ソガイ

批評と創作を行う永久機関

逡巡すること

「逡巡」という言葉が好きだ。

思い悩み、ためらい、尻込みすること。語釈だけみるとネガティブなイメージの言葉だが、しかし人生とはこのような逡巡の連続ではないか。私が書物に求めているのは答えそのものよりも、むしろその答えに辿り着こうとするための思考や悩み、そして挫折の経といった過程だ。答えに一直線のものはどこか味気ない。ああでもない、こうでもないという巡りが、結果的に同じ結論に辿り着くとしても、そこに深みを与えてくれる。

私自身、すでに明確な答えを持っていることについて書くことに対しては、食指が伸びない。はっきりいって退屈なのだ。書きながら思考が動くような体験を求める。つまり、その問題について考えてみたいから書く、といった書き方をしてきた。

しかし、どうやらこのような姿勢は、まったくトレンドではないのだろうと思わされる出来事があまりにも多い。

 

第6号で扱った長谷川郁夫についてはこれからも調べを続けていくつもりではあるが、ほかになにか進めていこうと考え、いまは出版関係の本の簡単なレビューのようなものを作成している。これが思いのほか難航している。まずは50冊で中間報告、最終的には最低でも100冊のリストとなればいいな、と思っており、当初は案外すぐ完成するのではないかと思っていたのだが、なかなかそうはいかなそうだ。

私は「出版には倫理が不可欠だ」と思っている。

こういうとなんだか説教くさいと思われるかもしれないが、これはそんなに難しいことを言っているつもりはない。「倫理」と言うと堅苦しく、また曲解される可能性もあるのだが、実際には「ちゃんと考えよう」くらいのことだ。

たとえば、そういう書き方では誤解を招かないだろか、この見出しは印象操作にならないだろうか、こういったことを書いたら傷つく人がいないか……いや、こんな風に書いたら後々いらぬ問題に繫がらないだろうか、という自己保身でも構わない。つまり、いっときの注目や利益に目をくらませることなく、それが与える影響や考え得る反応を想定しよう、言ってしまえばこれくらいのことだ。

もちろん、こんなものは出版に限らず、どんな仕事や生活においても必要なものだ。だが、こと出版は明確な形で残ってしまう。だから、自分のためにも、より慎重にならなければならない。数十年前の発言が原因で糾弾されたケースを、私たちはまさに目の当たりにしてきた。

だが、現実はどうだろう。たとえば内容と見出しに齟齬が生じており、明確に印象操作に繫がってしまっている例を、それなりの大きい版元の出版物においてもよく見る。これを意識的にやっているなら悪質だし、無意識ならその無神経さに呆れるばかりだ。こう言ってはなんだが、これならいっそのこと絶対に飛ばしだと分かるような雑誌の煽り記事のほうが、最初から話半分で聞く気にさせてくれる分、まだマシというものだ(もっとも、最近は名前のある人でもゴシップ雑誌の記事を根拠にセンシティブな問題に対して居丈高に主張する例もしばしば見られるが……。すべてがネット空間という均質な場所で境界線を感じさせない形で共有されることにより、個々のメディアの「場」というものに目が向かなくなっているのだろうか)。

 

もう出版には期待できないのだろうか。いったいこの現状は、なんど私を失望させてくれれば満足するのだろうと、呆れを通り越して感心してしまいそうだ。しかし、それで終わりたくない、という気持ちもある。

そんななかで出版関係の本を読んでいると、この仕事に真摯に向き合い続けて来た人々の精神に多く触れる。こんな風に「精神」あるいは「魂」を感じさせる仕事を、あまり見付けられなくなって久しい。

何事も、あまりにも早く流れすぎる。なにかがSNSで議論になっても、本当に一瞬だ。たかだか数日、ましてや数時間で、いったいどれだけそのテーマについての思索を深められるというのか。すれ違いざまに肩をぶつけるような言葉の氾濫に見られるのは、下卑た自己顕示欲、あるいは「勝利」への渇望ばかりだ。

ソガイのSNSを動かす頻度が減って久しいが、ときには思うところがあり、私は少し落ち着いて考えをまとめてからツイートしてみることがある。しかし、2日も経ってしまえば、もうほとんど誰もその話をしていない。なんだ、皆そんなに興味なかったんじゃないか、とふて腐れたくもなる。

一方でこうも思う。だったら、よくもあそこまで断定的に他者の意見を切り捨てることができたな、と。私だったら怖くてとてもできない。自分の考えにそこまでの絶対の信頼は置けない。

批判をしてはいけないということではない。その分野の知識だったり、対案が絶対に必要だとも思わない。ただ、間違いなく言えるのは、批判は難しいということだ。

雑な批判は、それこそ批判されても仕方のない代物だ。また、許せないことに対してはどうしても感情的になりがちだ。感情を殺す必要はないが、しかしそれにまかせては不用意な発言に繫がりかねない。それは自分のためにならないし、その瑕疵を突かれることで本題から逸れ、また中間的な立場にいた人に悪い印象を与える可能性もある。あまりいいことはない。私も20歳前後のときは、そういった類いの失敗を何度もした。いらんこと言ってしまったな、と後日落ち込んだものだ。頻度は減ったものの、やはりいまでもそのような失敗がなくなった訳ではない。

だから一度落ち着く必要がある。少なくとも、その自分の批判意見に対して、考えられる批判を想像するくらいの冷静さは必要だ。むしろそれが、自分の論の補強に繫がることも往々にしてある。それは直接話しているときには難しいかもしれないが、書く、という行為では文字という視覚的なものを通して、一度客観視できる。

まず考え、そして文字に起こし、「いや、これだとこういった批判が返ってくるな」「よく考えたら、これ矛盾してないか?」「たしかにこういう事情もあるんだろうな」「これじゃあ同じ穴の狢だな」「待てよ。そもそもこのことについて、自分はそんなに知らないじゃないか、まずは軽くウィキでも見ておこう。……あ、やっぱり勘違いしていた」などと考えて修正し、ときには発することを保留するなどする。もっとも、そんなことをしていると発言は遅れ、反応が得られないということにもなるのだろう。

いまSNSで「活動」する多くの書き手については思うことがある。そんなに早く反応が欲しいならば、本を書くのは合わないのでは、と。なぜ今の時代、そんな一番そぐわない方法に拘るのか。

もしそれでいくらかの書き手が本を書かなくなれば、いまの無駄に多く、そしてすぐに見向きもされなくなる(が、その販売機会を逃してはならないと多く刷られる)本も減り、書店の棚はすっきりする可能性もあると思われる。いまSDGsが騒がれているが(もっとも、いまのSDGsの利用のされ方を見ると、これもまた胡乱なものだが)、出版業界がまずそれに一番貢献できる方法として考えられるのは、本を適正量まで減らすことだろう。まず紙を大事にできないものが、本を大事にできるはずがない。出版に携わるものは一度、断裁処分の現状に意識を向けるべきだ。あえてこういう喩え方をするが、ペットを飼うときは、その死まで面倒をみる覚悟が求められる。本だって同じだ。つくったら終わり、ではない。もし断裁処分の写真などを見て本の悲鳴が聞こえないのならば、そんな者に本をつくる資格はない、と言いたくもなる。

 

いまリストをつくるためにも読んでいる本の著者には、すでに鬼籍に入った者も多い。彼らがもしいま生きていたら、果たしてどんなことを思い、言い、そして書いたのだろう。そんな風に想像しながら、本を読んでいる。