いま、自分の視座を確立するために、SNSからは適度に距離をとったほうがいいのではないか、と思いはじめている。
何度も言っているように、私は同人活動を通してオルタナティブな場を求めている。SNS、ひいてはネットも、登場時には多くの知識人が既存のメディアのオルタナティブになる、その可能性を信じていたのだろう。
しかし、もはやネットはオルタナティブではない。完全に既存のマスメディアに飲み込まれた。ネットのなかにはテレビなどの「古い」メディアを嫌悪する向きも見られるが、私から見れば、同じ穴の狢である。いや、というよりも東浩紀が言うようにSNSとワイドショーが相互に参照し合っているのが現状で、もはやSNSはテレビなしでは自立できない脆弱なフォーマットになりつつあるのかもしれない。
タイムラインを眺めていると苛々することが多くなったような気がする。
そうして見付けてしまったのが、河出書房新社の公式アカウントのツイートである。
元々私は最近の河出書房新社、あるいは『文藝』のあり方や売り方には違和感を覚えていた。単に私の好みに合わない、といってしまえばそれまでだが、あのポップさが短期的に売ることばかりに目が向いているように感じられてしまい、少し距離をとりたくなっていた。だからという訳でもないだろうが、ここしばらく、新刊ではこの版元の本はアウトレット本1冊以外、ほとんど手に取っていない。私にはこういう版元、レーベルがいくつかある(ソガイ五号でも書いたように、私は講談社文芸文庫にも不満がある。だから、平出隆『葉書でドナルド・エヴァンズに』が文芸文庫に入ったのはもちろん知っているし、非常に気になるのだが、講談社文芸文庫であるが故に購入をいまだにためらっている)。
が、これはただ私が好きでないというだけの話でもあり、べつにやり方を否定しようとは思わない。たしかに出版も商行為であるから、売れないことにはどうしようもない。社が潰れてしまったら、出したい本も出せなくなる。もっとも、そういった即時的な視点が問題を先送りにして、出版の首を真綿のように締め続けてきたのではないか、と思わないでもないが、これはなにもこの出版社だけの責でもなかろう。
だが、今回はそうも言っていられない。
発端は、ある個人アカウントが、河出文庫の柳田国男『禁忌習俗事典——タブーの民俗学手帳』の重版帯についてまさに「呟いた」ことだ。
その帯とは、「創作勢、最高のネタ帳!!」と大きくコピーがあり、右下には「Twitterでバズって重版続々!」と、「バズって」の所には立体の効果まで付けてアピールしているものだ。
私は知らなかったのだが、確かにこの本はいま、なぜかまさにネタ帳として話題になっていたらしい。だから、これは誇大広告ではない。正しい内容だ。また、時機にあった宣伝と言えば、たしかにそうも言える。だから重版もしたのだろう。事情は分かる。
しかし、私はやはりそれを汲んだ上でも、さすがに品がないだろうと感じた。別に書き手で差別するつもりはないが、なんだかんだ柳田國男の本なのだ。古典を古典として崇めてばかりいても仕方ないのかもしれないが、それにしても、もう少しやりようがあった気がする。
そのアカウントも、たしかに目立つから良いのかもしれないが、なぜこれで良いと思ったのだろうか。だが、なにが正しいのかは分からない、といったニュアンスを滲ませていた。
だが、ここまでは良い。これも非常に大きく見れば個人の好き嫌いの問題であり、また、こちらはあくまで社の経営には関係のないいち読者である。会社には会社の事情もある。事実、それで目立ったようだから、経営戦略でいえば成功していると言えるのかもしれない。それに、なにも法を犯しているわけでもない。倫理的にもおそらく問題はないだろう。古典をこのような扱いをするのはどうだ、と思う人もいれば、どのような形でも古典に注目を向けることが大事だ、という人もあろう。私とて、ここまで振り切るのはどうかと思うが、後者の意見は理解できる。そして読者は、ただ、それらを加味した上で買うか買わないかを決めればいいだけのことである。
だが、問題はこのツイートを、あろうことか河出書房新社の公式アカウントはリツイートした。その上、「(´-`).。oO(品のないことで恐れ入ります…)」と反応。まずもって、私はこのアカウントが乱発するこの顔文字とフランクさに神経を逆撫でされるのだがそれはともかく、なぜこれを問題と考えるか。たしかに、あえてネガティブな文言を使ったマーケティングはそれほど珍しくもない。だから、問題はそこではない。一種の「晒し」になり得てしまう。それが問題なのだ。
