2026年4月
時事問題には触れないと言ってきたが、いまの国際情勢を前にしてそれを貫くことができるのか、それが間違っていないのか、考え込まざるを得ない。
私は、世の中に戦争を起こさせないために本を造っていくだろう。そして、それだけの覚悟を持って造られた本を読んでいくだろう。(「いま本を造るということ これからの出版論のための覚書」)
これは、私が2020年に書いた文章の末尾に置かれた一節だ。新型コロナウイルスのパンデミックが始まったばかりの先行きが見えないなかで考え、書くなかで出てきた切実な言葉だった。だが、まさかそれからたった数年で、この言葉があまりにもダイレクトに響くものになるとは思ってもみなかった。世の中を見る目が甘かった。そう言わざるを得ない。まだ私は楽観的だったのだろう。
一度は失いかけた出版という営みに対する関心が、戻りつつある。電脳世界を介した人類のつながりというものにもはや信頼を置けなくなっているが、それでも人間はいまさらそれを捨てられないだろう。また、紙を中心とした出版がすべてを解決してくれるなんて大それた考えもない。私は出版を手放しで称賛する者ではない。それは、出版もまた人間が行うものだという現実から目を背けることに他ならない。
文字あるいはその結合である言語の表現は、人間が、その自然的・社会的環境を把握する仕方を示すものである。だから、それは人間社会そのものの代替物であると言える。人間社会が、真・善・美をもつのと同様に、言語表現または出版現象においても偽・悪・醜がある。(小尾俊人『出版と社会』幻戯書房、20頁)
だがそれゆえに出版を考えることは、とりもなおさず人間社会を、そして人間を見つめ直すことになる。そして現代は、良くか悪くか、ひとつの本のロットが小さくなり、本と読者のつながりも多様になってきている(その実、たった100年ほど前にはそれが普通で、近現代からのかなり規格化された状況が異例だったのかもしれないが)。であれば、ここになにか鍵があるのではないか。
そんな悠長なことをしている場合ではない、と言われれば、頷くほかない。正直、世界に対して諦めの感情が無いとは言えないことに対して、後ろめたさもある。もしかしたら私は自分勝手なのかもしれない。だがそれでも、6年前の自分の言葉を翻すつもりはない。この期に及んで、私はまだ出版を信じているらしい。そんな自分に気付き、ハッとさせられた。
出版への信頼を失わなかった一方で、ここ数年で強く疑うようになったものに「共感」がある。昨今頻繁に語られるような、「シンパシー」ではなく「エンパシー」が必要だ、ということではない(私はそもそもこの区別にあまり説得力を感じていない)。他人はどこまでいっても他人であり、その気持ちを十全に理解すること、あるいは自分の思いを理解させることは不可能だ、という前提が忘れられているか、軽く見られているように感じる。あるいは、お互いがお互いを思いやれば皆が分かり合えると思わなくてはならない、と恐れているかのようだ。
相互理解不可能な人間が、そのままでも上手くやっていける社会を考えるとき、不思議と私には、図書館や古書店の棚が思い浮かぶ。時代も背景もバラバラな本が、しかし本というひとつの定まった形をもって、本棚という空間にかなり平等に並べられている。私には到底理解できないような本がこんなにもある。その途方もない現実は、しかし私を慰めてもくれる。
一方で、最近の新刊書店を見て少し苦しくなるのは、その本から絶えず発せられる、理解してくれ、理解しよう、という声にある。特に現代社会では、それが数というものに還元されていくことになる。それはSNSなどのネット空間も同様だ。結局、集めた数の大きさで測られていく。その点において、私は個人出版に注目している。ブームではなく、日常の営みのなかの小さな出版行為が、世界は理解し得ない他人が集まって回っている、という当たり前のことを思い出させてくれるのではないか、と。
だから、これは私なりのひとつの抵抗なのだろう。これから少しずつ考えていくつもりだ。
話をいつもの調子に戻す。
今月は、ここ最近では珍しく読書が中心となった月だった。
きっかけのひとつは、先月末に読んだ仲俣暁生『鍵のかかった部屋はいかに解体されたか?』(破船房、2025年)だ。そこで取りあげられていたなかで、今月は特に米澤穂信と柴崎友香の作品を読んだ。
