ソガイ

批評と創作を行う永久機関

「書評」再考—漫画8作品の感想

決して本を読んでいないわけではないのだが、最近は「そもそも本って、『読まなきゃいけない』ものなのだろうか」という根本的な疑問が湧いてきて、それこそ無理して読もうとしなくなった。読みたいとき、より厳密に言えば、読まずにはいられないときに初めて手に取ってみればいい、くらいの心構えでいるため、数としてはあまり読んでいないだろう。もっとも、先月から今月にかけては仕事が忙しかったことも祟ったのかもしれない。

そして、本来ならばそろそろちゃんとした書評記事をあげるべきであることは重々承知しているのだが、これもまた「書評ってなんだ」という厄介な問題が頭を離れず、おいそれと書き始めることができないでいる。いま、定期的に書評を見る機会があるのだが、自分を棚に上げていることを承知で言えば、面白いと思える書評に出会うことが非常に少ない。そんななかでもプロのものより、むしろ異業種の人が書く、文章的には拙いものの方がよほど興味深く感じることが少なくなく、一体これはなんなんだろう、と真剣に悩んでいる。私は天の邪鬼なのか、読め、読めという圧が強ければ強いほど、じゃあ僕は読まなくてもいいかなあ……となるから、そもそも商業媒体における、宣伝、販売促進の意味合いが強い書評というものとの相性が悪いだけなのかもしれない。しかし、それにしてもこれは、と考えさせられる。

私はこうして書評ブログ(最近は名前だけになりつつあるが)を運営しているが、実のところ、「おすすめ」しよう、という意図はあまりない。八割方は自分が言いたいこと、言わないではいられないことを言っているだけで、残りは例えば、こういう本、作品があるんですよ、と存在だけをそっと示しておきたいという意識があるくらいだ。あとのことは、私の与り知るところではない。結果としてその人がそれを読むかどうかは、私の意識の範疇外だ。

だが、このような動機は一般的な「書評」とは大きくかけ離れたものであることに最近気がついた。果たして、私が書いているものは「書評」なのか? そんな根源的な問題が立ち上がる。

それにしても、いまはとにかく多くの人が「正しい」意見、作品についてであれば「正しい」解釈、評価をしなければならない、という強迫観念に苛まれているように感じる。たしかに、少しでも「正しい」とされるものとは違う解釈をしようものなら、見ず知らずの人間にこっぴどく叩かれ、晒される時代だ。その気持ちも理解できなくはない。

だからだろう、「これは個人的な感想だけど」といった前置きをする。しかし、感想、解釈なんて個人的なものであるに決まっている。なにを当たり前のことを、と言いたくなるが、どこか社会的に正しい感想、解釈があるかのような空気を感じることは非常に多く、だから結局、すでに「正しい」とされている感想を慎重に真似るか、それが正解である前提で解釈らしきことをしてみる、ということになっていくのだろう。そして、世に溢れる書評は往々にして、この「正しさ」っぽさで満ちた作品の価値付けを行っているから、私としてはやはり面白くない。それでは作者の思う壺ではないか。第一、そんなことを繰り返したところでどうしようもないではないか。

私が求めるのは、それこそ「個人的な」感想や解釈、そしてその作品への愛だ。場合によっては、正直何を言っているのかまったく分からないし、自分にはその作品が到底面白いとは思えないのだけれど、ただ、この人はこの作品のことが大好きで大好きで仕方なく(あるいは強烈に愛憎相半ばしていて)なにか言わずにはいられないのだな、と感じられる書き手の熱情が迸っているような文章がいい。多少論が破綻していようが構わないのだ。私が最近、私小説というものに強く関心をもっている要因も、同じようなところにあるのかもしれない。

だが、では私はそれをできているのかどうか。見返してみると、若干数、我ながらこれは、と思えるものもあるのだが、良くないときは大抵、妙なレトリックに頼っている。自分で自分に、慣れないこと、できもしないことをするんじゃないよ、と言いたくなる。とはいえ、思いの丈をそのまま書く、というのは思いの外難しい。それっぽく論をまとめるほうが、実はよほど楽なのだ。

