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葉々録 2026年5月—卓球と再読、積読について

2026年5月

 なにも無かったが故にいろいろあった文学フリマ東京が終わってから、しばらくは過去の自分の文章を読み漁り、いくつかピックアップしたものの手直しをおこなっていた。まだひとつ大物が残ってはいるが概ね順調。今後、これとは別の案件を複数抱えていることを考えると、こちらについては6月中に目処をつけたいところだ。

 そんなこんなで特に前半は新たに本を読むような余裕がなかった。むしろいまは、今年の3月末、高校2年生以来14年ぶりに再開した卓球が楽しくて楽しくて仕方ない。ちょうど世界卓球がやっていたことも大きかった。

 しかし、ここでも時代の変化を感じる。自分が中学・高校生だったときには、教本や卓球専門雑誌の連続写真を参考にしていた。だがいまはYouTubeチャンネルにて、映像で気軽に技術を習得できる。日頃は紙の本に関心を寄せている私だが、この点においてはやはり動画コンテンツに軍配を上げざるを得ないかもしれない。この点については、いまの学生が羨ましい。

 一方で、ラケットやラバーなどの用具の価格高騰にも驚かされる。私は現役時代、最終的には確か12000円のラケットに、3000円弱のラバーを両面に貼っていた記憶がある。このラケットはちょっと奮発したもの(いまも使っている)で、ラバーについては周りの部活仲間と比べるとちょっと安いものを愛用していた。それでも、ラバーなんて普通の学生だったら1枚3000〜4000円が相場だった。

 ちょっとマニアックな話になるが、たしか私が高校生になった頃に、バタフライから「テナジー05」という革命的なラバーが発売された。性能も凄いが、なにより6000円という価格が衝撃的だった。週3〜4回も練習すると、ラバーは3カ月程度でダメになる。それに、私の記憶が正しければ、当時の「テナジー05」はそのテンションゆえに、台の角に引っ掛けるとすぐに切れ目が入ってしまうようなわりと寿命の短いラバーであった。元からハイテンション系ラバーを使いこなせなかったこともあるが、それを抜きにしても手の出ないラバーだった。

 その「テナジー05」も、公式ではいまや9000円。プロもよく使っている印象のある「ディグニクス」シリーズは税込み10000円強、「ザイア03」に至っては14000円。もちろん3000〜4000円台で性能的に申し分のないラバーもあるが(私はいま4000円台のラバーを使っているが、かなり満足している)、それでも、平均値のみならず中央値においてもだいぶ値上がりしていることは間違いないだろう。私が使っているラケットは廃盤にはならずいまでも生産されているが、これも値上がりして20000円近くになっている。

 話を少し無理やり出版に広げると、いま棚の奥から引っ張り出してきた当時の私が購読していた卓球雑誌『卓球Report』は、A4判・カラー頁ありの130頁ほどで400円。本誌は2018年に紙の発行をやめてしまった。この価格は当時においても安かったとは思うが、それを加味しても、もしいま同じものを売るとしたら一体いくらになるのだろうか。当たり前のことであるが、物価高騰の波は出版業界のみならず、あらゆる分野に及んでいる。そんななかで本の適正価格とはどのくらいのものなのか、改めて考えていかねばならないだろう。これは繰りかえし書いてきたことだし、たぶん言われてきたことだろうが、これまで本には安すぎた面があるのだと思う。……もちろん、高くなって欲しくはないのだが。

 さて、人には各々、繰りかえし読み返す作品があるものかと思うが、私にとってそのひとつが、「週刊少年ジャンプ」にて連載されていた卓球漫画、江尻立真『P2!-let's Playing Pingpong!-』(集英社、全7巻、2007〜2008年)だ。

 

 

