2026年7月
今月は2つのイベントに参加してきた。ひとつはscoolの「今が危機なのか? 本と出版と文芸をめぐる緊急ミーティング」(7月7日)、もうひとつが「PASSAGE3周年記念 書評講座〈実践編〉プレイベント『書評の効用』」(7月14日)。
出版取次最大手の日販ホールディングス・富樫建社長の「取次事業の撤退も検討しなければならない環境が迫っているという危機感を持っている」との発言を契機に組まれた前者では、書き手のみならず、編集、書評家、学校教員、研究者など、様々な視点から「出版危機」を巡る状況が論じられた。なにか具体的な解決策が示されたわけではないが(数時間の話し合いで展望が拓けるのであればこんな現状にはなっていないので、それは当然である)、自分にはなかった見方を知ることができたのが良かった。
特に、そもそも日本には出版の現状を正しく把握するためのデータや統計がない、という笠井康平の話が印象に残っている。一般メディアでよく持ち出される「出版指標」は取次ルートによって流通しているものがベースとなっている。しかし一説では、いまや半分以上が出版物が大手取次を介さずに取引されている、という。もう30年も「出版危機」言説が叫ばれているが、私たちはそもそも、正しく危機を語るための材料を持っていないのかもしれない。
また、これは仲俣暁生もつけ加えていたことだが、いまある統計についても、それをちゃんと読める人が実はそれほど多くない、という現実もあるらしい。最近だと経済産業省の「書店振興プロジェクトチーム」について、特に読売新聞なんかが積極的に報じている印象だ。当初、私もこのプロジェクトについては気にしてみていたものの、今更というか、いまいち実効性に乏しいように感じていた。それについての報道も、やはり芯をくったものがあるようには思わなかった。
仲俣いわく、たとえば業界外のひとは、統計上の「雑誌」にはコミック単行本が含まれていることを知らない、といったことが往々にしてあるらしい(厳密には、一部「書籍扱い」のコミック単行本も存在するのが厄介なところなのだが)。これを知らないと、紙の雑誌の売上が落ちている、という統計をみて、ただ単純にmagazine的な雑誌が読まれなくなっている、という結論しか出てこない。実際には、コミック単行本について電子書籍での購入に比重が移っているという側面もある。それと併せて電子書籍の売上の推移を見ると、見えてくる景色は随分と変わってくるはずだ。データは数字だ。その数字を解釈するには、正しい知識が必要不可欠なのである。
出版危機言説を巡っては、どうしても、業界内の苦労譚や生き残り術といった内輪の話か、情報化社会によってメディアとしての本の地位が下がった、という大きな話ばかりが語られる印象だ。その点で、たとえば「原稿料」から出版の仕組みや枠組みを探ろうとする笠井のような視点は面白い。そもそもものを書いて、それを売る、という行為や生業とはなんなのか。改めて考えていく必要があるのだろう。
後者について。私は長年「書評」というもののあり方に疑問を持ってきた。講師の仲俣が参考として挙げた坪内祐三の言葉を借りれば「ポトラッチ」的な書評がどうにも目につくからである。褒めることを前提として書かれているように見えると、ああ、またこれかあ、と冷めてしまう。文庫の解説も同様。特にエンターテインメント系の小説の文庫ではしばしば、「本作はただのミステリ小説ではない。ここには家族の物語もあり、お仕事小説、社会派小説の要素も詰め込まれているのだ」的な文言が、全体の半ば頃に出てくるのだが、そんなの大体どの小説でも(とりわけ、ある程度売れている作品であれば)そうだろ、としか思えず、鼻白んでしまうことが多々あった。
だが、やはり書評は大事なんだ、との思いも強くしている。本を読んでもらうには、まずは知ってもらわなければならない。そのチャンネルとして、書評はいまなお重要な役割を担う一つの形だと思っている。だから自分でももうちょっと意識的に書いてみようと思った次第。一方で、私はどうにも「応援」という形を積極的に取ろうとは思えない。プレビューではなくレビューとしての書評を考えたい。
本講座では、ノンフィクション(小説以外のすべての本)について論じられた。本筋からは少し離れるが、「本」というと「小説」が代表される風潮がある(フィクション内で「本好き」のキャラクターが登場する際、その人物は大抵小説を読んでいる)。事実、書店の棚に占めるフィクションの割合は高い。だが、架空の人物や舞台を想像したうえでそれを自分で動かさなくてはならない小説は、やはりちょっと特殊な読み方を要求するものだと思う。『ドーナツと双眼鏡 短い書評コレクション③(ノンフィクション篇)』(破船房、2026年)についての書評でも書いたが、そんな小説を読もうとするから、本が読めないと悩むことになっている側面もあるのではないか。人は、もっと非小説=ノンフィクションに目を向けてみてもいいのかもしれない。
レコードを題材とした漫画を書き続けていた毛塚了一郎が、今年の5月下旬に逝去していたことが公表された。商業デビューは2021年。翌2022年の『音盤紀行』第1巻(KADOKAWA)が初の単行本ということで、遺した作品は決して多くない。私が調べた限り、商業向けの単行本は『音盤紀行』全3巻と、同人誌として出していた作品をまとめた『音街レコード』全2巻(KADOKAWA、2023年)の計5冊だ。棚から出してきてすべて読むまでに、それほど時間は掛からなかった。