今回のツイートは、河出書房新社の営業姿勢に若干の疑問を覚える旨を呟いたものだった。言ってみれば、批判的でもある。それを、その社の公式アカウントがリツイートすることで、主にこの社をフォローしている人に広められる。中にはこの社のファンもいるだろう。私はファンではないが、当アカウントでは開設当初に情報収集のためにフォローして以来、そのままにしてある(今回のことで考えるが)。そういう人もいるだろう。
要は、自分に批判的な意見を、自分のホームグラウンドに引っ張り出したのだ。事実、その河出側のツイートには、そんなに反応はなかったが、好意的な言葉が返ってきている(そしてそれもリツイートする)。そんなこと、だれもがやっていることだろうと言えばその通りかもしれない。だが、少なくともそれを出版社がやるのは、もはやそんな倫理は時代遅れなのかもしれないが、やはり違うと思いたい。なぜか。
つまり、今回のことで河出書房新社に対して批判ととられうるツイートをすれば、公式アカウントにリツイートされるかもしれない、という抑止力が一般読者に働くことになるからだ。事実、今回リツイートされた方はその後、随分恐縮した返信をすることになっている(私なら多分無視する)。
私の河出公式Twitterに対する印象は、自社に関するツイートをかなりリツイートしているというもの。絨毯爆撃のようにタイムラインを埋めることで購買意欲を引き出す、という手法は、確かに効果的でもあろう。そして、それ自体には問題もない。私などは、いくらフリックしても絶えず目に入ってくるそのタイトルに辟易して、手に取る前からもうなんだか分かったような感じがして購買意欲が失せるのだが、それは私のやや天の邪鬼な性格とこの出版社の戦略が合わないだけのことであるし、私の、この出版社にたいする偏見もあるのだろう。事実この出版社はいまノリに乗っているのだから、たしかに成功しているのである。要は、私が時流に乗ることができなかっただけのことだ。もっとも、私はべつにメインストリームに乗りたい訳ではないし、これも五号で書いたが、本自体は本当に溢れるくらいあるのだから、他の本を読めばいい。これも読者の自由だ。繰りかえしになるが、これは私個人の問題でしかない。
しかし、好意的なツイートを選択して拾い上げてそのタイムラインを作るのならまだしも、予め、批判的なものを抑えるという形であってはならないと思う。当然のことながら、いわれのない誹謗中傷でもない限り、批判という意見表明は認められるべきだ。出版、ひいては表現というものは、そういった思想の上で成り立ってきたものではなかったのか。
そしてなにより、この「いつ見ているか見ていないか分からないという状況ゆえに行動を抑制させられる」というのは、フーコーが近代の管理システムを指して言ったパノプティコンの構造である。これは、そのフーコーの著作も出している出版社がやることなのだろうか。
そして、このツイート一つではない。河出は、この元のツイートに反応したなかから批判的なものをいくつか、連続でリツイートしている。これを意識的にやっているなら悪質だし、無意識でやっているなら無神経である。これを、賛否両方の声を取りあげるバランス感覚だと言うのなら、それは言葉を発するという行為の含意にあまりにも無自覚である。
匿名とはいえ、自分の発言を公にしたのなら責任を持つべきだ、という反論が来るかも知れない。一般論としては一理ある。しかし、今回は一個人と一企業という力の不均衡があることを忘れてはいけない。もっと言えば、かたや匿名とはいえ自分の名前を背負う人間と、かたや会社の名前に守られている人間(言ってしまえば、企業アカウントにも匿名性はある。それは一概に悪いことではない。会社というものには、個人を守り、安心して仕事をさせてやる機能もある)、果たしてどちらが優位か。少なくともこの点に無意識でいて、出版の自由やら、本は生きるために大事だやら、小さき声を聴く、などと言われても説得力がない。
芸術系の分野において、売れないものこそが素晴らしいという屈折した意見は根強い。私はそれに諸手を挙げて賛成はしないが、しかし出版、こと文芸においては、売れなきゃいけない、でも売ることばかりを考えてもいけないのではないか、という矛盾、葛藤のなかでどうやって生き残っていくか、それをずっと考えてきたのではないだろうか。
いや……しかし、最早私の感覚が古すぎるのかもしれない。時代の流れを横目に、私はこそこそ、小さな出版を続けていくだけだ。
ひとつつけ加えると、このように読者の反応が見られることは、それが非常に稀な私には、とても羨ましい。
(矢馬)