 超が付くほどの運動音痴の藍川ヒロムは、中学進学を機に運動部に入ろうと決意するも、入部試験で悉く撥ねられる。やはり自分にスポーツは無理なのか、と諦めかけたところで最後に辿り着いた卓球に魅せられる。入部の条件は、実力者である2年生の川末涼から1ポイントでも取れば良い、という破格のものであるが、ヒロムはまったく手も足も出ない。だが、最後の一球で自分でも気付かない才能の片鱗を見せ、1ポイントを奪ってみせる。スポーツに嫌われていると諦め、自分に自信を持てないでいたヒロムが、卓球を通じて多くの人の想いに触れ成長していく、王道の部活もの作品である。

 好きな台詞はいくつもあるが、そのうちの一つが、入部からずっと台を使った練習をさせてもらえない状況に対してヒロムが言った、「少しだけ諦め悪くなったから 頑張ってみる!」という台詞だ。振り返ると、私はしばしば「諦め」という単語を文章中に使う。ここには反語的なニュアンスが多分にある。このような状況に諦めてしまいそうになる、と書くことで、それでもまだ諦めたくはない、と自分に言い聞かせている。先月の「葉々録」を私は「この10年ほどで私が成長したことと言えば、多少、往生際が悪くなったことくらいなのだから」と結んだが、この台詞へのオマージュの意味合いもあった。無力さにも悔しさにも惨めさにも負けず、諦め悪く立ち向かう姿は少年漫画的だ。

 惜しむらくは、本作が連載していたときの「週刊少年ジャンプ」は『ONE PIECE』『NARUTO』『BLEACH』『アイシールド21』など、なかなか秀作が揃っていて埋もれてしまったことだろう。

 特に大きいのが、同時期に『テニスの王子様』が最終盤をむかえていたことだ。ただでさえテニスと比べると卓球は画が地味なのに、向こうでは現実離れした大技が連発される一方で、こちらの主人公の最大の武器は、スマッシュや3重のフェイントをかけたサービスのラケットの角度を見抜く並外れた動体視力。本作で登場するなかで最も必殺技らしい技の「ゼロバウンド」(台の横から、台の高さに合わせて球を入れてバウンドをさせない技)も、毎回狙ってできるかどうかは別にして、実現不可能なものではない(動画投稿サイトを探せば、いくらか実際の試合での例が出てくる)。並べると、どうしてもインパクトに欠ける。

 結果として連載は一年ちょっとで終わり、実質的な最終話は本誌ではなく「赤マルジャンプ」に掲載された。たぶん打ち切りだろう。だが、いまの「週刊少年ジャンプ」であればアンケート中位を堅実に取れるだけのポテンシャルは十分にあると私は思っているし、もう少し続けば、間違いなくもっと面白くなっていたはずだ(せめて秀鳳戦は最後まで見たかった)。再読のなか、回収されないままになってしまった伏線の数々を前に、ただただ時代が悪かったと零して自分を慰めるしかない。

 そして、私はいまでも本作は絵のタッチ含め「週刊少年サンデー」の方が合っていたと思っているのだが、それは私がサンデー贔屓だったからそう思いたいだけなのかもしれない。

 江尻と親交があり、『P2!』の作画を手伝って3巻にはスタッフとしてクレジットもされている若木民喜は、連載中の『ヨシダ檸檬ドロップス』の新刊第6巻(小学館)を刊行。

 

 

『神のみぞ知るセカイ』は、まさに卓球に打ち込んでいた(といえるほど部活熱心な学生だったわけではないが)時期に出会い、これまた折に触れて読み返す作品のひとつとなったのだが、当時は、若木がここまで作品が途切れない作家になることを想像してはいなかった。

 その後、江尻はコミカライズの作品をいくつか出している。絵が上手いのは前提として、変な癖がなく、かつその作風に合わせたタッチを使えるように見受けられるから、そこに適性があるのは納得できる(特に『おじゃる丸』のコミカライズは、アニメそのまんまでびっくりした)。それでも、またいつかオリジナル作品が読みたい。それまでは本作をちょこちょこ読み返して、気長に待つことにする。

 再読と言えば、今月は永田希『再読だけが創造的な読書術である』と、その前編的作品の『積読こそが完全な読書術である』(共にちくま文庫、2026年)を読んだ。

 

