久しぶりに小説のスケールの大きさ、作者の構想力に驚かされた。『三体』は地球往事(あるいは三体)三部作の第一作目であり、このシリーズは現地中国ではベストセラーSFの一つだという。大まかな内容としては人類が地球外生命体である三体*1人と接触し、彼らから侵略を受けつつある姿が描かれている。受けつつあるという微妙な言葉を用いたのは、地球と三体が約四光年離れているので三体人の先進技術を用いても彼ら自身の来襲に数百年かかるからである。科学技術には疎い私のような人間にもスリルがあって、エンターテインメント*2として十分に楽しめる作品である。主人公と言ってよい現代の中国人科学者汪淼(世界規模の話でも、自国人が活躍するのはどの国の作品でもお約束である。))が次々と奇怪な出来事に遭遇し、やがてそれが三体人の地球侵略の一環であることが明かされていく語り口は一種のサスペンスアクションとでも言えばいいのだろうか。例えば、カウントダウンや宇宙背景放射の全体的な揺らぎのくだりはその最たるものと言っていいだろう。事前に説明すると興が覚めるので、実際に読んで確かめてもらいたい。ところどころで技術的な意味が十分に理解できない描写に遭遇したことは白状しなければならないが、全体としての読解には大きな影響がなかった。
四百ページを超す長い小説だし(とはいっても読みやすいのですぐに読み終わるとは思う)、細かいところまで説明している余裕はない。私がもっとも興味をひかれたのは人類を裏切り、三体人の地球侵略に協力する地球三体協会という奇妙な組織の存在であり、単なるエイリアンの地球侵略ものにはない深みを作品に与えている。そもそも人類で初めて三体人に接触したのは中国人女性科学者、葉文潔であった。彼女の人生には文化大革命(文革)が暗い影を落としている。物理学者である父親の葉哲泰が時流に迎合せずに紅衛兵から徹底的な迫害を受け、最後には命を落としたからである。同じく物理学者である彼の妻、つまり文潔の母親は一方で保身や出世のために文革推進派に加わっていた。冒頭で描かれる哲泰が紅衛兵と妻に糾弾される場面は、政治運動の狂気とその滑稽さ*3をせつせつと訴えかけている。
例えば妻の発言を引いてみよう。
同志たち、革命の若い闘志たち、革命の教職員たち。われわれはアインシュタイン相対性理論の反動的な本質をしっかり見極めなければなりません。その本質は、一般相対性理論にもっともはっきりと現れています。反動的相対性理論が提案する静止宇宙モデルは、物質の運動の本性を否定し、弁証法に反するものです! それは、宇宙に限界があるとみなす、完全なる反動的唯心論なのです。(十五ページ)
これらの哲泰を反動分子と決めつけ、欧米の物理学を資本主義的と見なす糾弾と対照的に彼は(当時の)科学的に不確定なことは断言を避けつつ、反論を展開するのが印象的である。断言が多すぎる文章や人間は信頼ができないものであるが、一方で政治的にしばしば乱用されることからも分かるように、断言の人を動かす力を侮っていはいけないだろう。引用した文章は確かに馬鹿げているが、これに勝るとも劣らないような馬鹿げたロジックでしばしば政治的迫害は行われてきたのだから。留保なしの言葉を人々を求めているのである。確かに、「AはBである場合もあるし、そうでない場合もある。」あるいは「AはBではあるかもしれないし、そうでないかもしれない」といった言い淀んだ文章はあまり美しいものではない。AはBであるという単純な明快な文章こそが心を動かすのだ。もっと言ってしまえば、人の心に訴えかける文章というものは政治的なプロパガンダと紙一重なのかもしれない。美しい物語や痛快な物語がたいてい空想や、現実の歪曲の産物であるように。現実とはもっと醜くて、複雑で、つまらないものではないのか。
横道が長くなった。父が迫害で死んだ後、彼女は(おそらく反動分子の娘として他に選択肢がなく)内モンゴルでの開拓団に加わっていた。やがて政治的な問題を起こした知人から罪をなすりつけられた彼女は、免罪の条件として軍の極秘任務に従事することになる。天体物理学を大学で専攻していた経験を買われたためであるが、任務の全容は当初政治的に問題がある彼女に知らされることはなかった。