そこで、ここではストレッチもかねて、最近読んだいくつかの漫画についてどこがどう好きなのか、極力飾り気なく書いてみたい。何度も書いているように、私はそこまで漫画を読まない。そして大ヒット作もあまり読まないし、いわゆる「考察」のし甲斐がある作品もあまり好まない(私はこのブログのある漫画の「考察」ではじめたが、その作品を私のような仕方で「考察」している人を他に知らないし、だとしてもそれは当然だろう、とも思う)。メッセージ性がはっきりしているものも、食指がのびない。割と、絵が好きだから、みたいな理由で読み続けているものも少なくない。こうして見ると、本当に今の時代に「数」が取れない人間だと改めて思い知らされるが、別にこういう人間が一人くらいいてもいいだろう。

 

若木民喜『結婚するって、本当ですか』(小学館、既刊7巻)

これは完全に作者買い。中学生のころに、作者の出世作にして代表作である『神のみぞ知るセカイ』の連載が始まって、特に絵やキャラクターが魅力的で引き込まれた。もちろんヒロインも好きだったが、主人公が一番好きだった。決して性格が良いとは言えないのだが、やるとなったら徹底的に物事にあたるところ、現実(リアル)を完全に見下していたが、多くのヒロインたちの悩みに接するなかで現実にある自分について悩み、考えるところなどが、王道とは言え、妙に親しみを感じた。去年あたり、私は本気で『神のみぞ知るセカイ』について論じてみようと準備していたのだが、ちょっと収拾がつかなくなりそうで、一旦保留にしている。

以来、この作者の作品は新しいのが出るとだいたい買っている。そして本作は、現在も連載中の最新作だ。

旅行代理店で働く、二人の男女が主人公。拾い猫と暮らす大原拓也と、地図さえ眺めていれば幸せな本城寺莉香。二人は共に人付き合いが苦手で、お互いにほとんど言葉を交わしたことはなかった。

そんななか、従業員の一人を翌年にできるイルクーツク支店に支店長として派遣することが発表される。単身赴任には遠い場所ということもあり独身者が望まれたが、当然、と言ってしまっていいのかは分からないが、手は挙がらない。

お互いに今の生活を守りたい。そこで本城寺は大原に衝動的に「結婚」することを持ちかける。もちろんその結婚はフリのもので、イルクーツク行きを免れるためだけの噓である。このあたりの設定が大ヒットした『逃げるは恥だが役に立つ』の後追いだ、と言うレビューを見たこともあるが、まあ確かにそう捉える人もいるだろうな、とは予想がついた(もっとも、私は『逃げ恥』はドラマも漫画もほとんど触れていないので、実のところどうなのかは判断できない)。

このあらすじから、最初は噓の関係から、お互いに本当に惹かれていく流れになるのは容易に想像できるだろう。事実、現状はそのように話は進んでいるし、私はこの話で予想外の展開は求めてもいないから、このまま進んで欲しいと思っている。

ところで、噓とはいえ結婚するとなると、当然のことながら周りを巻き込み、そして多くの人と関わらなければならなくなる。元々はお互いの「一人」の生活を守るための計画だったにもかかわらず、本当に一緒になることを求めることで「二人」、そしてお互いの家族や親戚、それに職場の人間とも無関係ではいられなくなる。そこで人付き合いが苦手な二人は、否応なく変化を求められることになるところが面白い。もはや完全に、当初の目的とは真逆の方向に進んでいるのだ。

しかし、社会に生きるとはそういうことではないか。自分の好きなことだけを好きなようにやって生きていくことはできない。青年誌(「ビッグコミックスピリッツ」)連載ということもあってか、今までの作品と比較すると、少し大人な物語になっているように感じる(そんなところが、少年誌連載の『神のみぞ知るセカイ』とは少し違う点と言えるのかもしれない)。

二人は、いままで自分たちが避けてきたことに、立ち向かっていく。王道の成長物語でもある。

初読時、「この作品はドラマにしようと思えばできそうだな」と思っていた。この度、本当に連続ドラマ化が決定したらしい。漫画の実写化は正直怖いところが大きいのだが、決して悪い話ではないだろう。

ちなみに、二人が働く旅行代理店なのだが、舞台が錦糸町支店になっている。私はその辺りで生まれ育った人間で、中学、高校時代はそれこそ学校帰りや休日に錦糸町に行って、いろんな本を買ったものだ。そんなところにも、妙な縁を感じている。

