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「出版=publish」認識の欠如〜「幻の絶版本」企画から

「publish」には「出版する」という意味の他に、「公開する」「発表する」という意味がある。

出版というと紙、電子問わず本という形で発表することを指す印象だが、後者を含めれば、たとえばこのようにブログを公開することやSNSの投稿も、広い意味では「publish」ということになるだろう。するとどうだろう、しばしば「一億総表現者時代」などと称される現在、あるいは「一億総出版者時代」と言い換えることも可能であるのかもしれない。

しかし、本とSNS等での発信にはやはりまだ大きな違いがある。その一つが、掛かる時間と人の手だ。言うまでもないが、特に紙の本は完成から流通まで、かなりの時間と多くの人の手が掛かる。しばしば書店では「緊急出版」という文言が躍るが、それとて、まさか企画から1日、2日で店頭に並ぶわけではない。

一方でSNSなら、まさしく一瞬だ。無論、そのプラットフォームを維持する人があるからまったく一人で発表し流通させているわけではないのだが、その存在は、せいぜいなにかしらトラブルがあった際に浮かび上がるくらいだ。発信者は、ほとんど身体と同時進行で、独力で言葉を世に放つことができる。

この素早さはもちろん大きな利点でもあるのだが、一歩間違えれば危険な点でもある。私はしばしば言ってきたが、編集などの第三者の目、過去の自分をある程度俯瞰的に見られるようにさせてくれる時間の幅をほぼ完全に省略できてしまうため、より不用意、迂闊な発言につながりやすい。特に頭に血が上っているときは、どうしても視野狭窄に陥り、言葉遣いも乱暴になってしまいがちだ。プロの書き手であっても、その失敗をする例を多くみてきた。その作品とSNSでの発信との落差に愕然とすることもしばしばだ。改めて、作家は一人で作家になるわけではないのだな、と感じさせられる。作品と人間が一致する作家は、極めて珍しい。そういった作家はおそらく強く自分を律して、それを保っているのだと思う。

 

早川書房の『SFマガジン』で企画されていた、「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」が一部で問題視され、中止されることになった。

本企画について、絶版本を作っている当の出版社がすることの倫理、この企画によって絶版本の著者を傷つけるなど、様々な批判があった。私もその点で思うことはあるが、しかし出版社も好きで絶版を作っているはずはなく、また再版したくともそのハードルは決して低くない。好きだから、で再版できるようなものではない。そして、この企画の詳細はほとんど明らかにされておらず(また、その点が問題でもあるのだが)、なにか取りあげた作品の再版を促すような取り組みが用意されていたかもしれないので、一概にどうとは言い難い気もする。また方々で言及されているように、このようなコンセプト自体は、同種の企画や書籍の前例がないわけではない。

それでもこの企画だけがここまで叩かれるのには、やはり最近のSFマガジン界隈の内輪なネット乗りに嫌悪感を覚えている人が多かったことがあるだろう。SFマガジンは、編集者がTwitterでラフな感じで目立っており、とりわけ、本企画の中心でもあり、そして炎上の主要因ともなった樋口恭介氏は、編集した『異常論文』の好評あたりから、その傾向が強かった印象だ。

私個人としても、早川書房については津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』の帯の文言あたりから、この出版社、編集者は肌に合わないなと感じており、『異常論文』もその強烈な内輪感と乗りに、かなり醒めた目で見ていた。そして、この乗りを続けるのならば、遅かれ早かれ、なにか大きな失敗をしかねないなとも思ってもいた。……が、それにしても早かった。余談だが、夏頃、久しぶりに会った同士に、前々から感じている鴻巣友季子への疑問をぶつけた日から間もなく、桜庭一樹との間で論争が起きたこともあった。こんな予感は別に当たらなくてもいいのに、と思う。

冒頭で述べたように根本的な部分ではpublishでもあるSNSにおいて、仕事としても用いているはずのアカウントであるにもかかわらず、その発信がしばしば、あまりにも内輪が過ぎていた。公と私の区別も付けられていたかどうか。本企画は樋口氏のツイートに早川書房の編集者が反応したことがきっかけとなって始まり、そして樋口氏が編集者とのDM(よりにもよって「やばくなったら逃げる」といった内容)を公開して始動をアピールしたが、これは『異常論文』でもおおむね同様だった。プロセスから商品にする、という手法はもはや出版界に限らず一般的で、これもその類ということもできるだろう。

しかしながら、これはオーディエンスを創出して巻き込む、というよりは、仲間への近況報告のようなものではなかっただろうか。「ボーイズクラブ」と揶揄されてしまっている原因は、こういったところにもあると思う。それに第一、公式に発表されていないことを、ダイレクトでやり取りしているメッセージを公開することで簡単に公にしてしまうのもコンプライアンス的にどうなんだ、と思うのだが、これも仲間への報告だったとすれば、この行為に説明をつけることも不可能ではない。

しかしながらTwitterは、完全にはそういう空間ではない。SNSに投稿するということがどういうことなのか、それを分かっていなかったか、あるいはあえて炎上芸的なことをして耳目を集めようとしたのか。

無論、実際のところは、想定される読者層と出版物の性格を考えればTwitterでこのような宣伝をするのが最も適していた、というだけの話であろうことは分かっている。いや、もしかしたらそれすら特に考えていない可能性もある。だから、上記の批判はやや意地悪だと自覚もしている。

