友人が出店側として参加するということで、初めてコミティアに行ってきた。
高校生のときに一度だけコミケに行ったことがある以外では、文学フリマ東京以外に同人誌即売会系のイベントに参加したことはなかったが、文フリと比較して、東京ビッグサイトという会場の規模、入場料としての1500円のパンフレット、大手出版社による出張編集部、本以外のポストカードやキーホルダー、さらには懐中時計などのアイテムの豊富さなど、同じ即売会でも様々な違いを感じ、新鮮な気持ちを味わいながらも、いろいろと考えさせられた。
友人のブース以外は一切調べずに行ったのだが、この規模だ、全体を眺めているだけでいっぱいいっぱいで目が回ってしまい、夕方には用事があったこともあり、ほとんどなにも買わずに会場をあとにした。文フリも同様であるが、それ以上に、なんの準備もせずに行く場所ではないと痛感させられた。
それでも、ただ漫然と歩いていながらも強烈に目を惹かれたブースが一つあった。それも当然だった。出店しているとは知らなかったが、それは前から好きな作者の個人ブースだったからだ。
その作家、中村ゆうひは、漫画家としての単著はおそらく『週刊少年ガール』(講談社、全3巻)のみなのだが、慣用句などの言葉や、漫画・本の構成要素をメタ的に用いたりといったアイデアがおもしろいSF(すこしフシギ)ラブコメが独特な、それこそ「すこしフシギ」な作家だ。
そういった作品の特質上、文字で説明するとなかなかおもしろさが上手く伝わらず、また説明してしまったら駄洒落を解説するような野暮になってしまうのが難しい。だが、このような書評を書くには少々厄介な作品の方が私は好きなのだ。
しかし、それでも今回はどうにも上手くいかない。他の人はどんな風に書いているのだろう、と少し調べていると(もっとも、それほど多くはヒットしなかったのだが……)、なんと作者の中村ゆうひ、最近、出身地である千葉県印西市のPRプロジェクトの一環として、「印西あるある4コマ」を描いていたという。しかも、それを下敷きにしたアニメーションまで作られているというから驚きだ*1。
その設定は、「アルアル星」からやって来て印西市に不時着したアルアル星人が、宇宙船の動力源となる「あるあるエネルギー」を貯めるために、印西市のあるあるネタを、印西市在住の10歳の女の子、西住印と共に集めていく、という、予想だにしないものになっている。自身が印西市出身ということもあってなかなかあるあるネタを客観視できず、これを描くには外からの視点が必要だと考えていっそのこと思いっきり外である宇宙人を出そう、ということになったという、その理由は納得できるのだが、それがこのような設定に結びつくのが、この作家らしいところだ。
アニメの方は、原作が全11話の4コマ漫画ということもあってストーリーらしいストーリーがないこともあり、かなり膨らませられている。
もっとも、ここに原作者はほとんどノータッチだそうだ。しかし、やはり原作の色が特徴的すぎるのか、原作者がそのまま描いたと言われても違和感がないストーリーになっている。また絵のタッチも、漫画をそのまま引っ張ってきたかのようなもので、まさに漫画が動いている、といった印象だ。
どうやらこれは意図的なようで、監督はインタビューで、通常のテレビアニメ制作では、原作がありつつもアニメとして多くのアニメーターが描けるようにちょっと平均化することが普通だが、今回は漫画のタッチ、色彩をそのまま再現することに努めた、と語っている。また脚本家も、漫画をそのまま書いたらこの脚本になった、と語っており、ノータッチながら、原作者の色はかなり濃く出ているアニメとなっているようだ(それにしても、初のアニメ化作品が印西あるある物語というのも、とてもトリッキーなはずなのに、妙にとてもこの作家らしい)。
脚本家と原作者の対談で、脚本家は次のように語っている。
印西市と宇宙人とUFOという組み合わせはどうなんだろうと思っていたが、案外違和感がない、「何かちょこちょこ不思議なことを言っているから、宇宙人が来てもおかしくないような土壌があるんじゃないかな」。
これはまさに、本作に限らないこの作家の特徴でもある。どう考えてもおかしな状況であるはずなのに、登場人物たちは最初こそ驚きはするものの、案外みんなすぐに受け入れている。すると、まあこういうこともあるのかな、と思わされてくる。市のPRという明確な目的がある作品においてもぶれずに(その実、おのずとそうなってしまった、というタイプの作家だとも思うが)、その作風が同じように発揮されていることに感嘆する*2*3。
上で述べてきたように、この作家の設定、アイデアは非常に特徴的だ。この作家を説明するときには、まずいまのような話が出てくるだろう。
しかし、ここで重要になってくるのは、やはり絵なのだ。この、美麗ながら角がある絵柄が、間違いなくその物語、設定を支えている。