まずは米澤穂信。『鍵のかかった部屋は〜』で中心的に取りあげられていたのは『犬はどこだ』(創元推理文庫、2008年)だったのだが、積み本のなかにあると思っていたこの本が見つからず、とりあえず米澤作品のなかでも特に思い入れのある『さよなら妖精』を再読することにした。創元推理文庫版も持っているが、書き下ろし短篇「花冠の日」が収録されている、デビュー15周年を記念して刊行された東京創元社の単行本の方を引っ張り出してきた。
米澤穂信といえば「日常の謎」系のミステリで出発した印象のある作家だが、本作はその上で「世界」、具体的には旧ユーゴスラビアの紛争が大きな意味を持つ。私は米澤作品のすべてを読んでいるわけではないが、ジュブナイルの性格の強い「古典部」シリーズも含めて、けっこう後味の良くない作品もよく書く印象を持っている。
いま「良くない」と書いたが、最初は「悪い」と書いていた。だが、「悪い」と言ってしまうのはなにか違う気がした。決して嫌な気持ちになるわけではないのだ。なにかそれに代わる良い表現が出てこなかったので、「良くない」と少し曖昧な表現を使うしかなかった。
『さよなら妖精』は、まさにそんな作品だ。仄かな恋慕(本当はここでも恋と言いきりたくはないのだが、自分の語彙の乏しさにほとほと呆れる)も漂うボーイ・ミーツ・ガールであるが、その結末はあまりにも苦い。初読時にも打ちのめされて感じた無力感は、今回においても少しも減じることはなかった。
いや、主人公・守屋の友人である文原のこんな台詞が、以前よりも強く私には響いた。
俺は、自分の手の届く範囲の外に関わるのは噓だと思ってるんだ(185頁)
「手、暗喩か」と問う守屋に、「いや、そのままの意味だよ。結局は身体だ」と返す。
一介の高校生が関わるにはあまりにも重すぎるものを背負っているマーヤに関わろうとのめり込む守屋に対して、あまりにも冷酷な一言だろう。文原の考えが絶対に正しいと言う気もない。だが、何か間違ったわけではなく、「なにを望んでも、どう動いても」変えられなかった悲劇をまえに、「自責さえ許されない」守屋たちの無力感を見ると、彼の言葉をドライの一言で切り捨てることはできない。謎を解くことによって、本質的な意味で、本当に人は人を救うことができるのか。
とりあえずここでは小説に限るが、優れた小説は往々にして、己のジャンルへの批評性を含むメタジャンル小説の性格を持つ。米澤穂信はミステリ作家といって差し支えないだろうが、その作品はしばしばミステリという枠組みや特質を問う。「謎を解く」ということの持つ意味、あるいは「探偵」という立場が孕む危うさ。それはたとえば、求められている「探偵」としての役割を忠実に演じたが故に、結果としてそこにあった事実をねじ曲げて「より良い」ストーリーを作ってしまった『愚者のエンドロール』にも見られるように、米澤作品の根底に流れるテーマであるように思う。ミステリ小説をあまり好まない私が、それでも米澤穂信の作品はいくつか手に取っているのは、きっとここに要因がある。
それで、結局見つけられずに新たに買った『犬はどこだ』だが、これも私比では一気に読んでしまった。これについては近いうちに再読してからいろいろ考えたい。これもまた、一筋縄ではいかない読後感を残す作品だ。
次に読んだのが、柴崎友香『帰れない探偵』(講談社、2025年)。ある日突然、探偵事務所兼自宅の部屋に帰れなくなった「世界探偵委員会連盟」に所属する「わたし」、という設定からして惹かれるが、この「帰れない」には部屋だけではなく、疫病禍を契機とした体制の変化によって入国できなくなった祖国も重ねられている。探偵とは、得てしてアウトサイダーだ(『鍵のかかった部屋は〜』では「共同体に属さない者」と定義されている)。余談も余談だが、そういえば、大正時代の東京を舞台にした『さくらの雲*スカアレットの恋』(我ながらしつこいと感じるが、この作品については今後も折に触れて言及することになってしまうと思われる)では、ヒロインと主人公のふたりの「探偵」がいたが、ヒロインはイギリス人であり、主人公は100年後の日本からタイムトリップした未来人だった。
閑話休題。そんな特徴を活かし、「帰れない」者のひとつの形として「探偵」を描いたこの不思議な探偵小説は、やはりメタ〈探偵小説〉小説となっている。そこに疫病禍などの現代的テーマを嫌味なく盛り込む手管はさすがだ。こういうのを「上手い」小説と言うのだと思う。私はこの作家の『春の庭』に、当時かなりの感銘を受けた記憶がある。合わせて読んでみようと思った次第だ。
『鍵のかかった部屋は〜』で取りあげられていたのは他に、宮部みゆきと堀江敏幸だった。そのうち、堀江敏幸については、作家デビュー30周年を記念して、白水Uブックスから「堀江敏幸コレクション」の刊行が始まった。その第一弾『魔法の石板 ジョルジュ・ペロスの方へ』(2026年)は、作家論とも評伝とも言い表せない文章だ。
