ソガイ

批評と創作を行う永久機関

きっとだれかには届くと思っているから僕は書いている。

 小説家になりたい。そう思い立ったのは、ライトノベルばかりを貪るように読んでいた高校2年生くらいの頃だった。おもしろい物語に触れていると、やっぱり、自分でも書いてみたいと思ってしまうものだ。

 しかし、自分には圧倒的に読書量が不足していた。楽しむだけならもちろん構わないが、自分で物語を書こうと思うならば、ライトノベルだけでは不十分だ、と当時の僕は思った。しかし、受験勉強が本格的に始まっていた。第2志望の大学に合格し、夏目漱石や川端康成、芥川龍之介に太宰治などをブックオフで買い漁った。あれから7年弱。まさか自分がこんな風になるだなんて、思いも寄らなかった。

 小説家になりたい。そう思っていた。いつからだろう。それよりも、ものを書きたい、という想いが先立つようになったのは。いや、もちろん作家になれたならば、これほど嬉しいことはない。けれども、それはあくまでも結果のひとつになっている。

花田〈菜々子—引用者注〉 実際、学校のクラスの四〇人中三〇人くらいに本を読む習慣ができれば、もちろん業界は潤いますし、将来の読者も育つでしょう。ただ、それよりも大事にしたいのは、生きていくために心から本を必要とするような、クラスに二、三人はいる人たちが「本」と出会うための機会です。本はそういう人たちにさえ届けばいいのかな、という気もしています。(後略)(新井見枝香+花田菜々子「本との出逢い、書店の愉しみ」、『ユリイカ6月臨時増刊号 総特集*書店の未来』(第51巻第10号、2019年6月)に所収)

 もちろん文脈は若干異なるが、いたく共感する。自分の書くもの、書きたいものは、おそらく多くの人が欲するものとは違うらしい。そう気づいた瞬間が、数年前にあった。しかし、だったら僕の文章を必要としてくれる人がまったくいないのか。自惚れかもしれない。思い上がりもいいところかもしれない。でも、この世界のどこかにはいる。それは僕の死んだ後のひとかもしれないけれど、きっといる。なぜか僕は、こんな想像に全幅の信頼を置いている。

 しっかりと自覚したのはかなり最近なのだけど、僕は、人が死ぬ話が、より正確にいえば、人が殺される話が、かなり嫌いらしい。特にミステリーやサスペンスは、名作だということがわかっていても、どうしてもなかなか読む気にならないことが多い。別に無理してまで読む必要もない。もしかしたらいつか、読みたくなる日が、必要となる日が来るかもしれない。だったらそのときに手に取ればいい。このように割り切れるようになったのは、小説家になりたい、というよりも、自分に誠実なものを書きたい、と願うようになってからだと思う。

ほうたる:俺の気のせいかもしれないが
ほうたる:今回の一件、お前は何か知っていたんじゃないか
L:え?
L:わたし、何も知りませんでした
L:どうしてそんなことを?
ほうたる:二年F組の三人に俺を加えた四人
ほうたる:お前は全員の説に納得していなかった
ほうたる:いつもの、お前らしくない。本郷への共感だけが理由なのか
L:ああ、なるほどです
L:ええとですね。わたしと本郷さんが、似ていたからだと思います
ほうたる:?
L:あ、なんだかちょっぴり、恥ずかしいですね
L:笑わないでくださいよ
L:実はわたしも
L: ひとの亡くなるお話は、嫌いなんです(米澤穂信『愚者のエンドロール』角川文庫、2002年8月)

「ひとの亡くなる」話が嫌いだから、どんなに魅力的でも、人が殺される筋が受け入れられない。千反田えるのこの心情を、僕は笑わない。笑うことができない。

 大学に入るか入らないかの頃だったと思う。理不尽な指令に従ってクラスのなかで殺し合いをするバトルロワイヤル・デスゲームものや、精神病質者が、ほかの登場人物たちを無慈悲に殺していく、いわゆる「サイコパス」ものが少し流行ったことがあった。ひとつかふたつ、代表的な作品も読んだと思うが、僕にはまったく受け付けられなかった。正直言って、こんなにも多くの人が意味もなく、理不尽に殺されていくのを読んで、なにがおもしろいのだろうと思った。もちろん、あくまでこれはフィクションなのだから、そういうものを読んで痛快さを覚えるひとを否定しないし、そんな権利もない。

 だから、これは僕の感じ方でしかない。というか、僕は、たとえどんな表現方法を選んだところで自分の感じ方を語ることしかできないのだけど、多分、僕はある意味でフィクションというものを重く考えているのかもしれない。現実と虚構は相反するものではなく、表裏一体のものだと感じているのかもしれない。現実なくして虚構はないし、虚構なくして現実もない。だから、「これはあくまでもフィクションだから」と割り切ることができない。

 ある日突然、その生が理不尽に断ち切られるやるせなさを、知っている。たとえば事故だとか、過失はあったかもしれないけれど、だれも望んだものではないものですらつらいものがあるのに、それが他者の暴力による道理の通らないものだとしたら。それを「偶然」という言葉で飲み込むことができるか。無理だと思う。納得なんかいかない。本人はもちろん、遺族や周囲の人々は、なぜあのひとは殺されなければならなかったのか、答えのない、あるはずのない問いに苛まれながら生きることを余儀なくされるだろう。

 こんなとき、はたしてフィクションはひとを救えるのだろうか。難しいと思う。どんな物語も、その問いを解してはくれないだろう。少なくとも、僕には想像できない。僕はフィクションの力を信じている。けれど、圧倒的現実の前には無力に等しいことも承知している。

 僕は、物語のなかでは死者も生者も共存する、と思っている。だからこそ、物語のなかの命も現実と同じくらい大事に感じている。命の重みは、現実も虚構も変わらないと思うのだ。

 話がまとまらなくなってきた。自分で言うのもなんだけど、僕の文章ははっきり言って堅苦しくて地味で、多くの読者を獲得できるようなものではないような気がする。かつてはそれも気にしていた、というかコンプレックスだった時期もあるのだが、いまは、それでもきっとだれかには届くと思って、もしかしたらそのだれかの生きる希望になるかもしれないと思って、こうして書き残す。そのとき、僕の名前なんかは記憶には残らないかもしれない。けれど言葉が残るのならば、それで十分ではないか、といまは思っている。

 

(宵野)