 

阿部共実『潮が舞い子が舞い』(秋田書店、既刊8巻)

「海辺の田舎町。高校2年生の男女が織りなす青春群像コメディ」というカバー裏の紹介がまさにそのまま。数にして50人以上の個性的なキャラクターが入れ替わり立ち替わり、真面目なのかふざけているのかよく分からない、いや、変なことを馬鹿真面目にやったり、語り合ったりしている話だ。

この作品は比較的コメディチックで、穏やかなものも多いが、出始めの頃のこの作家の作品は、『空が灰色だから』で有名だがかなり癖が強く、そして後味が悪いものを描かせれば抜群の上手さだった。『ちーちゃんはちょっと足りない』をバイト前の電車で読んだときは後悔したものだ。

だが、『月曜日の友達』あたりから少し作風が変わってきて、ある意味で多少万人受けする方向になってきたように感じる。念の為つけ加えると、それは悪いことではない。

とはいえ、元からある余韻を残す感じは健在で、ところどころでやがて去って行く青春へのノスタルジーだったり、友人や男女の間に流れる微妙な機微だったりが沈黙のコマで表現されている。特に最新巻の第88話はそれが大胆に用いられており、これには参った。本作はかなり台詞量が多いのだが、それゆえに沈黙が生きてくる。創作における基本のキだが、案外これが難しいのだ。

そして、これだけの登場人物が、ちゃんと各々キャラが立っている。当たり前のようにやっているが、よくやるものだと感心する。

 

カシワイ『風街のふたり』(双葉社、既刊1巻)

海沿いの街に住む絵描きの老人と、その街に引っ越してきた少女の物語。

描かれるのは二人を中心とした日常生活の風景であるが、そこに通底するテーマは「記憶」ということになるのだろうか。

どうしても疑問形になってしまうのは、私自身、まだまだこの作品について言語化できそうにないというところに起因する。最近読んだ中ではかなり好きな作品なのだが、それをどう説明したらいいものか、分かりかねている。

この「記憶」というテーマは、作者の最初の作品集『107号室通信』にも感じられるから、作品というよりもこの作者のテーマと言えるのかもしれない。そして記憶とは、やはり文学を初めとした芸術の根幹にあるものでもあると思っている。

私はこの作品を読んでいると、なぜか国木田独歩の作品を思い出す。帯の「忘れえぬ日々」の「忘れえぬ」という言葉によって喚起されているのかもしれないが、それは分からない。

 

天野実樹『ことり文書』(KADOKAWA、既刊2巻)

大豪邸に住む13歳のおてんばお嬢様・小鳥と、その執事で堅物の白石を中心とした日常コメディ。これは書店で試し読みの冊子を読んで衝動買いしたのだが、こう並べてみると私の好みの方向性がなんとなく分かるというものだ。どうやら私は、物語にドラマチックな展開をそれほど求めていないのかもしれない。どこか倒錯的な気がしないでもないが、案外そんな自分はそこまで、少なくとも昔よりは嫌いではない。

いつも白石が手を焼くほど元気いっぱいの小鳥だが、母を早くに亡くし、父は仕事でほとんど家を空け、5歳上の兄も留学中であり、家の中に家族はいない。家族は各々小鳥のことを愛していていて、それは小鳥自身も分かってはいるのだろうが、それでも寂しいものは寂しい。白石を困らせるのは、甘えの裏返しでもある。

そんな白石は執事としては優秀なのだが、考え方が固いところがある。職務に忠実であろうとするあまり、自分の考えを押し付けてしまうこともある。もちろん大事なお嬢様をちゃんと守る必要があるからなんでもかんでも彼女のやりたいようにさせることはできないが、しかし彼は彼なりに、小鳥や屋敷の人々とふれあう中で少しずつ変わろうとする。

こう書いてみると、ありふれた物語にも思える。私の言葉足らずが原因なのかもしれないが、だとしても、ありふれた物語でいったい何が悪い、とも思う。私はむしろ、最近の物語を見ていると、なにか特別なことをしようとしすぎではないか、と感じることが多い。たしかにそうしないと市場のなかで目立たないのかもしれないけれど、しかし、そんなに資本主義にべったりでいいのか、と問い返したくなる。