自立した作品とはべつに、どうでもいいような書き手の私生活の細部に触れてわからなかった部分がとつぜん腑に落ちたり、意外な横顔につまずいて作品のイメージが崩れたりすることは、しばしばある。それも読者の特権であり楽しみのひとつだと言えば、なるほどそう言えなくもない。しかし、明確な意図に立って資料を収集し、論述の筋をととのえていくという、評伝だの論考だのさまざまな名称が用意されているあの煩雑な作業とどうしても折り合いがつかない書き手の作品を、味わい、内側から生きる【傍点3字】のではなく、書き手自身が拒否したやり方でなぞろうとするのは、一種の犯罪である。(92頁)
私はペロスの「伝記」を書こうとしているわけではない。「批評」を試みているわけでもない。自分がなぜこの作家に惹かれるのかを、自分のために確認しようとしているだけのことだ。(93頁)
いちおう、本書の紹介では「長篇エッセイ」とされている。だが、いわゆる「エッセイ」かと言われると、即座には頷けない。元から、「小説家」といった肩書きを自分に当てはめることに違和を持ち、「作家」などの名称を使う書き手だ。その作品も、明確なジャンルで言い表すことが難しいものばかりだ。
私は決して、ジャンル意識を否定したいのではない。だが、なにかジャンルに当てはめられたとき、その内部で最大公約数的な把握がなされて、その個々の作品にある何かに目を向けれらることがなくなってしまうといったこともあるのではないか、とはいつも思っている。あるカテゴリーに包括して前提を共有することで認識への障壁は下がるが、ともすればそのとき、各々の作品はやはり本質的には完璧に理解し合えないものである、という現実が覆い隠される。
本書は読みさしなので引き続き5月も読んでいこうと思うし、仲俣暁生の短い書評を集めた『栞と羅針盤 短い書評コレクション①(国内小説篇)』(破船房、2026年)で紹介されていたなかにも、気になる小説があった。実際に読めるかどうかは別にして、読むものには当分困らない。
コロナ禍を経たなかで改めて「観光」を問い直そうと各地の観光地を取材した橋本倫史『観光地ぶらり』(太田出版、2024年)も良かった。橋本の作品はけっこう好きで、全国のドライブインを取材した『ドライブイン探訪』や、東京の古書店に密着取材した『東京の古本屋』では、その読み込む資料の量や質に圧倒される。そのテーマ周りで話題となっている本をなぞり、場合によってはインターネットですぐに調べられるようなSNSの投稿なんかを使って論拠を組み立てているような本もよく見るようになったが、橋本の文章はそれとは対極だ。ドライブインでも古書店でも観光地でも、まずはその土地であり、その歴史を調べるところから始まる。かなりマイナーと思われるタウン誌や業界紙にまで及ぶこともある。だから、地に足がついている。それでいて、けっしてそこでの発見を誇る筆致ではない。嫌味がないのだ。
橋本の作品は好きなのだが、同時に落ち込む。いかに自分が手を抜いているのかを痛感するからだ。今回もそうだった。しかしながら、まだ自分はここで落ち込むことができるのだ、と確認できたのは良かった。まあ僕にはここまでできないよ、なんて開き直れるのならば、ものを書くのなんてやめても差し支えないだろう。
東京堂書店の元店長、佐野衛の文章集『書店の棚 本の気配』(亜紀書房、2012年)を再読。いずれまとめる出版論のための参考として読んだ。頷かされる文章が多々あるが、ここでは一点だけ。
出版社も一度話題作を出版した著者に集中する。(中略)ひとりの研究者が一年に一〇点以上も出版できるとすれば、内容が似たようなものか希薄になったものにならざるを得なくなる。(93頁)
なにかが形成される前に泡のようにはじけてしまう。泡のような本が市場に氾濫しているのではないかと思うことがしばしばある。若い研究者からに(ママ)ベストセラーが出ると、その研究者に出版社は次から次にと著作を依頼する。それでは、落ち着いた研究もできないままに歳を重ねてしまうだけだ。まだまだ研究する時間が必要です、という態度が大切なことだとも思う。(144頁)
具体的に誰が、といったことではないが、現在でもこの状況は変わっていないな、と嘆息する。原材料、燃料費の高騰で本そのものを作ることが難しくなっている、と言われているが、併せて考えるべきは、本当にこれだけの本が必要なのか、ということではないか。
