ソガイ

批評と創作を行う永久機関

新書というメディア

最近、ことあるごとに考えさせられていることがある。それは、本を読む人は、一冊の本を読み通すことをあまりにも簡単に考えすぎるきらいがないだろうか、ということだ。

私はここ数年ずっと「これからの出版」を私なりに考えている。無論、メディアがここまで多様化したいま、出版が90年代までのような勢いを取り戻すことは非常に困難だろう。とはいえ、私はそれでも、出版はこれからも生き残っていくだけの力を本来持ち合わせていると思っているし、生き残っていかねばならないと胸を張って言えるようでなければ話にならないと確信している。

それには作り手のみではだめで、受け手側の存在が不可欠だ。だが、これが難しい。

ほかにいくらでも楽しみがある(実のところ、これだけ趣味が多様化した一方で、むしろ現代人は以前よりずっと退屈しているようにも感じているのが、話が逸れるのでここでは措く)なかで、どうすればこの「古い」メディアに、それも一時的ではなく継続的に、目を惹きつけることができるのだろうか。

そんなとき、たとえば作家はよく、本を読むことの大切さを訴える。それはしばしば読書を神格化し、どこか説教くさく感じてしまうこともあるが、私とて同じようなことを言ってしまう可能性があるのであまり批判はできない。だが、こういった話のなかで挙げられる作品は、往々にして名作と呼ばれるものであることを、少し考えたい。

結論から言うと、日頃読書をしない人にとってはそのチョイスが読書への高いハードルとなってしまうのではないか、と感じるのだ。

 

具体例を挙げてみよう。2021年6月22日「読売新聞」朝刊の「人生案内」。自分がこれから成長していくには何かが足りないと感じて悩んでいる17歳の学生に対して、作家のいしいしんじは「こころのしなやかさを育み、世にむかう感性を鍛え、真の想像力をやしなう、そんな昔ながらの、有名な方法」として、本を読むことを挙げる。

本を読もう。小説を、この世に広く、長く読まれてきた文学をひもとこう。地域、時代をこえて読みつがれたことばが、あなたの土壌に、黄金色の雨のように降りそそぐ。そこから、あなたが芽ばえ、あなたが伸び、あなたが花開く。

ドストエフスキー、夏目漱石、カフカ、スタンダール、マルケス。誰かが書いていた。「10代のうちに古典を読んだ人は、一生読みつづけられる。そうでないひとは、一生読めない」

まず最初に言っておくと、私はこの回答の内容に反対しているわけではない。むしろ賛成したいくらいだ。やはりこれも、小説の力を過大評価しており、単純な娯楽という読み方を制限しないだろうか、とも感じられるが、いしいしんじらしい答えだと思うし、私も小説・文学のそのような力を信じたい人間の一人だ。読書がときに、苦悩の中の一条の光になる経験も、私にはある。

私がひっかかったのは、そこで挙げられた名前だ。 ドストエフスキー、夏目漱石、カフカ、スタンダール、マルケス……。いわゆる「文豪」と呼んでも差し支えない面々だ。時間、あるいは歴史という淘汰にも耐えてきたこういった作家の作品は、やはりそれだけ質も保証されている。古典とはそういうものだ。これらの作品はきっと、この学生に新たな地平をもたらすことだろう。

だが、まず白状すれば、平均よりはだいぶ本を読んでいることになるであろう私も、これらの作家を必ずしも読んでいるわけではない。また、読んだからといって、その良さがさっぱり分からなかったことも少なくない。この際だからもっと言えば、私はカフカを面白いと思ったことは一度も無い。大学生のころ、カフカはどれを読んでもおもしろく、小説を書こうと思っているならカフカの作品はすべて読まないといけない、と言った教授がいたらから、当時素直だった私は『城』や『審判』、あるいは短篇集にも挑戦したが、『変身』はまだしも、他は正直いって読んでいるあいだ苦痛だった。これは、「読まねばならない」という出発点ゆえに教科書的な読みになってしまったことが一つの要因かもしれず、そんなことを考えないいま読めば少し違うのかもしれない。それは措くとしても、私は一時期、カフカを面白く思えない自分に劣等感を抱いてすらいた。もしかしたら自分には本を読む才能がないのかもしれない、と。まあ事実才能はないのだろうが、いまはそこまで卑屈にはならない。それこそ、私は森内俊雄『道の向こうの道』をとても良い作品だと思っているが、文学界隈でもこの作品が話題になっているシーンを見たことがない。たとえばそんなことからも、世の評価はそれほど絶対的なものでもないし、古典とて例外ではないのではないか、と自分なりに信念をもって言えるようになったことが大きいのかもしれない。もちろん、また気が向けばカフカを手に取ることもあるだろう。

