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消えゆくレーベル意識—出版社別か五十音順か

書店において、文庫本の棚づくりには大きく分けて2種類の方法が考えられる。

一つが、出版社、レーベルごとに分けた上で作者の五十音順や、各レーベルの番号で並べる方法。

もう一つが、出版社の別なく、作者の五十音順で並べる方法。

 

多くの書店、とりわけ大きければ大きいほど、前者の方法を取っていると思われる。

その理由としては、慣例としてそうなっているということの他に、たとえば、その方が見た目がすっきりしているということがあるだろう。ひとえに文庫といっても、出版社やレーベルごとで見た目やデザインも異なれば、本の高さもけっこう違っている。それを一緒くたに並べるとガタガタになって不格好だし、作者名も上にあったり下にあったりと目線が定まらず、天には埃もたまりやすくなりそうだ。

また、多くの本を管理しやすいという理由もあるだろう。数が多くなればなるほど、「階層」となるものは多い方がいい。ただ「村上春樹」の「文庫本」、と探すよりも、「講談社文庫」の「村上春樹」の「文庫本」、となった方が探す範囲は狭くて済む。それに文庫本はかなりの数が出るので、そうでないと整理がしづらいという問題もあるだろう。

一方で、あえて後者の方法をとる書店もある。

そのメリットとしては、やはり同一作者の文庫本が一箇所に集まることだろう。

第一、大半の客(とあえて表現するが)は、その本がどの出版社から出ているものかなんてことはほとんど気にしない。ならば、たとえば「村上春樹」の本を探しに来たとき、その文庫化されている作品が講談社文庫、新潮文庫、文春文庫と分散されているよりも、一箇所にあった方が探す方も分かりやすいし効率もよく、二次的な購買にも繫がりやすそうだ。

 

もちろん、どちらが正しくてどちらかが間違っている、なんてことはない。各々の客、そのときの目的などによって、どちらが使いやすいかは揺れるだろう。

ただ、個人的にはやはり従来的な出版社で分けられている陳列法の方が分かりやすい。

後者の方法で並べられた書店が大学の近くにあったので頻繁に利用していたし、大学の生協もそうだった。これらはあまり大きな店ではなかったからまだよかったが、それでも、出版社から探す癖がついている自分にはちょっと疲労感が大きいというか、メリハリがつけられず、目もチカチカしてきて、「あ」から見ていると大体「は」辺りで集中力が切れてしまい、最後の方はいつもほとんど記憶に残らずに終わっていた。

いや、しかし文庫や新書はレーベルで分けている書店でも、単行本や実用書、ビジネス書などの棚では出版社の別なく並べられていることも多いじゃないか。だったらそれと変わらないのでは、という意見もあるかもしれない。

だが、それは違う。その種の本は本の形態ではなく、文芸だとか、仕事術だとか、健康だとか、内容・ジャンルによって分けられている。考えてもみれば、たとえば書店で店員に、「A5判の棚はどこですか」「B6判ソフトカバーはどこにありますか」などと訊きはしない。

しかし文庫は、あくまで本の物理的形態である。

小説もあればエッセイもあるし、評論やノンフィクション、学術的な内容のほか、写真集チックなものもあれば自己啓発的なものもある。それだけ多様なものを、ほぼ統一されたデザインに収めた、まさにごった煮の状況なのだ。背表紙のタイトルで「これは小説かな?」と取り出してみると闘病記であった、といったようなことがしばしば起きる。このようなことはほかの棚では起こりにくい。なぜなら、闘病記なら闘病記、そこまで限定してなくてもエッセイの棚に置かれ、前後に同種の内容の本が並ぶだろうからだ。その棚を見るとき、すでに「闘病記・エッセイ」のモードに入っている。