ありふれた物語だとして、それを丁寧に、真摯に描いていけば、自ずと「ひとつの」物語が立ち上がるものだ。この作品はまだ始まったばかりで、どこまで続く想定がなされているのかもわからないが、私にはその「ひとつの」物語が生まれる気配が感じられ、好ましく感じている。

 

石塚千尋『ふらいんぐうぃっち』(講談社、既刊11巻)

タイトル通り、魔女が存在する日本が舞台の日常系物語。魔女は15歳になるとひとり立ちをするというしきたりがあり、主人公の真琴は高校入学を機に、東北の少し遠い親戚の家に居候することになる。

なにか大きな事件が起きることはなく、ほのぼのとした空気が心地よい。よく売り文句なんかに「ずっと読んでいられる」というものがあるが、私は「本当にそんなことあるのかな」とやや懐疑的だった。けれどもこの作品については、たしかにそういうものもあるんだなあ、と納得させられた。なんだか、手持ち無沙汰の時にもふと読みたくなる、そんな安心感がある。

その要因のひとつには、いわゆる「嫌な奴」がいないことがあげられるだろう。基本的にみんな良い人なのだ。そういうと、人によってはご都合主義的な世界だと毛嫌いするかもしれない。それは個々の好みなのでどちらが正しいということはないのだが、ただ、現在放送中の朝ドラを少し見たり、話を聞いたりしていると、嫌な奴、訳が分からない奴だらけの物語というのは考え物だな、といたく思わされるのである。

また、本作はアニメ化もされていて、それは原作の空気を崩さず、かつしっかりとアニメ作品として作られており、とても良いものだった。

 

namo『クプルムの花嫁』(KADOKAWA、既刊3巻)

金物で有名な新潟県燕三条を舞台にしたラブコメディ。タイトルの「クプルム cuprum」はラテン語で「銅」の意味で、銅器がテーマの作品だ。

この地で代々続く鎚起銅器職人(1枚の銅板を槌で打ち伸ばしたり絞ったりして作る銅器)の跡取り息子・修が、幼馴染みの大学生ギャル・しいなにプロポーズし、婚約するところから物語は始まる。

私はこの作者の前作『狼少年は今日も嘘を重ねる』を読んでいて、かなり久しぶりの新刊に嬉しくなり読み始めたのだが、思いの外、前作でもそうだったちょっと甘すぎるくらいの恋愛模様に、お仕事ものとしての要素もしっかり絡んでいてかなり楽しく読んでいる。

幕間に描かれる作者の新潟取材記もおもしろいが、当たり前のことであるがかなりちゃんと取材しているんだな、と思わされる(単純に新潟観光を楽しんでいるだけのような話もあるが、それはそれでおもしろい)。もともとこの作品は、担当に「取材して漫画を描いて欲しい」と言われて始まったものだという。いま、情報を集めるだけならばすべてインターネット上で済ますことも不可能ではない。というよりも、報道なども現地に足を運ばずに机上で得られる情報だけで書くいわゆる「こたつ記事」が増えるなかで、やはり実際に足を運び話を聞くことが、目に見えてと言う形ではないけれども、作品や内容に実となるものをもたらすのだな、と改めて実感する。

思えば前作は、キーアイテムとしてミヒャエル・エンデ『はてしない物語』が登場したが、おそらくちゃんと読んでいて、きっと作者自身なんらか思い入れのある作品なのではないか、と勝手に想像している。

本作のおかげ(せい?)で、ブックオフで見付けた『はてしない物語』の函入り上製本を買ってしまったこともなつかしい(作中で用いられる『はてしない物語』は岩波少年文庫版ではなく、その本自体が作中に出てくる本であるかのような装幀をするなど、かなり趣向が凝らされた岩波書店の函入り上製本の方だったはずだ)。

本作はなかなか評判がいいようで、1巻は発売後即重版がかかったらしい。とはいえ、この甘々な恋愛模様は案外好みが分かれるような気もするし、私とて、他の同じようなコンセプトの作品が好きかと言えば、実はそうでもない。

いまの時代、多くの人がなんらかの「専門家」、もっとくだけて言えば「オタク」や「クラスタ」になりたがっているように感じる。コンテンツが溢れているから、なにかしら自分の専門領域を定めた方が対象を絞りやすいし、またアピールもしやすくなる、というところがあるのだろうか。

