ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ6

2021年1月4日

これまで何度も年をまたいできたわけなのだが、記憶にあるなかで今回が最も、年が変わったという意識が薄い。12月30日が12月31日になるように、12月31日から1月1日になるのを感じていた。

それはこの日に至るまで同じで、例年とは異なり、2日のお墓参り以外に正月らしいお出かけやイベントがほとんどなかったことも一つの原因なのかもしれないが、どうにもそれだけでもないような気がする。いや、それはもしかしたら、それだけではないと思いたいだけなのかもしれない。

出掛けられなかった。そのことをなにかにつけて理由にしたくない。自分の中でそんな意識が働いている可能性を、私は否定できない。

当然、2020年から今にかけての出来事で、世界中に蔓延している疫病の影響を無視することはできない。これが喫緊の問題であることを否定しようとは思わないし、まさかこの疫病は大したものではないとか、そもそもフェイクである、などとは思っていない。

しかし、ややうんざりしていることは確かだ。この疫病についてではない。疫病に対しては、継続して注意している。そうではなく、それを取り巻く人々の言動に対してである。当然、それは文学をはじめとした文章のメディアについても例外ではない。

ここ最近、私はとりわけ現代小説を読まなくなった。小説、より正確にはフィクション作品自体から距離を置いている。なぜそうなったのか、自分でも厳密にはよく分かっていない。とはいえ、各種文芸誌をぺらぺら眺めることはある。

案の定といってしまうのはなんだが、多くの作品で(ここで「ほとんどの」としないのは、単に私がすべてを把握しているわけではないから、その表現を自重しているというだけに過ぎない)マスクが出てくる。エッセイならまだしも、創作においてもそうだ。書き手の誠実な態度と言えるのかもしれない。が、私個人としては、もう分かったよ、とうんざりさせられているような感じがしている。しんどい。そしてこの感覚は、なにも疫病だけに対するものではない。

これも私の感覚だが、最近はテーマ性、メッセージ性が強い作品が多いように感じている。それは少しも悪いことではないのだが、私個人は、読んでいる途中でそのテーマが明確に分かってしまい、そして作品自体が、そのテーマを訴えたいがために作られたもののように感じてしまったが最後、先を読む気が大きく削がれる。明確なメッセージというものは、私にとってフィクション作品を読む動機ではないようだ。

やや乱暴な論になるだろうことを断っておく。

東浩紀が「ハッシュタグ文化は、言葉も人も摩耗させている」と言っている記事を見付けた。#MeTooからはじまった印象だが、これはよい。ただ、#○○の辞任を要求します、といったようなハッシュタグが毎日の様に新しく作られては消えていく状況を、私は複雑な感情でみている。声をあげることは大事で、その場のひとつとしてSNSがあるのも良いと思うのだが、いかんせん流れが速すぎる。今の流れの発端となったと思われる「#検察庁法改正案に抗議します」については、なるほど、こんな方法もあるのかと感心した(私はそのハッシュタグを使わなかったが)。だが、以降、ことあるごとに新しい抗議のハッシュタグが生まれては数日で埋没していく。考えるよりも先に、ハッシュタグが流れては消えていく。反応するにしても、一度それに乗ってしまうと、目についたハッシュタグで呟かなくては、「この人はあっちでは言ったのにこっちでは言わなかった。賛成してくれないのか」と余計な詮索を受けるのではないか、と感じる。すると、やはり考えるよりも先に反応せざるを得ない。

東氏の新刊『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)では、インターネット・SNSに失望した10年間が書かれているという(未読。いつか読んでみようと思う)。曰く、インターネットがオルタナティブな空間ではなくなった。「『オルタナティブ(社会の主流の価値観とは違うこと)がオルタナティブであり続ける時間』が極端に短くなっている」とも言っている。これについてはまったく同感で、私もここ数年感じ続けていたことだ。オルタナティブが数の支配するネットの世界の論理に組み込まれ、オルタナティブのままでいることを許してはくれない。しかも、それまで「サブ」だったり「アングラ」だったりしたものがマスに認められると、みな案外単純に喜ぶのだな、と痛感している。私は以前から、たとえば深夜アニメが朝の情報番組やゴールデンタイムのバラエティ番組で大々的に取りあげられると、その作品を観ていようがいまいが、ひどく居心地の悪さを感じていたのだが……。結局、進んでオルタナティブを選び取ったわけではなかったのだろうか。

SNSで「バズった」(この言い方も好きではない)動画や言動がマスメディアに取りあげられ、さらにそれがSNSによって拡散されるといった相互作用は、どちらの力も低下させたと私は思う。言ってしまえば、編集機能の低下。条件反射で飛びつく、その反射の速度が重要視されていく。ここには時間をかける編集という創作行為が入る余地はなく、はなから排除されている。

最近の東氏の活動は、いかにしてオルタナティブな空間を作るか、というところにあると言う。その問題意識に、大いに共感する。そして私は、それを出版に見出せないか、と考え続けている。

なぜ出版か、その理由はいくつかある。東氏の言うような「1万人〜10万人」という規模もそうだが、もう一つは、出版はインターネットと比べてどうしても遅くならざるを得ないメディアだからだ。一見それは致命的な弱点である。いや、弱点であることは確かなのだが、とかく速さが求められるいまの時代において、この「遅さ」は大きな強みになるのではないか、と思っている。

