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習作としての読書ノート 『シュレーディンガーの猫を追って』第2回

 

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第2回

 

 第一部に入っていく。第一章「むかしむかし、二度あったこと」。

 むかしむかし。子どものころを思い出す。おとぎ話のはじまりはいつもこれだった。まさか、この小説は童話になっていくのだろうか。とにかく読み進めよう。

 シュレーディンガーの猫。それは、古典物理学と重力の法則におけるニュートンの林檎のようなものだ。量子力学とその法則において、シュレーディンガーの猫は同じような役割を果たしている。つまり、素人向けの寓話、結局は理解できない事柄を、何とか説明しようとするもの。いわば、ひとつの小説、一篇の詩だ。(10頁)

 「シュレーディンガーの猫」を「寓話」「小説」「一篇の詩」と呼んだひとは、あまりいないように思われる。しかし、言われてみればたしかにそうだ。あれはあくまで思考実験なのであって、シュレーディンガーが実際にこの実験をおこない、生きていて、同時に死んでいる猫を生み出したわけではない(はず)。空想上のもの。となれば、たしかに創作といったいなにが異なるのか。

 そして、ニュートンの林檎、これはつまり、ニュートンが木から林檎の実が落ちるのを見て万有引力の法則に気づいた、という逸話のことだろう、これと同じだと言う。ニュートンの林檎についても、実話なのか伝説なのか、見解が分かれているそうだ。まあ、あれもたしかにできすぎた話のようにも思われる。が、ここではどちらでもいい。たぶん、フォレストもそう思っているのではないか。虚と実を峻別することにこだわる人間は、暗闇に、いるかいないかもわからない黒猫を探そうとはしないだろう。

 ところで、ニュートンは大変な猫好きだったそうだ。ここでもまた猫か。

 ニュートンの時代、猫をペットとして飼う習慣は、イギリスにはまだなかったという。船乗りが、船を囓ってしまうネズミを捕る動物として猫を重宝していた、という話は聞いたことがあるが、これはペット、愛玩の対象としてとは異なる。

 ニュートンが飼っていた二匹の猫は、いまの猫とやっぱり同じで、家のなかにとどまらず外にも出ていた。そして、外に出ていた猫が家に戻ってきてドアを開けることを催促すると、たとえ執筆中でも、ニュートンはドアを開けに立った、という。

 そんなニュートンが発明した、と言われるのは、キャットフラップ、いまでいうキャットドアだ。あの、ドアの下の方につける、窓が振り子のように動いて、ドアが閉まっていても猫が自由に出入りできるようにする、あれだ。ここでも猫は、内と外の境をくずす。ニュートンは、大きさの異なる二匹の猫のために、それぞれのからだに合わせ、大きい方には大きい扉を、小さい方には小さい扉をつくってあげた。しかし、なぜか二匹とも大きい方の扉しか使わない。こればかりは、ニュートンにも理由が分からなかったらしい。

『作家の猫』(平凡社、2006年6月)という本がある。コロナ・ブックス編集部の手によるもので、雑誌『太陽』の特集を再編集したものだ。夏目漱石、寺田寅彦などをはじめとして、南方熊楠、コレット、ヘミングウェイ、藤田嗣治など、さまざまな作家の猫にまつわるエピソードを、多くの写真を交えながらまとめている。裏表紙(厳密にはカバーの右側)には室生犀星と、火鉢に手を掛けて温まる飼い猫ジイノの写真が使われている。室生犀星といえば、以前、二階堂ふみ主演で『蜜のあわれ』が映画化された。そのとき、室生犀星を思わせる作家のおじさん役を、少し前に惜しくも亡くなった大杉漣が演じている。このカバーの室生犀星の笑顔が、『蜜のあわれ』での大杉漣を彷彿とさせるのだ。これには驚いた。いや、よくよく考えたら逆で、『蜜のあわれ』の大杉漣が、実際の室生犀星を彷彿とさせるのだが。改めて、惜しい人を亡くしたものだと思う。この本は、作家と猫のおかしなエピソードが数多く紹介され、それだけではなく写真には、茶目っ気のあるキャプションが付されていて、至るところでくすっと笑ってしまう、とてもおもしろい本だ。どこもおもしろいのだが、猫嫌いから猫好きになった寺田寅彦の少しずれた猫のかわいがり方や、実は猫好きで、道で猫を見ると必ず立ち止まって眺めていたという三島由紀夫の話なんかが、非常に愛らしい。

 思わず猫に熱くなってしまった。

 というのも、『シュレーディンガーの猫を追って』はこの先しばし、「シュレーディンガーの猫」を巡る論争を解説しはじめるのだ。正直、感想に困る。とはいえ、難しすぎるわけではなく、順を追えばなんとか理解はできる。ざっくりならば、当初の私の解釈と大きく外れてはいない。というか、前回、私はウィキペディアをちょっと覗いたのだった。そこでの説明を、もうちょっと丁寧にしてくれているのがこの箇所だ、と考えてもよいだろう。

 ここで、大きく行が空いてから。

 少なくとも、これがわたしの理解だ。

 

 あるいは、理解したつもりのものだ。(16頁)

 「わたしの理解」、「理解したつもりのもの」。小説的語りに戻ってきた。

 だが、記述の正確さはまったく保証はできない。現代物理学の諸原則に関する発表の締めくくりとして、発表者が聴衆に投げかける有名な言葉はみなさんもごぞんじだろう。「もしわたしの話が明快だったとすれば、それはわたしの説明がまずかったからです」(同)

