ソガイ

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習作としての読書ノート 『シュレーディンガーの猫を追って』第1回

 最近、やってみたいこととやらねばならないことが重なり、ちょっとどっちつかずになっているような気がする。だから、腰を据えてなにかひとつのことを続けてみようと思った。そこで、ひとつの作品を少しずつ読んでいき、思ったことや気づいたこと、連想したことなんかを書き留めていくことにした。まあ日記のような感じで続けていこう、と思っている。そして、できれば最後まで書き終えたあと、それを再編集してひとつの文章にできたりしたら、一種の実験としておもしろいかもしれない、なんて、思ってもいる。

 

 さて、何冊続けていくのかはわからないけれど、栄えある第一冊目に選んだのは、フィリップ・フォレスト『シュレーディンガーの猫を追って』(澤田直・小黒昌文訳、河出書房新社、2017年6月)だ。なぜこれを選んだか。

 ひとつ。私はあまり海外文学を読まない。ゆっくり読むのだし、せっかくならばいつもはあまり読まないものでやるのがいいではないか。

 ふたつ。この作品が私小説的作品であること。私小説は最近の私の関心のあるテーマだ。日本の私小説はぼちぼち読んでいるが、海外の、しかも現代の私小説的な作品にも触れることで、新たな風景が見えてくるかもしれない。

 みっつ。全29章で、一章あたりも10頁程度であり、細かく区切りをつけやすいこと。この方法において、断章形式は都合がいい。

 主にはこれらの理由による。あと、基本的には同時進行で文章を書いていこうと考えている。つまり、極力、先を読み進めない。感覚としては、新聞連載を読んでいくような感じだ。だから、最初の方はなにもわからない状態で書いていくことになるだろう。が、これもまたリアルな読書行為である。読書行為そのものを書き残す。……もしかしたら、最終的にこれはひとつの私小説になるのではないか? いや、しかしそれを目的にしてしまっては本末転倒だ。結果がどうなるかはわからないけれど、とにかくやってみよう。

 

第1回

 

『シュレーディンガーの猫を追って』。もちろん最初に気になるのは、タイトルの「シュレーディンガーの猫」だ。

 当然、私は量子力学についてほとんどなにも知らない。しかし、この言葉は知っている。箱の中に猫がいる。たしか、そこには量子に関係するなんらかの仕組みで、猫を即死させる毒ガスを放出させる装置がある。その装置が発動するかどうか、確実には言えない。このとき、観察者は箱を開けるまで、猫の生死を確認できない。猫は生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。量子力学には確率解釈と言って、量子を決定論的に表すことはできない。人間が観察することによって結果が定まる、といったような解釈をする。つまり、量子力学的に言えば、箱を開けるまで、猫は生きているのと同時に死んでいる。事態は重ね合わされている。

 しかし、このシュレーディンガーが提示した「シュレーディンガーの猫」というこの思考実験では、本当は、観察者が見ようが見まいが、箱の中で猫は生きているか死んでいるかなのだ。観察者が観察したことで結果が収束するのではなく、観察者は、すでに起きた結果を確認したにすぎない。この思考実験を通して、シュレーディンガーは量子力学の確率解釈を批判した。

 たしか、こんな感じの内容だった気がする。ウィキペディアを覗いてみると、そこまで間違ってはいないっぽい。時間ができたらちょっと勉強でもしてみようか。

 そもそも量子力学がなにを対象とした学問なのかもよくわからないから、なんでこんなことで喧嘩しているのかもいまいちわからない。ここまで来ると物理学なのか哲学なのかよくわからなくなってくる。

 

 ところで、この本の帯には、少し大きな文字でこのようなあおりがある。「量子力学と文学との接点を紡ぐ傑作。」ここだけ見ると、意味がよくわからない。しかし、この奇妙な紹介が、奇妙さ故に、それこそ妙に魅力的だ。正直、「ちょっと難しそうだな」とすでに尻込みしていたりもするのだが、まあまずは読み始めてみよう。

 

 扉には、こんな献辞がある。

科学者たちに捧ぐ

諸々のお詫びを込めて(5頁)

  いったい、フォレストはなにをしでかしたのだろう。思うに、本書で語られる量子力学をはじめとした科学観は、本業の科学者たちにとって受け入れがたい、いってしまえばエセ科学なのかもしれない。エセとは言葉が強すぎるだろうか。なら、都合のいい解釈、ということか。フォレスト、あんたは量子力学のことについて話しているけれど、実際、これはそんな簡単なものじゃないぞ。本当はもっと難しい議論があるんだ。そんな風に言われかねない内容なのだろうか。それで、あらかじめ謝っているのかもしれない。