話を戻すと、件の学生は分からないが、日頃それほど本を読まない人間に、いきなりドストエフスキーやらスタンダールやらそれこそ『百年の孤独』を渡して、じゃあ読んでみるか、となるだろうか。

でも、夏目漱石なら大丈夫だろう。そう思う読書人も多いだろう。しかし、私は実際に、『坊っちゃん』は難しいと言った人を知っている。その人は勉強もできたし、少し堅い実用書やミステリーは好んで読む人だった。私も最初は驚いたけれども、よくよく考えてみれば、もう100年以上も前に書かれた小説を読むにはそれなりの慣れが必要だ。私はたまたま、多少ではあるがそこに慣れていたから、あるいはちょっと向いていたから、『吾輩は猫である』や『虞美人草』ならともかく『坊っちゃん』は読みやすいのでは、なんて思えるだけなんだな、と感じた。

そしてなにより、それなりの厚さを持つ一冊の本を読み通すこと。これは本当に難しいことなのだ。そう、「本を読むこと」自体にも慣れが必要なのだ、と私は感じている。そのことを、かつての私もそうだったように、本が読めるようになった人は忘れてしまうか、気付かないでいることが多いらしい。もちろん、この手の問題はなにも読書に限らないから仕方のないのかもしれないが、しかしいま、出版業界が読書人口を増やそうとしているなか、この点を落としてはどんな取り組みもせいぜいが一過性のものに留まり、実りがあるとは思えない。本を読むことは難しい。まずこの地点に立ってから、ではいかにしてそういった人のなかから本の世界に目を向けてもらうか、そのように考えていく必要があるだろう。

 

そのひとつのヒントは、新書だろう。かなり専門的なテーマを扱うこともあるが、人文書よりは手に取りやすい新書は、より専門的な本への橋渡しだったり、とりあえずその分野の見取り図だけ欲しい、という需要に応えるはずだ。専門家はしばしば「原典を読め」というが(私の大学時代も、よく言われたものだ。だが、前提知識もなくいきなりハイデガーやバルト、フーコーやドゥルーズを読み通せるだろうか)、それはその分野に対して尻込みさせる可能性の方が高くないだろうか。また、新書の知識では足りない、という人もあるだろう。言いたいことは分かるが、皆が皆、その分野の根幹まで知りたい訳ではないし、また知れるものでもない。もし概論的な理解が許されないとすれば、一人の人間は一つの分野に手を付けることすらままならない。

これは当然の話で、第一、その分野の研究を仕事にしている学者だって、その分野のことすべてを知っている訳ではない。それも、たとえば文学を例にすれば、その一人が専門にしているのは「フランス文学」や「中世文学」や、ときには「夏目漱石」だったり、その中でも本当に限られたテーマが限界だ。それを仕事にしている人ですらそれなのだから、労働者や学生、家事労働者など世の中の大多数を占める「普通の人」が余暇の時間と体力でできることは、なおさら限られている。そんななかで、「そういった俗書ではなく専門的な論文や専門書を読みなさい」といった「説教」は、知識人の「マウント」ととられ、むしろ反発を招き、逆効果になるのではないか。

……ということをずっとおぼろげに考えていたときに、ちょうど文春新書『超空気支配社会』(辻󠄀田真佐憲著)という本をなんとなく手に取ってみたら、この考えを非常に明快に、そして具体的な事象やデータを以て示してくれていて、参考になった。

 

最新の「国語に関する世論調査」を読めばわかるとおり、現代の日本人はほとんど本を読まない。そんな現実を無視して、「あれも読め、これも読め。ナニ、その程度では不勉強だ」と実証主義的マッチョイズムを押し付けることは、潜在的な読者を嫌悪させて、むしろ「わかりやすい」トンデモ本に走らせるだけではないだろうか。いや、現にそうなっていると言わざるをえない。

人生に限りあるわれわれは、すべてのものごとに専門的に厳密な態度で臨めない。にもかかわらず、国政選挙の投票のように、ときに社会や世界について総合的に考え、行動しなければならない。そのなかで、評論家が提供するような、「おおよそこうなっている」というざっくりとした見取り図は、けっしていい加減な商業主義の産物ではなく、むしろ必需品であり、トンデモを防ぐ安定装置であり、一種の公共財である。もしこの役割を疎かにするならば、批判など意に介さない詐欺師が言論空間にはびこる結果を招き、最終的に社会に劣化をもたらすだけだろう。(266頁)

ここで辻󠄀田氏がその役割の担い手としてあげるのが、たとえば今年亡くなった半藤一利のようなジャーナリズムの歴史家だったり、「評論家」である。それこそ、先日亡くなった立花隆などもここに入るだろう。あるいは、司馬遼太郎や塩野七生など、さらにはあえて名前を挙げれば百田尚樹もそうだろう(言うまでもないが、百田尚樹は「トンデモ本」側であろう。しかし、著者の知名度云々ではさすがに説明しきれないほどあの作品が売れた理由を自分たちの足元から精査しないことには、効果的なカウンターを繰り出すことは不可能ではないだろうか)。