しかしそれでもここにこだわるのは、彼らの「出版=publish」認識の大きな問題を突く指摘が、それほど無いように感じたからだ。

たとえば、この企画について「同人誌でやるならいいが」といった意見が散見された。言いたいことはわかるが、商業出版だろうが同人出版だろうが、出版は出版だ。同人出版はたしかに自由度は高いが、だからといって、商業出版ではできないことを含めて好き勝手やっていい、と言ってよいかは疑問だ。自由の中にも秩序はなければならない。そしてその秩序を作る根幹こそが「出版=publish」の意識だと私は思う。

今回、とりわけ樋口氏は上記のように内輪と公をごっちゃにしてSNSというプラットフォームを使っていた。そして騒動後には謝罪もありつつも、その直後からパフォーマンス的に一部の批判やネットニュースに対して煽るような形で反応、そして「頭に血が上っ」たまま書いたnoteを独断で公開。編集者から一部、特定の人物を名指しして批判した箇所の文章について諫められながらも無視したが、炎上、そして出版社からのリリースで間接的に糾弾されると、公開当日中に当記事を削除し、陳謝したのち沈黙。

一連の流れを見ていて、正直、あまりにも「公開」という行為に対する認識が甘いと感じられた。

件のnoteは奇跡的に公開中にみることができたのだが、「不可解な炎上をした」と始まった時点で怪しかった。

もちろん、内容自体に理解できる箇所がなかったわけではない。また、撤回、謝罪したことをつべこべ言うなという点は、言いたいことは分かる。しかし、いまの世の中、良くも悪くもそうは問屋が卸さないことはこの1年間の出来事だけを見ていても自明ではないだろうか。ましてやTwitterは、その典型だ。そのプラットフォームを利用しながらその点に無自覚でいたとすれば、やはりそれは「出版=publish」意識が欠如していた、と言うほかない。書いたものは残る。それは素晴らしいことでもあり、そしてとても恐ろしいことなのだ。前々から感じていたが、彼は公開という行為に対して無邪気が過ぎるのではないか。

結局この意識がなかったとすれば、商業出版でも同人出版でも、根本的に今回の問題は変わらないと思う。件のnoteで「不可解な炎上」と言っていたことからも分かるように、氏は、企画内容についてしか見ていない。確かに企画内容自体は、批判はあれどこの件だけここまで言われなくてもいいものかもしれない。

しかし問題は、その前後での言動にあった。そのことに気付いていないか、無視している。それではあまり意味がないだろう。いまは反省しているかもしれないが、もし今回のことが企画内容での失敗であったと考え、自分の「出版=publish」意識を見つめ直さないで終わってしまうのであれば、早晩、同じような失敗をするのではないかと思われる。

 

そして、もう一つ本質的な問題は、この企画を早川書房という商業出版社でやろうとしたこと以上に、このような出版意識の欠けた者のアイデアに、商業出版社がほとんど乗っかる形で進行をさせたことにあるのではないだろうか。

樋口氏を早川の社員と勘違いした意見を嗤う声も当人他から聞こえたが、しかし、ここ最近の動きだけ見ればそう感じてしまうのも無理からぬのではないか。それくらい、早川は彼の好きにさせていたように、外から見えてしまっていた。もちろん内部では出版社側もいろいろ動いていたとは思うのだが、外からは、早川書房が樋口氏にフリーライドしているように見えたとしても仕方がない。

早川書房がリリースで樋口氏のnoteを糾弾したことを賞賛する声もある。たしかに内容自体はまっとうだが、しかし、『異常論文』含めここまで利用しておいて、都合が悪くなれば個人の暴走であり無関係だと主張するのも、いささか都合が良すぎるのでは、と感じる。出版社はときに、旗色が悪くても書き手を守らねばならないときがあるのではないか。それは一出版社というよりも、一企業としての責務だと思う。その点で、私は突然はしごを外された形になってしまった樋口氏を、自業自得とはいえ、少し気の毒に思ってもいる。

注意してくれる人がいなかった。それが彼の不幸であろう。そして、これは当然私たちにも返ってくる教訓である。同人をやっているとついなあなあにしてしまうことがある。だからこそ、内部ではしっかり厳しい眼でお互いを見る必要性があることを、あらためて痛感した。

 

もっとも、以上のことは精神的な問題ばかりではなく、やはり経済的な問題でもあるのだろう。こうしなければ売れないという面があるのかもしれない。私は精神面のことを重視しすぎるきらいがあるから、私には見えていない事情もきっと多くあるのだろう。売れれば良い、とは言わないが、売れるのが大事であることはまったく否定しない。そのためには多少露骨な手段に出ることが必要な場面も、きっとあるのだろう。

とはいえ事実として、SNS等を利用したマーケティングには利点もあれば、このような危険性もある。利点だけを享受できるなど、そんな上手い話は世の中にそうはないのだ。

 

そうこうしているうちに、今度はまた別の問題が起きていた。豊﨑由美氏の件についても思うところがあるが、もう疲れた。しばらくここで話すつもりはない。

この1年は少しいろいろなことに反応しすぎたと非常に反省している。そろそろ創作や本の紹介に戻るつもりだ。

しかし、近頃起きる出版系の論争も、その主戦場はTwitterばかりだ。これも時代なのだろうか。

そして思ってしまう。作家が自由に発信できる場を持ったことは、果たして良いことだったのだろうかと。

答えは出ない。

 

(矢馬)