 

 

 単行本刊行時にはこの煽りっぽい書名も相俟ってなんとなく敬遠していたが、今回の文庫化を良い機会として、ようやく手に取った次第。結論として、なかなか面白かった。もの凄く大雑把な感想を言うと、完読・精読主義から距離を置き、「読書」という行為を少し広い目で、相対的に分析しているところに好感が持てる。また、人間の視点からではなく、本の視点から読書を見ようとしているところも良い。

自分の目の前の本を読むかどうかという問いは、個人的な時間のなかではそれなりに重要な悩みかもしれませんが、しかし書物のほうからすれば、別の時代の誰かが読んでくれればいいのです。(『積読こそが〜』142頁)

 本を完全に読むことはできない。本を読むことは億劫である。読み落としを気にしすぎると、本を読み進めることは困難になる。バイヤールやショーペンハウアーなどを引用しつつこのようなことを永田が語るのは、ただの慰めではない。むしろ、こういった後ろめたさに負けて目の前の本の期待に応えるべく遮二無二読書をする、ということは、「あらゆるメディアで情報が鑑賞されることなく氾濫し蓄積されていく」「情報の濁流」に吞み込まれていくことと変わらない、という主張による。本とインターネットを二項対立のなかでばかり見ていると見落としてしまう根幹への認識が、ここにはある。

 三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を始め、昨今ブームになっている感もある読書・書店論の文章は、その多くが社会的人間の視点から分析している。そこに意味が無いとは思わないが、もうさすがに食傷気味である。先日、書店で桜井政成『読書スタディーズ 本好きはどうつくられるのか』(明石書店)を見かけて興味を惹かれたのだが、まさに三宅香帆による帯の文言、「『なかなか集中して本が読めない』のは、個人の問題ではなく、現代社会が抱える構造が原因だった!」で、もうそういうのはいいよ、とかなり萎えてしまったのが正直なところだ(『積読こそが〜』の解説をその三宅香帆が書いているというのも、また因果なものである)。

 人間中心主義を離れたところから「読書」を見つめ直すことで浮かび上がってくるもの。いまの私はそこに目を凝らしたい。

 ちなみに、『積読こそが〜』と比べると、『再読だけが〜』の方は議論がやや抽象的な印象を受けた。前者の、自分の積読環境を整えながら更新し、小さな生態系をそこに構築することを喩えた「ビオトープ」の比喩はピンとくるのだが、後者の、再読によって書物の内外で作られているネットワークを読者が再構築し、生存可能な環境を作るという「テラフォーミング」の比喩は、ちょっと壮大すぎるように私は感じた。

 文学フリマ東京で買った本について、いくつか駆け足で。

 多くの人へのインタビューから文学フリマの足跡を描いた鈴木沙巴良『文学フリマ物語 なぜ人は創作に魅せられるのか』(ウェッジ、2026年)は、人選について、良く言えば妥当、悪く言えばあまり意外性はなく、私にとってはなにか新たな発見があったとは言い難い。が、それはもちろん本書の長所でもあり、文学フリマについてあまり知らない人にとっては、恰好の入口となる本になっていると思う。

 

 

 ただ一点、内沼晋太郎などが提示している、自己啓発的価値観へのカウンターとしていまの日記やエッセイのブームがある、という考察については、第一に形式的すぎると感じたし、それを措いた上でも、私はあまり説得されなかった。少なくとも、日記やエッセイを公開すること、ましてや本にして売ることのなかには、現在における自己承認、確認ばかりではなく、本書では「自己啓発的な価値観」とされている「未来の変革を目指す」欲求が無いとは言えないのではないか、と私は思っている。ただ私的に日記を書くことと、それを公開・出版(=publish)することには、決して無視できない違いがあるのではないか。言ってしまえば、「自己啓発」的な意図、あるいは欲望をまったく持たない出版物というものが果たして存在するのか、いまの私は疑っているところだ。