現在が抜き差しならない状況であることは重々承知しているが、一方で、思考には相応の時間が必要だ。この矛盾のなかでどう生きていくのかを自分に問う。
今月は、5月頭に刊行する2025年の読書日記を文字通り作る時間が多かった。ひたすら紙を折り、数え、重ね、整え、綴じる、といった作業は、やはり単調でどうしても飽きがくる。そのとき、製本のためのヘラの形を整えるためひたすらヤスリがけをする際に30分アニメを観ながらやっていた、という友人の話を思い出し、さっそくタブレットを開いた。
U-NEXTをざっと眺めて適当に選んだ『サイレント・ウィッチ 沈黙の魔女の隠しごと』(2025年)だったが、これが結構面白くて、お陰で作業の時間が苦ではなかった。
主人公のモニカは、極度の人見知りだ。そのために人前で魔術の詠唱もできなかった彼女は、独学の末に無詠唱魔術を会得する。これはこの世界で彼女しか使えないものであった。その実力が評価され、史上最年少の15歳で、王国における最高峰の魔術師・七賢人のひとりにも選ばれる。「沈黙の魔女」の二つ名を持ち、数字、数式については滅法強い、紛れもない天才である。
17歳となった彼女は、人との関わりを断つように人里離れた山小屋でひとり、大好きな数式と魔術の本に囲まれて生きていた。そんなある日、第二王子を護衛する任務を押し付けられ、正体を隠し、王子が通う学園へと潜入することになる。
モニカがここまでの人見知りとなったのには、その過去が関係している。彼女の父は多くの書を著してもいる学者で、人間を人間たらしめる数式を解析して、多くの病に苦しむ人間を救おうとしていた。モニカはそんな父と、その仕事が大好きだった。だが、(少なくともアニメで描かれている範囲では)なんらかの出来事により、おそらく父は異端者かなにかとして彼女の前で火あぶりによって処刑され、父の書いた本は禁書となり、民衆の手でその炎に投げ込まれた。
娘であるモニカにもその汚名は着せられ、一度は親戚に引き取られたものの、そこでは父のせいで自分たちも白い目で見られていると虐待を受け、心身を傷つけられた。どんなに叫んでも自分の声は届かないし、父の残したものの価値について語ることも許されない。
その後、一度は学園でかけがえのない友人を得た。彼は優秀な生徒であり、モニカは彼を頼りにしていた。だが彼女が七賢人となったことで、彼は絶望的なまでの彼我の差を突きつけられ、それをうまく処理できなかった。「自分の方がずっと才能があるのに頼ったりして、本当は心のなかで僕のことを馬鹿にしていたのでしょう」。自分が立派になれば、彼にとっても自慢の友人となり、隣に並ぶことができる。彼のあまりにも冷酷な拒絶を前に、そんな純な思いは伝わらなかった。
彼女の声は、いつも届かない。だから、その口を閉ざしてしまったのだ。
そんな彼女が、偽りの学園生活のなかで多くの人と関わり、その優しさに触れるなかで成長していく。本作はそんな、王道のジュブナイルの趣のある作品だ。
最終話、すべて焼かれたはずの父の本を、第二王子に連れてこられた古書店の棚に見つける。この本を求めるモニカに店主は、それは友人が残した本であるから安値をつける気はない、と言い、普通だったら何年も働いてようやく稼げるくらいの、しばらくは働かずに暮らせる額を提示する。本当はそれだけの蓄えがあるモニカだが、正体を隠すなか、第二王子の前でそれだけの金をおいそれと出すわけにはいかない。そのとき、第二王子はその代金を自分の懐から出す。そして言う。「僕にはその本の価値がわからないけれど、君にとってはそれだけの価値があるのだろう」。
だれも聞いてくれず、わかってももらえず、口にすることすらできなかった自分の思いを認めてくれた。そのことに彼女は涙を流す。ここでは、「理解する」ではなく「認める」という言葉が使われている。喩えるなら、「君がそれほどまでに入れ込むのだから、きっと価値のあるものなのだろう」と「僕にはわからないけれど、君にとっては大切なものなんだよね」との違いか。些細なことかもしれないが、いまの私には決して小さくない意味を持つ。そして、その言葉、感情のやりとりが本を介してなされていることを、私は、贔屓目かもしれないが、やはり美しいと思ってしまう。本はその声を、その存在を残してくれる。
結局、私は本に帰ってきた。一定の距離を置こうと思っていたのに。こうなっては仕方ない。とことんこの問題に向き合っていこう。
そう簡単に答えは出ないだろう。それでも良い。この10年ほどで私が成長したことと言えば、多少、往生際が悪くなったことくらいなのだから。
(矢馬)