このアニメ化がネットニュースになったとき、コメントでは「目が死んでいる」というものがあった(というより、3件中3件が実質的に同じ内容だった)*4。この作家は基本的に黒目がハイライト無しの黒塗りベタである。今どきあまり見ない作画だ。現在これが使われるのはいわゆる「病んだ」ときの描写においてである。その漫画・アニメ的文脈から見れば、そう感じるのも無理はないのかもしれない。
だが、この作風においてはやはりこれが合っている。この目だからこそ、変なことばかりが起きているのに妙に馴染んでいて、読者側も、そういうものだと妙に納得させられる。そんなところがあるように感じるのだ。漫画にとって絵とは、小説における文体のようなものなのかもしれない。
話を広げると、メディアミックスの難しさは、こういったところに起因する面もあるだろう。
この文体的なものは、その表現方法においてこそ成立するものである。これを他の表現媒体に移す際、ただストーリーだけを再現しても、文体が異なればそこに齟齬が生じてしまう。
このとき、おそらく目指す方向性は二つ。一つは、元の文体もまたそのまま再現しようとすること。もう一つが、移入先の表現媒体に合わせて、ストーリーや表現方法を少し変えること。どちらが良い、ということはないし、また忠実に原作の文体を再現しようとしたことでかえって違和感が増している映像化作品はよく見るので、そんな単純な問題でもないだろう。それでも、この前者を突きつめた「印西あるある物語」は、私の贔屓目もあるだろうが、一つの方向としてなかなかおもしろい結果を示したように思う。
ところで、「目が死んでいる」という感想は、この絵柄だけを抜き出せば、そういう感想があること自体はある程度理解できる。だが、感情自体は表情等でしっかり描かれていることもあってか、私自身は「目が死んでいる」とこの作品を読んでいるときに感じたことは一切ない。むしろ、この目を含む絵が可愛らしいと感じて、そこからこの作品に入ったところがあるくらいだ*5。だから、ニュースサイトのコメントを見て初めて、「なるほど、このキャラクターを見て『目が死んでいる』という感想もあり得るのか」と素直に驚いた。考えたこともなかったのだ。
だが、他の作品で同じ描写を観たら、もしかしたら私も「目が死んでいる」と思うのかもしれない。確かにある表現方法が持つニュアンス(シニフィエと言ってもいいのかもしれない)はある程度共有されているものではあるが、それも絶対ではなく、個々の作品や場面にも依存する、という当たり前のことについても改めて考えさせられた。これは、作品を読む・鑑賞するときにも有効な視点であるだけではなく、当然のことながら、自分でなにかを作るときにも肝要であろう。
話が広がった割には、結局、『週刊少年ガール』の紹介にはならなかったような気がする。やはり、これを言っては身も蓋もないが、この作品については実際に読むのが一番良いだろう。
しかし、今回の事があって調べようとしなければ、「印西あるある物語」のことはまだ当分知らないままだったかもしれないし、自分が、小説でも漫画でも、ストーリーと同等、あるいはそれ以上に表現媒体や表現方法というものに関心があるということを改めて知ることができた。この作品を知った当時はそんなことを考えていた訳ではなかったはずなのだが、やはり、元からそういった傾向にあったのかもしれない、なんてことまで考えていた。振りかえれば、自分が惹かれてきた作家にはそのような傾向が確かにあったようにも思われた。
このようなことを考えるきっかけになったこと一つだけでも、やや無理に時間を作ってでもコミティアに行った意味は、十二分にあったようだ。
そして今は、せっかく本棚から出してきたのだから『週刊少年ガール』を読み直そうと思っている。これもまた、実際に足を運んでみたことの副産物と言えるのかもしれない。
(矢馬)
*1:
(閲覧日2022/05/07)
*2:上記ページ、メイキングインタビュー
*3:また、「印西あるある物語」に限らず、このプロジェクト自体がなかなか突飛なものであり、この作家の作風を受け入れるだけの土壌があったとも言える。
*4:
(閲覧日2022/05/07)
*5:偶然かもしれないが、まだ作品数も少なく、今ほど名前が知られていなかった浅倉秋成の作品にあらすじから興味を持って、講談社BOXのデビュー2冊を取り寄せてみると、そのイラストが中村ゆうひ(デビュー作の『ノワール・レヴナント』では別名義のN村雄飛)だった。結果的に、その2冊と、長い空白期間の後の第3冊『失恋覚悟のラウンドアバウト』まで、中村ゆうひが装画を担当していた作品は非常に気に入った。その後の作品は、単行本については出版社も別であるから装画が変わるのは当然であるが、上記の文庫化の際にも、それぞれ別の絵に変わった。私はそれから、この作者の本を手に取っていない。理由は分からない。たまたまかもしれないが、私の中でこの書き手とこの絵がセットになっていたからこそ、という可能性もある。