃輝暗点は、あの芥川龍之介の最晩期の作品「歯車」に出てくる歯車がそれではないか、と言われている。
僕はそこを歩いてゐるうちにふと松林を思ひ出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云ふのは絶えずまはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう云ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に数を殖やし、半ば僕の視野を塞いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、——それはいつも同じことだつた。眼科の医者はこの錯覚(?)の為に度々僕に節煙を命じた。しかしかう云ふ歯車は僕の煙草に親まない二十前にも見えないことはなかつた。僕は又はじまつたなと思ひ、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。左の目は果して何ともなかつた。しかし右の目の瞼の裏には歯車が幾つもまはつてゐた。僕は右側のビルデイングの次第に消えてしまふのを見ながら、せつせと往来を歩いて行つた。
この「歯車」が出てくると、語り手は憂鬱に襲われる。明らかに語り手に芥川本人の姿を匂わせる私小説的な「歯車」は全体として陰鬱とした作品で、「ぼんやりとした不安」という言葉を遺して自殺した芥川の心理状態を暗示する作品として参照されることもある。安易に作者と作品を結びつけることには慎重でありたいし、芥川を死へと追いやった要因には、ほかにも円本競争の最中おきた、アルス『日本児童文庫』対興文社・文藝春秋社『小学生全集』の訴訟騒動に巻き込まれたことによる精神的疲弊、現代出版情勢への失望などもあると思う(この辺りのことについては、小尾俊人『出版と社会』に詳しい)。
それは措いておくとして、もしこのころ、芥川が片頭痛に悩まされていたとするならば、それは彼にとって非常に苦しいものだったと想像される。
というのも、昨日私は久しぶりに閃輝暗点に襲われたのだが、それに気づいたのは、電車に乗って座り、本を開いたときだった。読もうとして、さっそく一文字目が見えない。何度目を瞬いても、ぴかぴか光って見えない。それで、ああ、これはダメかもしれない、と思って、すぐに本を閉じて腿の上のリュックサックに置いたのだ。
この光が出ているとき、本を読み書きすることができなくなる。ただでさえ瑣事に振り回されているなかで本を読み書きできないことが、芥川にとっては相当な苦痛であったことが予想される。しかも、その後には目を開けていることすら嫌になるほどの頭痛が訪れ、あらゆる光、音、匂いが鋭敏に感じられてしまう状態になる。いまはさすがに私の片頭痛も落ち着いてきているが、当時はそれこそ、部屋を真っ暗にして、耳を手で塞いで体を丸めるようにして毛布をかぶり、痛みが過ぎ去るか眠りに落ちるのを待っていた。もしかして芥川も、そのようにしてただ時が過ぎるのを待っていたことがあったのだろうか。
片頭痛には遺伝的要因が大きいとされるが、ほかにはストレスなども大きな要因として挙げられている。芥川龍之介というと、神経質というイメージがどこかある。円本に狂乱する出版状況に巻き込まれながら命を絶った芥川の姿が、現代の薄利多売モデルを抜け出さないどころか拍車をかけているように見える出版界を見ていると、ふと浮かんでくる。果たして彼は、自分の名がこの国において最も有名な純文学の賞に冠されていることを、どう思っているのだろうか。
2021年1月13日 続
まさか二日連続で見舞われるとは。
今度は左半分に歯車が現れた。しかも、頭痛薬を忘れるというていたらく。
幸い、痛くなりはじめたところでアイスコーヒー(いつもはブラックなのだが、今回は砂糖多め)を買って、300ミリリットルを一気に飲んだ甲斐もあってか、それほど痛くなることなく済んだ。もちろん、痛くなかったわけではない。
気になって天気図を調べると、いまは強い低気圧が上空に発達しているということだった。低気圧によって体調を崩す人は多く、「天気病」などとも言われているらしい。
そこで思った。そういえば、人間が季節に関係なく1年を通して同じ仕事をするようになったのはいつのことからなのだろう、と。