また、文庫・新書は、その出版社の多様なジャンルの作品が集まる傾向にもあることから、そのレーベル自体にかなり色がある。特に新書はそれが顕著だ。一口に新書といっても、かなりラフなレーベルから、なかなかに硬派やレーベルまである。どのレーベルから出ているか、ということである程度内容の硬軟の目安がつく*1。それを1冊1冊モードを切り替えるのではなく、ゾーンで替えていく。その方が混乱が避けられるように思われるのだ。

事実、文庫を作者の五十音順で並べていた書店と生協も、岩波文庫、岩波学術文庫、岩波現代文庫、講談社文芸文庫、講談社学術文庫、ちくま学術文庫などは別枠で、レーベルごとに並べていた(岩波については、流通形態が他の出版社と異なるという運用上の理由も考えられるだろう。しかし、個人的にはむしろ岩波文庫こそ探しづらいので五十音順にしてほしいものである)。また書店の方では、ライトノベルや時代小説はこれまた別枠だった。つまり、内容や性格で分ける必要がある、と思われるものは作者の五十音順というルールから外していたのだ。

これは合理的だと思う一方、では、講談社文庫、新潮文庫、文春文庫、集英社文庫、河出文庫、小学館文庫、角川文庫、幻冬舎文庫、光文社文庫などの「普通」の文庫本とそれを分かつ境界線はなんなんだろう、とも考える(いやしかし、この中でも前5つと後ろ4つの間にはちょっとした差があるだろう、と私は思うのだが、そんなことは考えない人が大半なのかもしれない)。

それに、これに賛成している人も、この「文庫」のなかに知的生きかた文庫やだいわ文庫のような実用書色の強いレーベルが入っていたら、それは違うと言いそうではないか。もちろん、その感覚は私も理解できるが、しかしこれだって立派な「文庫」である。いったい何が違うのか。意地悪にもそう問いたくなる。

レーベル自体に意味があると思われる一方で、かたや、混ぜてもいいとされるものもある。まだ辛うじて「レーベル」意識があり、そしていまのところは保っていきたいと考えている自分としては、非常に考えさせられる問題なのだ。

……しかしながら、最近ではレーベルの統一デザインを崩すような本もしばしば見受けられる(たとえばハヤカワ文庫の『異常論文』の背表紙まで覆うカバーデザインは棚で非常に浮いているし(もともとハヤカワ文庫にはその傾向があったものの)、岩波新書が『アナキズム』を特製の全帯(カバーと同じ高さの帯)で黒く覆い、「黒版」などと自称したときにはかなりがっかりした)。

背表紙上は古典的名作もずぶの新人作品もお笑い芸人のエッセイも横一線にならぶことを文庫の一番の価値と見る私には、それが特別扱いに思えてかなり不愉快なのだが、出版社がそこに価値を見出さず、統一的デザインを捨てていくというのならば、やがてはレーベルの境界は、それこそ「出版社なんか読者には関係ない」といった意見の側に同調し、形骸化していくのかもしれない。

すべての書店が図書館やブックオフと同じ棚になったとき(ブックオフも、一部出版社やジャンルは別になっていることも多いが)、果たして私は書店に行くのだろうか、と想像してみる。いまよりもネットで注文する頻度が増えそうだな、と思った。それが良いことなのか悪いことなのか、それとも時代の流れなのか、それは今の私には分からない。

 

(矢馬)

*1:もともと私は、先日読んだ『映画を早送りで観る人たち』の問題点を記事にしようとしていた(あまり楽しいものにならず、また冷静になってみるとそこまでして主張したいようなことでもなかったので全て没にしたが)。本書は着眼点は面白く、時事的にも需要はあるだろうと思ったが、いかんせん分析に主観がかなり入り込み、精密さを欠いていた。そこに不満はある一方、これが光文社新書という点で、ならば良くも悪くもこのくらいの内容なのだろう、と納得する部分もあった。たとえばこれが中公新書であれば、私の捉え方も違ったはずだ。無論、この所感はこの2レーベルの優劣を決めるものではない