8月24日
最近、別にそんなにたくさん本を読もうとしなくてもいいのではないか、と思うようになった。
これは、「本なんて読まなくてもいい」ということではもちろんなくて、本を読むことを目的として本を読むのはどうなんだろう、という疑問によるものだ。
前回の記事でも書いたが、私はある一冊の本、一本の作品は、ある人のある瞬間にどうしようもなく必要となる瞬間がある、それで十分なのだと強く思うようになった。
たしかに、私も本というものは大切なものだと思っているし、無くなって欲しくはない。一方で、果たして本が本というだけでそれだけ神聖なものかと言われると、首肯しがたい。文学作品を読むと他者への想像力が培われる、などとよく言われるが、経験則から、それは非常に疑わしい。結局のところ、本人次第、その後どうするかによるとしか言いようがないだろう。
無論、その機会を作るという点で価値を見ることはできるが、しかしそのような機会は果たして文学を始めとした本の、もっと言えば芸術作品の特権なのだろうか。
そんなことはないだろう。日常生活にもその種は満ちているし、たとえば散歩してて道路を歩くハトを見ているときなんかにも生まれるものがある。外を見てみる。身体に入ってくる情報量は、本やネットのそれを遥かに凌駕する。それが、私が必ずしも本というものを特権視しないようにしている要因だ。「しないようにしている」というのは、心掛けていないと、つい本だけを無条件に肯定してしまいかねないからだ。私は本が好きだから、その評価に贔屓が入ることは避けられない。しかし、自分にそういった贔屓目があることだけは忘れないでおきたい。
私はいま、自分の文章についても一縷の可能性に期待して大事にしすぎないようにすると同時に、本も、本当に必要なときには否応なしに読むからと、無理して読まずに待つことにしている。それが、冒頭のような感覚を生んでいる。
事実、「そのとき」はちゃんと待っていればやってくるのだ。
最近、ちょうどそんな機会があった。
早川良一郎『さみしいネコ』の新装版が今年4月にみすず書房から出た。それまでこの書き手の本を読んだことはなかった。発売時に私は他の本を買うときにこれを見て、非常に気にはなったがその日はまあまあの量の本を買うことにしていたため、見送った。ただ、どこか頭の片隅には残ったようだった。
いま、私は佐伯一麦の作品を友人と読んでいる。そのきっかけになったのは、私が佐伯の新刊『Nさんの机で』を読んでいることを彼が知ったことだった。
本書のなかで、私は佐伯が20歳の頃に森内俊雄を愛読していたことを知った。私と森内の出会いは割と最近ではあるが、『道の向こうの道』に出会わなければいまの私は間違いなくないだろう。全ての作品を読んでいるわけではないが、私にとっては非常に大切な作家だ。思わぬところでこの名前に接したが、しかし言われてみれば佐伯と森内という繫がりは、妙にしっくりくる。なるほどなあ、と感心したついでに、おそらく森内の最近作である『新潮』2020年12月号掲載の「行きつ戻りつ」を再読したくなった。小説ともエッセイともつかない、しかし端正なこの作品のためだけに買った『新潮』を引っ張りだす。1年以上前に読んだのが最後だったように思う。その冒頭は、こう始まっていた。
出会ったときの早川良一郎氏とわたしの共通点は、パイプスモーキングの趣味と、もはや定年を持たぬ身ということだった。
あれ? と思った。この作品が、実在する書き手についての記憶について書いたものであったことは覚えていたが、それがいったい誰であったかはすっかり忘れていた。当時の私にはそれよりもこれが森内の文章であることの方が重要だったのだろうか。
この時点でもまだピンとは来ていなかったが、すぐ後に早川の作品一覧が掲げられ、そこに『さみしいネコ』の名前も出てきて、最初は潮出版社から出たこの作品が、「二〇〇五年には、みすず書房から大人の本棚の一冊として、池内紀解説、おおむね原著にそった」形で出版されたことが書かれてあり、あ、これはあのとき見送った本じゃないか、と気付いた。途端、私のなかでこの作品の持つ表情が変わった。
これは啓示だったのだろうか。後日、私はお世話になっている書店が移転するということで、挨拶に行った。そこまで遠くに移るわけではないが、しかしこの店舗で本を買うのも最後だとゆっくり棚を見ていると、新刊棚(このお店は新刊本と古本を両方扱っている)に、新装版の『さみしいネコ』がささっていた。やや浪漫的な言い方を許してもらえれば、本というものは、本当に必要なときは向こうからやって来るのだと感じた。
もっとも、待っていれば良いとは言ったが、しかし機会がやってきたらそれは逃さないようにしなければならない。このような運命的な邂逅も、ぼうっとしていると日常の些事に紛れ、ふわふわと流れて消えていってしまう。
森内の作品名の由来となっており、そして作品でも踏襲されている早川の「オリジナル話法」である「行きつ戻りつ」する語りで綴られる定年後の生活というものを堪能する。このエッセイのような気の利いた諧謔さは、なんだか接して久しい気がする。勇ましい言葉に少々うんざりしている私には貴重な一冊となった。とはいえ、私はまだまだ定年のような年齢とはほど遠い。その頃に読むと、また違った印象を受けることになるのだろう。
一度読んで、印象に残ったところをぱらぱらめくってちょこちょこ再読することを繰り返す。もしかしたら、また今回のような偶然があって、今度は本書の方を引っ張り出してくることになるのかもしれない。
本とは、そのようなつきあい方でいいのではないか。改めて思った次第である。
(矢馬)