ところが、そんな出版のひとつである現代文学の決して少なくない数が、どこかハッシュタグ化してはいないだろうか、と感じられていることも事実だ。それはむしろ、インターネット的な速さを希求しているように思えてならない。「#LGBTQ」「#震災・原発」「#コロナ」「#政治」「#マイノリティ」「#フェミニズム」……このようなハッシュタグが、作品の後ろに透けて見えてくることがある。これが、私にはしんどい。というより、これなら別に物語でなくてもいいのではないか、と思ってしまうようになった。私は以前ほど、「物語の力」なるものを信じられないでいる。物語でしか描けない現実がある、と言われても、本当にそうだろうかと疑いが頭を擡げる。

もちろん、そのテーマひとつひとつが重要なものであることは論を俟たない。当然ながら、これらの同時代的テーマを扱っていない「から」偉い、などともまったく思わない。しかし、それが現状のハッシュタグ文化におけるそれである限り、これらのテーマは少し時間が経てばすぐに忘れ去られてしまうのではないか、と危惧される。すなわち、それは条件反射で取り込まれたテーマであるかもしれないのだ。実は、そんなに深くは考えられていないのではないか、と疑問に思ってしまうこともある。果たしていま、文芸誌はオルタナティブな空間として機能できているのだろうか。疑問を覚える。

私はいま、オルタナティブな空間を「同人出版」に求めている。商業出版よりも規模はずっと小さい。しかし、だからこそ商業出版ではできないけれど、同人出版ではできることがあるはずだ。私はそんな希望を持っている。

もっとも、それは幾分かの諦念を覚えながらの願いではある。同人出版にはネット的な「大喜利」の方面に走る向きも大いに見られ、当然のことながら、それは私の思うオルタナティブなあり方ではない。ここでも出版は、ネット的な空間に自らを求めている。残念なことに、東氏がインターネットに失望していったように、私も少しずつ、出版(ここには書店や読者も含む)や同人出版に対して緩やかに失望し続けている。新刊ではなく古本を買う比率が上がっていっていることが、そのひとつの証左であるかもしれない。

しかし、失望しているだけでは仕方がない。私ではあまりにも小さな力かもしれないが、少しずつ考え、そして動いていこう。

私は「ソガイ」第四号にて寄稿した論考を、このように結んでいた。

「つまらない」ものを真摯な言葉で描いた小説が文芸誌に載り、単行本となっている限りは、日本の文学・出版はまだかろうじて大丈夫なのかもしれない——なんて、楽観に過ぎるのだろうか。

もちろん、ダーシ以降は反語であるのと同時に、自分への皮肉でもあった。この時点ですでに私は、現代文学に不審を抱いていた。ところが、このかろうじての希望は、森内俊雄という作家との出会いによって生じたものだった。大江健三郎、古井由吉らと同世代であり、いまだ現役でありながらほとんど話題にも上らない作家のそのときの最新作『道の向こうの道』は、以後の私の道を決めたと言えるかもしれない。

そんな彼は、「新潮」2020年12月号にて、新連作「行きつ戻りつ」を開始した。おそらく不定期の掲載となるだろう、その第1回、11ページの短い文章は、この度もまた私の胸に小さな希望をもたらした。「まだかろうじて大丈夫なのかもしれない」と。「まだ」「かろうじて」「かもしれない」と、いかにも弱気な希望ではあるが、これで充分だった。

私はいま再び、出版というものを調べはじめている。明日からは仕事が始まる。1年目であった去年はペースを摑むのに精一杯だったが、今年からはもう少し自分を律し、勉強の時間を取れるように真面目に努力していこうと思う。真面目さを笑うようになったら人間は終わりである。

ここにきてようやく、年が明けたという感覚が出てきたかもしれない。

 

夜から読み始めた佐野衛『書店の棚 本の気配』(亜紀書房)には、ちょうどいまのことと関係するようなことが書かれていた。東京堂書店、来月頃に一度は行きたい。

 

2021年1月7日

去年は自分なりに「広げる」ことに勤しんでいたような気がする。

今年もそれを継続しつつ、並行して「小ささ」を追求していこうと思う。

ミニマル。今年の目標をあげるとすれば、この一語になる。

最小限とは、思えば繊細なものだ。小さくしながら、しかしその範囲での限界も要求される。この2つの運動のうち、私はまだどちらか片方しかできていないのではないか、と去年を今更ながら振り返ってみて感じた。

唯一、その均衡をかろうじて保ち得ていたのは「ソガイ」第五号の論考ということになるかもしれない。あれは自分でも納得がいくものになった。それでちょっと浮かれていたのかもしれない。だが、当然のことながら、そんな風に納得できるものがぽんぽん書ける訳ではない。大抵はうまくいかない。過去の自分の文章を読むのは、基本的に苦痛だ。

ところで、先日納戸の掃除を手伝っていたとき、母がとっていた、私の小学生時代の作品や提出物が大量に出てきた。そこには、1学期の目標、だとか、この1年を振り返って、といったような自分を省みる課題がいくつもあった。これが自分でもおかしかったのだが、私はいつも、自分ができなかった点を第一に挙げている。なかには「目標は達成できたが、もっとできたのではないか」というのもあり、絶対に自分を褒めては終わらない。当時10歳とか11歳と考えると、これくらいはもうちょっと素直に褒めてあげればいいのに、と自分のことながら思わないでもないが……。

だが、三つ子の魂百までというが、まさにその通りだった。思い返してみて、私はいまに至るまで、自分で自分を褒めることをあまりしない。なんだか嫌なのだ。これはストイックでもなんでもなくて、単に後ろめたさがあるからなのだろう。自分はまだ全力を出せていない、出そうともしない自分の姿が常に視界にちらつく。

また悪い点を挙げてしまった。とまれ、まずは「小ささ」を積み上げることから、改めてはじめていきたい。

 

(矢馬)

 

参考

www.businessinsider.jp

news.yahoo.co.jp