それにしても現代中国史の知識がなかったり、あるいは興味がなかったりする方には面食らう始まり方である。とはいえ五十ページほどで文潔を主人公にした文革期の政治的な場面は終わり、汪淼を主人公とする現代へと切り替わるので安心していただきたい*4。ただ文革期の苛烈な弾圧、あるいは紅衛兵の暴走を少しでも知っていたほうが、冒頭部分の迫力は増して見える。多少ではあるが文革のことを知っている私自身、文潔の絶望がより切実に理解できている気がする。そして文革の凄惨さは人類がこのまま存続する価値があるのかというこの小説に通底する問題にも当然関わっているであろう。『三体』を読みたいが、文革は言葉すら知らないという人は概説書のつまみ読みレベルでいいので調べたほうがいい気はする。
話を戻そう。やがて彼女は極秘任務の真の目的が異星人探査であることをついに知る*5ことになる。その後彼女は個人的に異星人、三体星人との交信に成功するが、受信したメッセージは恐ろしいものであった。三体星人は異星への侵略を企んでいる、場所が特定されるので応答をするなというものであったのだ。とはいえ、この警告は人類に絶望している文潔にとっては渡りに船というべきものであり、より高度な異星文明によって人類を矯正するためにためらわず応答ボタンを押したのである。ちなみに地球と三体との距離は前述のとおり、約四光年離れているので、行きで四年、帰りで四年、交信には計八年かかっている。この歴史的な、そして秘密裏な交信を彼女が初めて明かした相手エヴァンズは極めてユニークな人物である。大富豪の子息であり熱心な環境保護運動家である、彼もまた同じく人類に絶望していたのであるが、彼はさらに過激である。
「あんたらはどうしてそうなんだ?」エヴァンズはとつぜん怒りをあらわにした。人間の命を救うことだけが重要なのか? ほかのものを救うことは小さなことなのか? だれが人類にそんな偉い地位を与えた? いや、人間には救いなんか必要ないんだ。人間はすでに、分不相応に良い生活を送っているんだから。(三三六ページ)
いわばアニマルライツの熱烈な保護者とでも言えばいいだろうか。あるいはヴィーガンとでも。最近、力を増しているこれらの政治的思想も当然この作品に影響を与えているだろう。そして動物に人類と同様の権利があると考えるのならば、動物を救うために人類を滅ぼすという結論に至ることは自然であろう。人類が他の動物種を日々殺している以上、それは一種の正当防衛に他ならないからである。もっとも三体人が動物を滅ぼさないという保証はどこにもないので、エヴァンズの行動は単に人類に対する怒りを爆発させているだけのような気もする。いわば、見知らぬ強盗よりも家族のほうが憎いとでも言うべきか。物語の筋に戻ると、彼は豊富な資金力を生かし地球三体協会を設立し、彼女を協会の精神的なトップに任命する。一方で、三体人の侵略を招くことで人類を滅亡することを文潔には秘密で画策していたのである。
私が興味のある部分をとうとうと書いたので、いかにも思想的な小説という印象を受けたかもしれない。無論そういう面はあるが、冒頭で書いたようにストーリーを楽しむことも十分できる*6ので、安心して読んでほしい。インテリ科学者汪とコンビを組む、乱暴者だが有能な警察官史強もキャラが立っていて見どころである。
最後になるが、『三体』は三部作の第一作目であり、まだまだ物語は序盤というべきである。残り二つが邦訳される日を楽しみに待ちたい。
以下、作者のインタビューが無料で読める。
以下は中国出身の作者ケン•リュウによるSF短編集の書評。またケン•リュウ編訳の『折りたたみ北京』の中には『三体』の一部分を改稿した短編「円」が掲載されている。
www.sogai.net
参考文献
『三体』 (二〇一九)劉慈欣 著 大森望、光吉さくら、ワン•チャイ 訳 立原透邪 監修 早川書房