だが、その作品に流れる時間の長さは広大だ。近代から近未来、場所も国、陸と海を問わず、果てには月まで。レコードというモノと、そこに刻まれた音楽によって織りなされる人間の物語には、なにか人と人との繫がりにおける根源的なものがあるような気がする。
でも新しい古いの境界なんてホントは無いんじゃないかな
だから昔の曲を聴いてもそれが途切れた世界じゃなくて
長い道が通っていて過去と今が繫がっているんだって実感できる気がするよ
(「音霊ドライブ 前編」『音街レコードB面』16〜17頁)
この「音霊ドライブ」が、自分が遺す(遺していく)レコードがテーマになっていることにハッとさせられた。人はいつか死ぬ。その時間はあまりにも短く、そして一人の身体でできることには限界がある。だから人は、そこにあるモノに自分の記憶や想いを託し、未来に繫ごうとするのかもしれない。あるいは音、あるいは匂い、あるいは色、あるいは絵や文字を、そこに伴って。
生きていた頃に伝えられたらってこと 私にもある
けど ひとりの身体と一生で伝えられることなんてほんの少しなのかもしれない
だから記録し遺し 受け継いでいくようなものが作られたんだって
今はそう感じる
(「輪奏紀行」『音盤紀行』3巻、209頁)
本もまた、レコードと同じく複製技術の産物だ。本についての語りは、ともすれば書き手や読者、内容といったソフトの面からの情緒的なものになりがちだ。しかし一方で、ハード面であり工業的な側面について、もっと論じていく必要があるのかもしれない。なぜ人は、こんなものを作ろうと思ったのか。そこに込められた想いや願望を、私は技術の側からもみたいと思っている。
レコードについて語るとき、なぜCDではないのか(毛塚はCDもCDで好きであったようだが)、配信サービスではだめなのか、という問いに直面せざるを得ない。同様に本についても、なぜ私たちは本を作り、そして本を読むのか、という根本的な部分に立ち戻り、そして広い視野で考えていく必要があるのだと思う。
私は一度、コミティアで毛塚了一郎が出しているブースに立ち寄ったことがある。「住処」というサークルだったと思う。いま手元には、そのとき買った2枚のポストカードと、最近買ったレコードについてレビューした紙一枚のコピー本がある。そこで紹介されているレコードはすべて、36歳で亡くなった彼にとっては自分が生まれるよりも前のものだ。文字とジャケットの絵が詰まった小さな紙から迸る熱が、改めて胸を打つ。
もっと毛塚の作品を読みたかった、という思いは、おそらくずっと拭えないだろう。それでも、確実に遺されたものが、ここにはある。彼が自分よりもずっと前からあるレコードを手繰ったように、10年後や20年後、あるいはもっと先の未来で、彼の作品に触れることもあるだろう。きっとそれは、とても幸せなことなんだと私は思いたい。
作品になにかを託す、という点では、かしのこおり『お父さんは私を描かない』(講談社、2026年)にも通底するものがある。
薬剤師として薬局に勤める浅黄すみれは、幼い頃に両親が離婚して母親のもとで育てられる。父親は海を好んで描くあまり売れない画家で、彼女は父の絵が好きだった。彼女は父に、自分のことも描いて欲しいと頼むが、人間を描くのは嫌いだという父は難色を示す。それでも駄々をこねるすみれに対し、父は「寂しくなった時 会いたい人を描くかな」と告げた。
父との別離から19年後、彼氏の浮気が発覚し、すみれは同僚に海につれてこられる。そこはかつて、父親と一緒に遊んだ海だった。そこでは、すみれそっくりの女の子の絵だけの展示がおこなわれていた。その作者の名前は父のものだった。
母から家の住所を聞いて、やはりこの町にあるその家を訪ねると、そこには父ではなく、例のすみれそっくりの女の子の絵を描く青年がいた。自分は父の生徒で、その展示の絵も、すべて自分が描いたものだと彼はいう。そして父と「大人になったすみれを描く」という約束をしているのだ、とも。そんな彼との出会いによって、すみれは父の想いを知っていくことになる。
父は前年に、事故によってこの世を去っていた。その現実を前に、「死んじゃってたら もう話できないじゃん」とすみれは零す。それは違った。遺された絵を通して親子は心を通わせた。だから最後、すみれは海の向こう側へ、父への言葉を叫ぶ。話はできたのだ。
そういえば、去年コミティアで買って面白かったので紹介した『トキウリウリコ』(末廣こぶ作)が、ウェブコミックレーベル・コミックブリーゼにて連載が開始された。
無料で読める第1話を読んだが、個人誌版と概ね同じではあるものの、若干の修整と、新規のコマ・頁の追加があった。それにより、主人公・ウリコの目的がよりはっきりした形となった。続きが楽しみである。
ウェブコミックはやや意識的に遠ざけてきたジャンルだ(読み始めると際限がないように思われるので)。ただ、例えばジャンプでも、週刊本誌よりもジャンプ+の方に面白い作品があるなんて話も聞く。様子を見つつ、ちょっと覗いてみてもいいのかもしれない。
(矢馬)