 本書でもそこはかとなく見受けられる、自己啓発本への嫌悪。私が気になるのは日記・エッセイブームそのものよりもむしろ、文学系の読書人に多く見られるこの共通認識の方にあるのかもしれない。

 仲俣暁生『錨と抽斗 短い書評コレクション②(海外小説篇)』(破船房、2026年)、汀こるもの『糖を燃やす脳を作れ! 本格ミステリダイエット』(2026年)。前者は、29人33作品の海外小説についての書評をまとめたもの、後者は、糖尿病の持病を持つ著者が本格ミステリ大賞の予選委員として30日間ミステリ小説を読みまくった記録を通して、読書が血糖値にどのような影響を及ぼしたかを記す、異色の読書記録だ。今回の文学フリマ東京を通じて、書評や作品紹介がやはり重要であると考えを新たにした。もちろん、「これはヤバい」とか「読んでない人は損をしている」、「この面白さが分からないのは……」などと煽るだけのようなものはさすがに避けたいが、一方で、あまり肩肘張らずに、少ない分量で自分の読んだものや良かったと思うものを紹介してもいいのかな、と思っている。

 言うまでもないことだが、ここでは新刊にこだわることはない。いやむしろ、少し前の、特にいま大きな話題となっている訳ではない作品の方に焦点を当てたいくらいだ。

 なぜそんな風に改めて思ったのかというと、2014年に単行本が刊行されてかなりの話題となった田島列島『子供はわかってあげない』が、12年経った今年、「2010年代を代表する大傑作、待望の復刊!!」との触れ込みで「名作マンガ復刻文庫」と銘打ち、講談社文庫から出たことに大きな衝撃を受けたからだ。

 

 

 復刊ということは、絶版、ないしは品切れになっていたということであり、また今回このような形で文庫化したことは、もう単行本は新たに刷らない、という意思表示とも捉えられる。

 12年という時間をどう捉えるかは人それぞれだろうが、漫画や小説においてはさほど長い時間ではないように、私には感じられる。やはり本作に「復刊」「復刻」の文字はまだそぐわないと思えるのだが、もうこの時間感覚は時代遅れのものなのだろうか。

 それでも、本作については判を変えて改めて書店の棚に並ぶことができるだけ非常に幸福である。その一方で、その他の多くの作品については、数年、いや数カ月といったスパンで新刊書店の棚からは消えていくことになる。そんななかで、ほんのささやかでも読者と作品を繫ぐチャンネルを作れれば。そのためには、やはり書くこと、語ることで、その作品がこの世に存在するということを示すのが大事なのだと思う。

 文庫判のコミックにやや苦手意識があるために少し購入を悩んだ本作だったが、結局は買った。思ったほどには文庫判であることは気にならなかった上、今回はいままで以上にこの作品が自分に沁みた。私の文脈において、こと漫画やアニメについての最高級の評価は「美しい」なのだが、「あれ、この作品、これほどまでに美しかったっけ」と読後に呆然としていた。0時には寝るつもりで入ったベッドの中、深夜2時のことである。このような再読の機会が作られたという点において、今回の復刊にはやはり一定以上の意味があると言わざるを得ない。一般文庫の棚に置かれることで、新たな読者を多く獲得もすることだろう。

 それでもなお、もうこれが「復刊」なのかあ……、との思いは拭えない。新たにロングセラー作品を生むことが構造的に極めて困難になっている。たとえ話題作であろうと、数年後、その新本が簡単に手に入る保証はもうどこにもない。その意味では、とりあえず買っておいて積んでおく必要性が俄然高まっている出版状況なのだ、と言えるのかもしれない。