 しかし、次の頁にはこんなエピグラフがある。

「アインシュタインの物理学に関する本を読んでまったくわからなくても、どうってことはない。それは、べつのことをわからせてくれるのだから」

ピカソ(6頁、「べつのこと」は傍点が打たれている。)

  詫びたそばから、開き直りだ。つまり、「シュレーディンガーの猫」の議論を追っていて、でも量子力学のことがよくわからなくても、それは構わない。それによって、なにか「べつのこと」が見出されてくるのだから、ということだ。フォレストがこれから記すのは、量子力学の分野における「シュレーディンガーの猫」の議論ではなく、フォレスト、あるいは語り手の、「シュレーディンガーの猫」によって「わからせてくれる」ものなのだろう。なかなかおもしろそうだ。しかし、ひとは「シュレーディンガーの猫」を通して小説を書くなど、本当にできるのだろうか。衒学的になりすぎて、小説と言うより量子力学エッセイになってしまわないだろうか。少し心配ではある。

 

 さて、プロローグに入る。冒頭の段落はなかなか冴えている。

 漆黒の闇夜のなかで黒猫を捕まえるのは、この世でもっとも難しいことだと言われる。猫がいなければなおさらだ。(7頁)

  これは孔子の言葉であるという説もあるそうなのだが、作者は日本の僧侶の言葉だと思っているそうだ。

 ともかく、この文章、印象に残る一節であるが、よくよく考えるとちょっとおかしい。「漆黒の闇夜のなかで黒猫を捕まえるのは、この世でもっとも難しいことだと言われる。」これはわかる。闇夜の漆黒に黒猫の深い黒が沈み、輪郭が溶け込む。輪郭のないものを手に取るのは難しい。それはそうだ。「猫がいなければなおさらだ。」これは変だ。そこに猫がいないなら、捕まえるのが難しいもなにも、そもそもいないのだから、捕まえることなんてできるはずがないではないか。だから「なおさら」難しい、というのはおかしい。フォレストも、そのことに気づいている。

 とはいえ、孔子にせよ、その名を借りた無名の思想家にせよ、それが不可能だと断じてはいない。ただ、暗闇のなかで黒猫を見つけるのは困難の極みだと言っているのだ。(7頁)

 ここまで読んでいるときに、なるほど、と思った。「漆黒の闇夜のなか」の黒猫は、闇夜に溶け込んでいて見つけることが困難だ。どこにいるのかわからないからだ。となれば、そもそも、いるのかいないのかすらわからない、とも言える。手を伸ばして、その手が温もりに触れたとき、はじめてそこに黒猫がいるとわかる。

 言ってみて、「シュレーディンガーの猫」の話に似ていることがわかる。偶然か必然か、どちらも猫によって喩えられる。そう考えてみれば、黒猫はまだしも、なぜシュレーディンガーは、思考実験の動物として猫を選んだのだろう。あの実験に、猫である必然性はない。毒ガスで死ぬのは猫に限らない。だから犬でも、ひよこでも、それこそ人間であっても構わない。なのに、なぜ猫だったのか。

 猫について描いた小説で私が思い出すのは、平出隆『猫の客』だ。隣の家に拾われた猫が、家と家の境界を自由に越えて、語り手夫婦の家に入ってくる感覚。抱こうとすると、からだをよじってするりと逃げていく、あの感覚。『猫の客』が描くのは、猫の超然とした立ち振る舞いだ。気がついたらそこにいて、気がついたらいなくなっている、猫。平出は文庫版のあとがきで、「チビがしたように、静かに境をくずすことは私の期したところでもあった。」と、この作品の真意を語っている。猫は、静かに境をくずす。たとえば、存在と不在の境、生と死の境を。いると同時にいない存在。猫こそが、この思考実験にそぐうのかもしれない。シュレーディンガーが猫をどう思っていたのかはしらないが、シュレーディンガーもまた、あの思考実験を考えているとき、猫のそんな存在感が、ふと頭をかすめたのかもしれない。

 さて、繰り返すと、暗闇のなかに黒猫を捕まえるのは難しい、黒猫がいない場合にはなおさらだ。極めて困難である、ということは裏を返せば、絶対に無理、ではない。だから、フォレストはこのように言うのだ。

 わたしは漆黒の闇のなかで目を開く。いくつもの線、染み、影が見え、遠ざかる姿がきらりとする。何かが片隅で蠢き、その波動を、震える虚空に向かって、彼方へと投げかけている。(8頁)

  いるのかいないのかすらもわからない黒猫を見つけようと、目をこらす。しかし、なぜそこまで途方のないことに専心するのだろうか。とんだ徒労のようにも思われる。しかしそれはきっと、このあとに少しずつ、語られていくことだろう。だから、いまはじっと、フォレストの文章に身を委ねつつ、少しずつ、この作品を読み進めていくことにしよう。

(第2回に続く)

 

(宵野)