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習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第9回

 

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 第9回

 

 芸能人やスポーツ選手の生い立ちを、再現ドラマを交えながら描く。そんなバラエティ番組を観たことがあるだろうか。複雑な家庭環境、苦しい生活、恩師との出会い、仲間との再会、そしてつかみ取る成功……。そのとき、司会や雛壇の芸能人、あるいはいっしょに視聴しているひとが、「こういうひとにはやっぱりドラマがあるんだねえ」と感嘆する場面を、しばしば目にする。

 たしかに劇的だ。現在の彼らの成功は、運命であったかのように思われてくる。しかし、そこにドラマがあるのは言ってしまえば当然だ。なぜなら、ドラマになるように出来事を結び、組み立てているのだから。時系列に場面を追っていると、あたかもそれが積み重なって、最新の現在につながっているように感じられる。だが、それはちょっと違う。すべて現在からの演繹で成り立っている。成立順としては、むしろ現在が最初なのだ。だから、いまの成功に関係がない「らしい」出来事には言及されず、省略される。これは物語を作る手法だ。それゆえ、そこに物語があるのは当然だ。なにせ、最初から物語を作っているのだから。

 

 あの猫の登場を「最初のとき」と記したフォレストも、このようなことをしっかり意識していたらしい。

 いまわたしが語っている物語は、すでに話した「最初のとき」とともに始まっていた。何かが、猫のかたちをして、庭の奥に現れたときのことだ。でも、わたしにはよくわかっていた。この「最初のとき」は、実際にはそうした始まりのひとつではなかった。そう呼ぶようになったのはずっと後になってからだ。その瞬間につづいていろいろな出来事が起きたために、そこから何かが始まったかのように考えるようになったのだ。つまりわたしは、あとにつづいた事柄に意味を与えるために、その始まりをすっかり提造していたのかもしれない。 (57頁、「猫のかたちをして」には傍点)

  そう、それを「最初のとき」と呼ぶようになったのは、それよりもずっとあとのこと。順番としては、いまがあってからの「最初のとき」なのだ。これはもっと一般的な物事に敷衍すると、原因と結果というものがある。おそらく多くの人が、原因があってから結果が生じる、と思っているが、しかし、そうとは言い切れない。結果となる出来事があって始めて、あるものを原因たらしめるからだ。

 そして、これは物語についても言える。ひとつ例を挙げると、物語には伏線というものがある。そのときにはなんでもないような情報が、実は物語終盤での大きな出来事のほのめかしになっている、そういうもののことだ。これも、それを回収する場面があってこそ伏線になるのであって、単独では伏線にはなれない。ただのなくてもいい描写になってしまう。もちろん、そういう場面があったっていいのではないか、と私は思うが、短篇小説となってくると、事情は変わってくるかもしれない。だから、短篇の名手であるチェーホフは、無駄なものを出さないよう意識していた。有名な「チェーホフの銃」である。物語で出てきた銃は、必ず撃たれなければならない。そうでなければ銃を出してはいけない。物語にはこういった、システマティックな側面もある。だから、もしそれが物語となっているのなら、現実そのままではないのである。現実をそのまま描けば、9割以上が無駄な描写になるだろうから。

 もっといえば、基本的に物語には終わりがあることが約束されている。受け手は、その終わりを予感しながら物語を追っていく。言ってしまえば、終わりありきなのだ。

 そういうわけで、表面的にはどれほど逆説に見えたとしても、始まりからスタートする物語はひとつもない。あとになってから、そうだったという振りをするだけだ。「むかしむかし」と口にして過去のある瞬間を指し示し、あとにつづくすべてがそこから演繹されると考える。ただし、原因が結果を作りあげるのと同じように、結果がその原因を作りあげる場合はべつだ。ひとつの出来事を観察しはじめる瞬間が訪れて初めて、その起源を探し求めることが可能になる——あるいはその必要さえ生じる——のであって、そこからひとは時間の流れを遡り、必然的にそれを逆方向にたどってゆくのだ。(58、9頁) 

  いま「わたし」がやっているのは、いまという場所から「無からなにかが生まれる瞬間」まさに始まりのときを見つめようとすることだ。形をもたない暗闇の微粒子が黒猫という形となって「わたし」のまえに現れる。まさにその瞬間を見つめている。かつて娘と語ったかもしれない、始まりのとき。

 そんな「わたし」は、「つまり「最初のとき」などない」と言い切る。そして、物語と人生との決定的な違いについてこう述べる。

 もちろん、物語と思えば、あらゆる素材を使って思いのままに話を作ることができる。だが、何をしたところで、物語は他の物語と同じ形式になる。始まり、中間、終わり。ひとつの意味があり、方向がある。誰もがそこに行きつくのだ。

(…)

 しかし、人生には、始まりも終わりもない。ときとして、物事は始まりによって締めくくられる。だとすれば、終わりから始まったとしても、あるいは中間からだとしても、もはや驚きではない。どんな瞬間も、他の瞬間に取って代わることができる。与えられた出来事をめぐっては、物語を自由に始めて終えることができる。好みのままに話を広げたり、たったひとつの場面(ある晩腕、庭にいる猫)に収まるように縮小することもできる。物語を引き延ばすことで、つねに時間を舞台として演じられ、表象されるすべてのものをそこに含ませることもできるのだ。もし望むなら、世界が虚無から生まれ出た想像もつかない瞬間から、同じように想像もつかない、世界がそこに回帰するだろう瞬間までを含ませるところまでだってゆけるのだ。 (62、3頁)

  きっと、この言葉にはひとつの言葉が隠されている。すなわち、娘が生きているもうひとつの世界、その世界を目にする瞬間、が。

(第10回に続く)

 

(宵野)