ただ、私個人は少なくとも、結局個々の作品次第だなと思うところがあり、自分のことを「○○好き」と称することができないでいる。正直なところ、「小説好き」「本好き」と自称することすら躊躇うくらいだ。そのとき好きになったものがたまたま小説であり、ある一冊の本であった、というだけなのではないか。そんな風に考えはじめるとキリがなくなり、我ながら厄介な疑問を抱えてしまったものだなと感じる。

これは予想だが、本作はわりかし近いうちにアニメ化が決定するのではないか、と思っている。

 

樋渡りん『冠さんの時計工房』(秋田書店、全5巻)

街で時計店を営む冠綾子のもとには数々の依頼が持ち込まれる。その時計を通じて人々の歴史や繫がりを描いていく、連作短篇風の話。

この作品を買ったのは、ちょうどこの時期に新しい腕時計を自分で買いたいと考えていたからだった。

それまで使っていたのは、二十歳くらいのときに父親に買ってもらった就職活動などでも使えるようなシルバーのベルト、サファイヤの文字盤の腕時計だった。確か1万円ちょっとで、かなり気に入ってずっと使っていたのだが、いまの仕事はスーツを着るような仕事ではないし、ある程度給料も入ってくるようになって、ひとつ、もうちょっとカジュアルな時計を持ちたくなった。なにより、自分で自分の腕時計を買う、ということに憧れたのだ。

大して知らないくせに、と思われるだろうが、腕時計にはなんだかロマンがある。腕時計は非常に細かいパーツでできた精密機械であり、技術の粋が尽くされている。そんなものを身につける。もしかしたら古い感覚なのかもしれないが、なんだか格好いいのだ。仕事の空き時間には、ずっと時計を調べて、写真を眺めていた。

そんなときだったから、時計店を舞台にした作品が目に入り、つい買ってしまったというわけだ。

本作は、もちろん時計を買う人もいるが、壊れた時計や動かなくなった時計を直してもらいに来る人が多い。時を刻む道具である時計自体が、その身体に歴史や記憶を刻み込まれている。そんな時計を巡って、物語が紡がれていく。

このようなことは時計に限らず、本やレコード、家具やぬいぐるみなど、比較的長持ちするものについても起こるものだろう。

しかし、現代はシェア文化が進行し、「持たない」生活が広まっているという。たしかにカーシェアを使う人は増えているし、サブスクリプションによって一時的な利用権を買う形態は随分と浸透した。また、たとえ購入したとしても、それは電子書籍や配信音楽であったりして、物理的質量を持たないものになっている。これらのものは一度Kindleで問題にもなったが、配信側のさじ加減一つで、ある日突然閲覧ができなくなる可能性がある点では、本当に所有と言えるのかどうか。

どちらが良い悪いということは私には判断できない。ただ、やがてこのような物語は成立しづらくなるのだろうか、と考えさせられる。

ところで、基本的に穏やかな性格の綾子さんなのだが、一度不機嫌を露わにしたシーンがある。それは、オーバーホールの依頼を受けた時計を開けると、前にこれを扱った職人がどうにも部品を雑に扱っていたらしき形跡を見付けてしまったときのことだった。

私はもちろん職人ではないが、雑な作りの本を見ると最近は無性に苛つく。いや、ただ雑なだけならまだいいのだが、表面だけは随分ときらびやかなのに中身がまったく伴っていないものを見てしまったときなどは、左頰がぴくぴく動く。なんでこれでいいと思ったのか、小一時間問い質したい。

たしかに、その道に精通しているか、特別に興味がある人間でなければそんなことは気付かないし、特に困りもしないのかもしれない。それでも、やれることはちゃんとやる。それがプロの仕事というものではないか。だから、私はプロの仕事をする人間が語る言葉が好きなのだ。

話が大分それたが、もののついでにもっとそれると、先日久しぶりに高校時代の友人に会ったとき、家電量販店を冷やかした。そこは時計コーナーもなかなか大きく、男4人でぞろぞろ見ていたのだが、一人の友人が、俺、実は懐中時計とか持ってみたいんだよね、とつぶやいた。私も懐中時計にはちょっと憧れがあったから、会話にちょっとした花が咲いた。いまどき懐中時計に憧れる人間が友人であって、本当に良かった。