百田は言うまでもなく、司馬や塩野の作品も、専門家からその内容を批判されることが多い。その指摘自体は真っ当だとも思うのだが、では、坂本龍馬だったり、ローマ史だったりを「正しく」知りたいとすれば、どんな本を読めばいいのか。これを提示できなければあまり意味がないのではないか。そして、それはいくら「正しい」内容だとしても、論文や分厚い専門書ではやはり厳しい。それほど知識を持たない一般読者が手に取り、そして読み通すことができる本。それが提示できなければ、時間と体力に限りがある読者は、多少問題があると分かっても、読みやすくて面白いそちらを手に取ることだろう。ときどき勘違いしている人もあるようだが、読みにくくて難解であること自体は、べつに偉くもなんともない。この前知ったが、立花隆は、編集者に「ここが分かりません」と指摘された際、素直に何度もその文章に手を入れたことがあったらしい。何度目かの修正で編集者が、「こういうことだったんですね、これで分かります」と言うと、「これからも分からないところがあったら言ってくれ」と嬉しそうな表情で言ったという。この姿勢は、書き手ならず、なにかを伝えようとする人間は(つまりそれはどんな人間も、ということなのだが)参考にすべきだろう。どうにも、「分かりやすくする」「面白くする」こと自体を読者への阿りと取る向きがあるが、相手に配慮しない文章が、そもそも相手の胸に届くはずがない。

もっと言えば、こんな俗書ではだめだ、と言いながら、一般読者に対して提示できる代わりとなる一般書を用意できていないとすれば、いろいろ事情があるとはいえ、それはもはや怠慢ではないか。少なくとも、そんな姿勢では一般読者を説得することはできない。

(その点で、たまたま見付けた以下のブログの視点は真っ当で、私もこの姿勢を見習いたいと思った)

saavedra.hatenablog.com

……まあ、『日本国紀』を「俗流歴史本」として微に入り細を穿つ批判をした呉座勇一がTwitterでフェミニズム研究者を品のない言葉で中傷していたりするのだから、もういったいなにを信じたらいいのか、よくわからなくなってくる(この問題についても辻󠄀田氏は触れていて、そこでは、私が「ソガイ」第六号に掲載した論考「『書物への愛』が生む青春——小沢書店・長谷川郁夫」でも軽く触れた、「編集の機能が入る前に発信されてしまうことの弊害」という点をまさに突いていた。自分の考えはまったくの的外れではなかったことがわかり、そしてさらにその考えを深めることができた)。

 

そういう私も、新書をそこまで多く読んできた訳ではない。そこでこの度、高校生以来に養老孟司『バカの壁』(新潮新書)を読んでみた。

面白かっただけではなく、そこまで肩肘張ることなく読み通せた。それは、聞き書きという方法が奏功した面もあるだろう。

だからといって、内容は易しいだけではない。軽く触れる程度だが、プラトンの「イデア」やソシュールの「シニフィアン/シニフィエ」なんかも紹介されるし、専門の脳や解剖学の話も絡めながら、広く社会を考えていく上での視座を提示している。そして、内容もまったく古びていない。

養老氏はもちろん学者であり、『唯脳論』などのそれこそ専門書も執筆しているが、たとえばこの『バカの壁』が読みやすく、かつ分かりやすいのは、本書でも繰りかえし語られるように、「多数を占めている普通の人」に向けて語られているからだろう。養老氏は、「普通の人」に向けて語ることの意味の重要性を熟知している。

なるほど、本書ほど「新書」というメディアを体現した本はそう多くない。結果論にはなるが、これは新書だったからこそここまで売れたのであって、たとえばB6判、あるいは文庫だったらこうはならなかったのではないか、とまで感じた。もちろんタイトルのインパクトもあるが、たしかにこれは大ベストセラーになるわけだ、と感心した。

 

もちろん、新書のすべてが良いわけでもない。書店の棚を眺めると、見るからに品のない新書や、二番煎じ、三番煎じも良いところの新書も数多く存在する。しかし、それはどんなジャンルの本でも同じだ。これだけの本が出ていて、どれもが良書と考えるほうが無理だ。

 

以上までで書いてきたことが、「ソガイ」第五号で私が主張した、「いま、本はありすぎる。同時に、まったく足りていない」という感慨の一部だ。

 

ともかく、一概に新書のようなものを浅薄な本と考えていると、出版、そして読者は、やがて自分で自分の首を絞めることになるだろう。

(矢馬)