 この流れで一つ作品を紹介すると、自分の根暗な性格も相俟って、ひっそりと趣味にしている漫画で明るい主人公が描けないことが悩みの男子高校生が、ひょんなことから出会った、明るくてキラキラ笑い、人を惹きつけるお嬢様学校に通う女の子をモデルにして描き上げてしまった漫画を本人に読んでもらうことになったことから始まる田口由『春くらり』(講談社、全3巻、2025〜2026年)は、絵が好みだったのもありなんとなしに買ってみたが、良い意味で軽さがあり、心地よい読み心地だった。二人の関係がこれから深まる、といったところで終わってしまったのが個人的には少し残念ではある……が、最近ちょっと多いように感じる、恋が成就してからも長々と話が続くタイプのラブコメ・ラブストーリーに蛇足感を覚えていたから、私にとっては絶妙なタイミングで終わった、とも言えるのだろうか。

 

 

 話のアウトラインとしては、最近の話題作でいえば『薫る花は凛と咲く』が近いと言えるかもしれない。あえて比較すれば、あちらは結構話が重く、人物相関図も入り組んでいて重厚と言える一方、捉えようによってはやや道徳色が強く、説教くさいところもある。

 再読の話に引きつけると、同じ作品でも、気分やコンディションによって合うときと合わないときがある。私は去年、『薫る花は凛と咲く』をとても面白く読んでいたのだが、ここ最近は新刊が出ているのが分かっても、買うのは今度でもいいかなあ、という心持ちになりがちだ。

 逆もある。過去の記録を読み返すと、柴崎友香『春の庭』は初読時、そこまで魅力を感じていなかったらしい。よく憶えてはいないものの言われてみればそんな気もしてくるのだがともかく、何年か経って必要に駆られて読み直したときにはかなり面白く読んだ。初読時に面白くないと感じていたことをほとんど忘れてしまうくらいに。

 このような変化を「成長」と表現する者もあるだろう。完全には否定しないが、こう言うと、その作品を面白く感じる感性を持つようになることが望ましい成熟である、とどこか正解を決めつけてしまうような気がして、ちょっと敬遠したい。読書家のエッセイなどを読むと、社会経験や人生のステージによって感想が変わる、と大きなことを語っていて、それも間違いではないと思うが、自分がなにを面白く感じるかなんて、なんか眠いとか、お腹が空いているとか、いまいち体調が良くないとか、朝ではなくて夜に読んだとか、そんなことでも変わってくるくらい、良くも悪くも案外いい加減なものなんだと思う。

 だから、皆が面白いと言っているものの良さが分からなかったり、昔好きだったものがあまり響かなかったりしても、そんなに深く思い悩むこともない。ああ、いまの自分はこうなんだな、くらいに考えておけばいいのである。

 あえてこう言おう。読書なんて、すべてがすべて、いちいち深刻に捉える必要はない。もちろん真剣に読んでも良いのだが、一方でもっと軽い気持ちで読んでもいいのだ。いったいどの口が言うのかとは自分でも思うが、ちゃんと読まなくては、と思うから読めないし、本に手が伸びなくなる。読書の意義を喧伝する昨今の本を見ていると、すでに本をかなり読んでいる人には諸手を挙げて受け容れられるだろうが、本を読む人とまったく読まない人との間にいる多くの潜在的読者をむしろ萎縮させてしまうのではないか、と思うことがある。

 話を広げると、本は雑に(乱暴に、ということではない)扱ってもいいものだ。ちゃんと汚れている本は美しい。電子書籍の弱点は、だから汚せないことにある、と私は主張してみることにする。これは、書き込みとかマルジナリアとかとは、また別の次元での話だ。

 最近は滞っていたが、ようやく久しぶりに映画を観た。『桐島、部活やめるってよ』。友人から熱い感想を聞いて気になっていたが、これは確かに面白かった。

 

 

 原作は未読であるものの、タイトルにある「桐島」が直接は出てこない群像劇であることはなんとなく知っていた。それも、同じ時間を繰り返し描く。別の視点とはいえ、同じ場面を何度も流すのだから下手をしたらマンネリになりそうなものだが、これがまったく飽きない。多分、アングルの使い方が上手いのだと思う。