その後、確定申告を終えてまあまあの額の還付金が入ることを確認した私は無事に、ショーケースの前で1時間以上悩んで4万5千円程度(ポイント還元があったので実質4万円)の腕時計を購入した。これからの人生、なにかの節目に腕時計を買うのもいいかもしれないな、と家に帰るまで待てず、和食レストランで葛餅が来るのを待つ間に身につけた新しい赤と黒を基調にした時計を眺めながら思った。翌月に強いられる節約のことは、とりあえず考えないことにしている間も、秒針は正確に時を刻んでいた。

 

冬目景『百木田家の古書暮らし』(集英社、既刊1巻)

祖父の遺した神保町の古書店を突然継ぐことになった三姉妹の、恋愛群像劇。神保町、古書店が舞台となれば、無視はできない。実際、神保町の書泉グランデと東京堂書店では大判のポスターも貼ってあった。神保町界隈だけ売上が違うんじゃないか、と半ば本気で感じている。

本作はまだ1巻しか出ていない(夏ごろに2巻が出ることになっているから、そろそろかと思うが)ため、まだまとまった感想は用意できていない。まだまだ序章という感じでもある。

とはいえ、本作で描かれる古書店の暮らしは、値付けや書き込みを消すことや目録作成や市場の風景のほか、「古参」と思しき客の、新参の若い女性をナチュラルに見下した余計なお節介など、なかなか具体的だ。「白っぽい本(大衆誌などの新しめの本)」「黒っぽい本(古い本)」なんていう古書用語もポンと出てくる。他には、古書店の人間同士だと相手のことを店名に「さん」を付けて呼ぶところとか。さりげないが、このようなディテールが肝要であることは、本作に限ったことではない。

もっとも、本作のテーマはあくまでも恋愛群像劇であるはずだ。事実、1巻の段階でも三者三様の物語が進んでいるのだが、それがなかなか一筋縄ではいかない。長女は結婚していたのだが、ずっと片想いしている先輩のことが忘れられないという理由で離婚し、いまだうだうだと決して結ばれないと思っている先輩のことを想っているし、三女は、暴力を振るい束縛する男と付き合う同級生に想いを寄せている。古書店の店主で本作の中心人物であるはずの次女の恋愛模様がいまのところ最も稀薄なのが、なんだかおもしろい。現状で私が最も好きなのは、言うまでもなくこの猫っぽい次女なのだが。多分、声はちょっと低めだと思う。

また、本作は作者の『イエスタデイをうたって』以来の恋愛群像劇と紹介されている。この作品も少し気になっていたものだったから、これを機に読もうかと考えているところだ。もちろん電子書籍もあるのだが、こんな作品を読んだ後では、やっぱり紙の本で読みたくなる。そんなことをしているから部屋が圧迫されるのは分かっているのだが、こればかりは性だからどうしようもない。この「魁星書房」のような地下書庫が欲しいものだ。

 

他にもあるのだが、さすがに長くなってきたのでここで打ち切る。

自分のことを「○○好き」と称することができない、と途中に書いた。その気持ちはいまも変わらないが、しかしこう書き連ねてみると、ただ特定のジャンル名を提示できないだけで、なんだかそれっぽい傾向のようなものが見えないでもない。

実のところ、今日やってみたことは自分の本棚の一部を晒すようなもので、少し恥ずかしさもある。ただ、その恥ずかしさを承知で、努めて飾らずに書いてみたつもりだ。それを受け入れないと、ついつい耳障りのいいレトリックに頼りそうになる。格好つけずに書くことがこんなにも難しいことなのだと、改めて思い知らされる。

この文章が果たして「書評」と言えるものなのかどうか。それは分からないし、別にそんなことは気にしないでもいいのかもしれない。私がいま書いているのは商業の文章ではないし、数を気にする必要もない。そして、私が文章を書いている動機は、積極的に誰かを動かしたい、というものでもない。半分以上は自分のためで、残りはボトルメールのような気分で放り投げているだけなのだ。

それでも、ある人の、ある瞬間にとっては大切なものになる、あるいはならざるを得なくなる。その可能性がある。文章、作品というものはそれで十分なのだ。

 

(矢馬)