いうまでもなく、第一次産業は季節や天候によって大きく左右される。日本に限ると、農耕社会が生まれたのは縄文時代から弥生時代にかけてのことだったはず。福岡県板付遺跡や、静岡県登呂遺跡なんかに水田跡があった、と日本史で習ったことを思い出す。それよりも前は、狩猟採集文化だった。これも自然が相手だから、やはり季節に左右される。だからこの時代の人々は移動している。それが、縄文時代晩期から弥生時代にかけて農耕文化になって、人々が定住ができるようになった、というのが教科書的な記述だったと思う。
それはさておき、1年中同じ仕事ができるようになるのは、やはり工場の誕生が大きいのではないだろうか。第二次産業だ。そして、第一次産業と第二次産業による生産物を利用しながら、第三次産業が生まれる。非常にざっくりだが、このような理解でいいだろうか。近代以降、一気にこの産業構造の転換が進む。第一次産業から第二次産業、そして第三次産業へ、という流れ。2015年の時点で、日本において第一次産業従事者の数は、全体の3.8%に過ぎない。
唐突だが、島崎藤村『夜明け前』は江戸から明治への大きな時代の転換期を舞台とした大長篇だが、たしかそのなかに、人々が太陽暦という新しい暦を受け入れられない様子を描いた一場面があった。さがしてみると、こうあった。
太陽暦の採用以来、時の分ちも今は明けの何時、暮れの何時とは言わない。その年から昼夜二十四時に改められた。月日の繰り方もこれまでの暦にくらべると一か月ほど早い。これは前年十二月上旬をもって太陰暦の終わりとし、新暦による正月元日が前年の冬のうちに来たからであった。
(……)しかし、これまで小草山の口開けから種まきの用意まで一切はこの国固有の暦を心あてにして来た農家なぞにとっては、朔日だ十五日だということも月の満ち欠けに関係のないものはない。どうしても旧暦で年を取り直さなけれは新しい年を迎えた気もしないという村民のところへは、正月が一年に二度来る始末だ。多くの人々は新旧二通りの暦を煤けた壁に貼りつけて置いて、新暦の四月一日が旧の三月幾日に当たると知らなければ、春分の感じが浮かぶはおろか、まだ季節の見当さえもつかなかった。
日本の暦が太陰太陽暦から太陽暦に改められたのは明治五年のこと。ちょこちょこ閏月を入れて調整する太陰太陽暦よりも、1年が12カ月と定まる太陽暦の方が、工場労働には適する感じがする。作品ではこの少しあとで、壁に「新たに」かけられた「八角型の柱時計」が、「かちかち」と音を立てている。この「時間」というものも、やはりシフト制という工場労働の形に適している。いま当たり前のように基準にしている暦や時間も、近代の産物だということになるだろう。
しかしながら、ここにも書かれているように、太陰太陽暦は日本の風土に適しており、農家の人々はこの暦を当てにして、仕事をしていたのだ。自然を相手にする農家にとって、1年は単純に365等分されるものではない。だから、農家には週休二日制も、月給もないのである。
現代人の生活とは本来の人間のバイオリズムに即していないものなのではないだろうか。おそらく、そんなことはこれまでも散々言われているのだろうけど、こめかみを押さえ、生あくびをかみ殺しながら、改めてそんなことを感じた。
もっとも、そんな風に言っていても頭痛は治らないので、結局私は大人しく寝るしかないのである。睡眠もまた、現代人が軽んじがちな、生物としての大事なバイオリズムの基準のひとつなのだろう。
2021年1月15日
よもや3日連続となると、それは根本的な生活習慣の改善が必要ではないか、と思えてくる。痛みがピークをむかえる前になんとか寝てしまえたからよかったが、朝になっても右のこめかみは、下を向いたり、くしゃみをしたりするとズキズキと痛む。年が明けてからずっと気分が鬱々としてたが、やはりなんらかのストレスを感じ続けていたのだろうか。
そして、ここまで続くと、もう書くこともない。
当然、こうも閃輝暗点に頭痛が続くと、本など読んでいられる状況ではないからだ。
これも良い機会だと思い、電子機器離れなんかも始めようか。結果、読書の時間や、ぼーっとする時間なんかも作れるかもしれない。あとは、実はちょっと写真にも興味が出てきて、デジタルカメラを買って(一眼レフとかまではいかなくてよい)、散歩しながらいろいろな風景を収め、ちょっとしたエッセイ風の記録をしてみるのもいいのかな。やっぱり、からだの動きを伴わない文章は不健全なのではないだろうか、と、久方ぶりの納豆を口に運びながら考えた。
(矢馬)