 いや、全然知らない。が、それは措くとして。ここにはふたつの意味があるだろう。

 ひとつは、フォレストの説明はまあまあわかりやすい。つまり、フォレストの説明が「まずかった」のだ。冒頭で科学者たちに謝ったのは、そういうことからだろう。あなた方の専門領域のテーマについてまずい説明をしてしまい、すいません、と。

 ふたつ。現代物理学の専門家の話は、正直よく分からなかった。そんな苦労を吐露しているのかもしれない。実際、その直後で「量子力学は実験と方程式を基盤として展開しているが、科学に精通していない人びとにとっては、その初歩すら覚束ない。」と断言している。

 フォレストの筆はここから存在論、哲学、あげくアリストテレスまで思い出していくのだが、「しかし、無残に迷走する前に、このあたりで止めよう。」と宣言して、袋小路に陥りそうな思考の迷路をいったん断ち切る。そして、このようにまとめる。

 すべては、決まって同じ議論が交わされる枠のなかで繰り広げられている。果たして現実世界は、意識が作りあげるその表象をこえて存在するのか、もし存在するならどんなかたちなのか。要するに、議論の主題は、現実世界の実存をめぐるこの解決不可能な唯一の問題だ。(18頁)

 難しそうな問題だ。胡蝶の夢という言葉を思い出す。いま自分がいるのが、夢なのか現実なのか、わからないような状況。考えたことはないだろうか。自分がいる、いま・ここの世界とは別の世界がどこかにあって、並行して動いているのではないか。いや、そもそも、自分の世界が絶対だと思っているけれど、じつはこの世界は、べつの世界の誰かが観ている夢なのではないか、なんて。

 突拍子もない妄想だろうか。しかし、いま自分のいる世界が唯一の世界である、なんて、いったいどう証明すればいいのだろう。「ない」ことの証明。これは悪魔の証明と呼ばれるもので、非常に困難なものである。「ある」ことの証明がひとつの実例を発見すればよいのに対し、すべての可能性を潰さねば証明できたことにならないからだ。あろうがなかろうが、いや、ないことを確信していようが、暗闇に黒猫を探さねばならない。すべての場所を歩けばいいのか。しかし、そのあいだに一匹だけの黒猫が足音を立てずに移動している可能性がある。

 さまざまなおとぎ話。それらが現実に対して及ぼす影響は同じではないが、いずれも現実を説明しようとしながら、決定的な手がかりをもたらしはしない。おそらく、唯一の智慧ある態度は、現実を説明しようとしてはならないと認めることだろう。(19頁)

 実際には「現実を説明しよう」とするひとがたくさんいる。ところで、私は中学生くらいまで、自分の言うことに「ぜったい」をかぶせていた節がある。「ぜったい」そこに置いた。「ぜったい」言った。「ぜったい」正しい。ある時期から、それこそ「絶対」の確信がない限り、断言を避けるようになった。作法的にはあまりよくないのかもしれないが、論文のような文章ですら、「〜と思われる」「〜ではないだろうか」と、推定か疑問の調子を使いがちだ。なぜか。これは感覚的にこうなってしまった、としか言いようがないのだが、唯一絶対の現実、というものを疑っている結果なのかもしれない。 

 すべては「かのように」起きる。言えるのはこれだけだ。(20頁)

  重ね合いが起きている「かのように」ある世界。「むかしむかし」で始まるおとぎ話を、実際の出来事だと思うひとはいないだろう。しかし、本当にそうだろうか? 「むかしむかし」に本当にあったこと、「二度あった」ということはあり得るのではないか。

物語を信じる誰かがいるかぎり、同じひとつの昔話が、つねに変わらない夜闇のなかで果てしなく増殖してゆく。昔話に寄せる信頼は、永遠の複数性を備えたあらゆる可能態が至るところに分散してゆくために必要なものだ。(同)

  その直後で、ニールス・ボーアの逸話が語られる。「量子物理学の育ての親」らしいボーアの家には、馬の蹄鉄がお守りとして飾られていた。馬の蹄鉄をお守りにする風習は、私も聞いたことがある。しかし、ボーアは科学者だ。科学者は実証を重んじるはずだ。だから、それを見た弟子は、あなたがそんな迷信を信じるなんておかしい、と責める。このときボーアは、自分はこの迷信を信じてはいないが、しかし「信じてなくても効き目があるらしい」と答えたという。

 こういうことだろうか。信じようが信じまいが、良いことが起きるときには起きる。良いことが起きたときには、蹄鉄にはお守りとして効き目があった、ということになる。となると、蹄鉄には常にお守りになる可能性が秘められている、と考えることもできるのかもしれない。馬の蹄鉄がお守りになる、という物語に託した、と言えるだろうか。

 フォレストは、この章をこのように締めくくる。

 いわば一篇の詩、ひとつの小説だ。ひとはそれをほんとうには信じないままに、自分の運を試すつもりで、そこに考えを託す。寓話がもつ悠久の力に身をまかせ、いくつにも枝分かれする時間の小道をどこでもない場所へとむかって進む一匹の猫の冒険を、虚空のなかに辿るのだ。(21頁)

 「シュレーディンガーの猫」がそうであるように、『シュレーディンガーの猫を追って』も「一篇の詩」であり、「ひとつの小説」であるはずだ。

 猫の冒険を辿っていった先に、いったいなにを見つけるのか。物語は第二章に続いていく。まだまだ序盤。先は長い。

(第3回に続く)

 

参考文献

長谷川眞理子『科学の目 科学のこころ』岩波新書、1999年7月

 

(宵野)