 本作のテーマは、スクールカーストと、それに伴う領地争いになるだろう。神木隆之介が部長・前田を演じる映画部は、文化系の部活としてなかば嘲笑の対象となっており、部室も、剣道部の部室の隅に間借りしている。彼らは一念発起し、自分たちが本当にやりたいことをしようと前田が脚本を書いたゾンビ映画を撮ろうとするのだが、悉く他の部活(吹奏楽部や野球部)に専有されていて、まさに学校内を彷徨っているような状況だ。

 そんな映画部の上に、分類上は同じ文化部であっても地位が高い吹奏楽部、そして活躍している運動部(バレーボール部のリベロとして県代表にも選抜される桐島は本来ここに位置するのだが、部活を辞めるらしい、という話が出てくるだけで、連絡すらつかない)と連なっているのだが、ここに、エンドロールで所属が「(   )」と空欄(他のものは「映画部」とか「バドミントン部」などと所属が記される)になっている、桐島の親友で、東出昌大が演じる菊池が中心人物にいることが、ラストシーンで大きな意味を持つ。

 菊池は幽霊部員となっているが、厳密に言えば野球部所属である。野球の実力があることからも分かるように運動神経抜群で、かつ高身長でイケメン、彼女もいる。絵に描いたようなスクールカースト最上位の彼はしかし、目標や夢を持たず、どこか無気力だ。最後、桐島らしき人物が屋上に現れたことでカースト上位のバレーボール部を始めとした面々が集結する。そこでは前田たちがカメラを回し始めたところだったのだが、前田たちは桐島らしき生徒を見ていない。撮影を邪魔され、小道具を足蹴にされた前田はとうとうブチ切れ、「おかしいのはおまえらの方だろ!」と叫ぶ。それは学校内で自分本位に振る舞う彼らに対する不満や怒りであるのと同時に、居ない桐島に振り回され続け人間関係も崩れていく彼らの滑稽さへの糾弾でもある。前田はゾンビのメイクを施した部員に彼らを襲わせて、撮影を続行する。結果的に鎮圧されるが、ここでは一時、スクールカーストの逆転が起きる。

 鎮圧後、彼らは憑きものが落ちたように部活に戻っていくが、唯一、散らばった小道具を片付ける前田に寄っていったのが菊池だった。彼には冷めたところがあり、もともと、良くも悪くも映画部を露骨に見下してはいなかった。バレーボール部内のゴタゴタや、女達のマウント合戦からも、彼はどこか超然的な立場にいた。いわば別格だったのだ。そんな彼は、カースト上位に刃向かっていった映画部の姿を見て、なにか思うところがあったのだろう。

 彼は前田にカメラを向けて、将来は映画監督ですか? アカデミー賞ですか? とインタビュー形式で質問する。それに対し前田は、それはないかな、と答える。この答えに菊池は戸惑う。だったらなぜ、なんにもならないのに一生懸命になるのか。前田は、でも映画を撮っているときには世界と繫がれている気がする、と語る。呆然とするなかカメラは前田の手に戻り、今度は菊池に向けられる。舐めるように全身を捉え、やっぱり格好いいな、と零す前田に対し、菊池は涙を湛えながら、そういうのやめてくれと小さく呟いて屋上を後にする。このとき彼の頭には、実力では菊池にも劣る野球部のキャプテンが、プロにはなれないことが分かっていながら、それでもドラフト会議まではと本来の引退時期を越えてでも練習をし続ける姿も思い起こされただろう。

 夢への距離を自覚し、到達不可能であることを理解してなお歩みつづける彼らが、ここでは、がむしゃらに部活に打ち込む運動部たちより、言うなれば上に位置している。そのなかで自分は、一番格好悪い。

 エンドロールで所属が空欄となっていること。場所がない。それは、作中で散々撮影場所を奪われてきた映画部とパラレルになっている。そんな菊池が、やはり繫がらない桐島に電話を掛けながら野球部の練習風景を遠くから見つめる後ろ姿で、この映画は終わる。

 よくできた映画だと思う。そして、やはりもう一度、二度と観たい映画になった。

(矢馬)