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速読へのコンプレックス——『本の読み方 スロー・リーディングの実践』批判

私はかつて、「遅読のすすめ」と題して、宮沢章夫『時間のかかる読書』を紹介したことがある。

 

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速読に対するちょっとした違和感についても書いていて、いま読みかえすと少々読書というものを神聖視しているような感じもあり、かなり恥ずかしい内容になっている。いまの私なら絶対にこういうことは書かないだろう。もっとも、この記事で私は一概に速読を否定してはいなかった。そこだけは少しだけ安心した。

 

速読に対するアンチテーゼとして「遅い読書」を謳う本は、速読本と比べればかなり少ないが、いくつかはある。平野啓一郎『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(PHP文庫)もその一つだ。本書は、2006年にPHP新書で刊行されたものに加筆修正を加え文庫化されたものだ。

「芥川賞作家」が実践する本の読み方ということもあってか、レビュー等を見ているとかなり好評らしい本だが、私には得るところはほとんどなく、また違和感を覚える表現や論理の飛躍などが多々目につき、あまり感心しなかった。

もしかしたら、5年前あたりの私なら良い本だと言ったのかもしれない。しかし今となっては、この本にある速読への剝き出しの憎悪・コンプレックスと、底に流れている作家信仰がどうしても目に余る。

 

そもそも私が、正直あまり気乗りはしないがこの本を読んでみたのには、この著者のSNSでの発言があった。

読書は、自尊心を高めてくれる手っ取り早い手段です。いつか読まないと、と思ってる重厚な古典とか、あんなのまで読んでるなんてあの人スゴいなという本を読めば、もうそれを「読んだことがある人」になれるんですから。数年前の自分との違いも簡単に実感できます。内的に豊かになって楽しいですよ。(2022年1月27日のツイート)

私はこの主張に、少なくともこの文面からは賛成できなかった。「え、本当にそれでいいの?」と思った。たしかに、読書人口が減っていると言われている中では、このような形で読書へと導くことも方法としてはあるのかもしれないが、何かを「読んだ」くらいで高まる自尊心など、どれほどのものだろうか。しかもそこで挙げられているのが「重厚な古典」と凄い人が読んでいる本である。あまりにも権威主義的ではないか。それは、一流大学や一流企業の名前を鼻にかけている人間とどこがどう違うのか、とも思われた(念の為つけ加えると、たしかに環境や経済状況による要素も大きいとはいえ、有名大学や有名企業に入る人の多くはそこに来るまでにかなりの努力をしているのは事実である。だから、それで相手を見下すようなことがなければ、そのことを誇りに思うのは別に構わないと私は思っている)。

しかしなにより首を傾げざるをえないのが、「手っ取り早い手段」という言葉の使い方だ。特に「手っ取り早い」という語には手間がかからない、というニュアンスがある。読書が心を豊かにするという発言のなかにおいてはふさわしくない語の選択だと感じる。

そこで気になって少し調べてみると、この作家は「スロー・リーディング」なるもののすすめを書いていると知った。「手っ取り早い」とは真逆の語感に興味を覚えて、そこで読んでみることにしたのである。

たしかに良いことをいくつも言っている。その点については多くの読者や評者によって多く言及されているから、そちらに譲る。

それは認めた上で、しかし、その「スロー・リーディング」なるものの価値を高めようとするあまり、速読に対する偏見にも似た否定や、「スロー・リーディング」への激しい称揚が、どうにも胡散臭い。

 

筆者がかつて憧れたという速読に対する恨みは、以下のような表現からありありと感じられる。

 

「速く読もうと思えば、速く読めるような内容の薄い本へと自然と手が伸びがちである」

「誰からも尊敬されているような人が、『速読家』だというような話を聞いたことがあるだろうか?」

「速読家の知識は、単なる脂肪である。それは何の役にも立たず、無駄に頭の回転を鈍くしているだけの贅肉である」

「速読本は、『自己啓発本』だった」

「基本的に速読は利己的なものであり、それで周囲の人間が得をすることはないが、スロー・リーディングは、利己的であると同時に、利他的であり、他者に対して必要十分な情報を提供するものである」

「速読とは、ようはアタマを使わない読書のことた」

「速読のようなイージーな読書」……

 

ざっと抜き出して見たが、これだけでも食傷気味だ。

本人も認めているが、ここには速読に対する、しかも強烈なコンプレックスしか感じられない。表現が断定的で、速読が人間を損なう邪悪なものと決めつけているかのようだ。

また他にも、「AはBである」という内容を「スロー・リーディング」は誤読しないが、「単語だけをザッと拾って、助詞や助動詞を軽視する」速読は勝手に自分で結びつけてしまい、これを「AはBではない」と逆に読み間違える危険性がある、というが、これはいくらなんでも強引だろう。だとすればそれは速読以前の問題である。その読者は、そもそも速読を会得などしていないといった方がいい。また、こういうことは案外「スロー・リーディング」でも起きうるものだ。速読が悪いものだと言いたい気持ちが前に出すぎているように感じる。

一方で、「スロー・リーディング」をすると、尊敬される、人間として豊かになる、知性が身につく、就職試験なども上手くいくなど、なにもかもが好転するかの如き表現もされている。正直、これはかなり胡散臭い。某通信講座を受ければ成績が上がり、恋も部活も上手くいく、という漫画を思い出す。速読本を「自己啓発本」として批判するが、本書もまた「自己啓発本」的要素に満ちているのではないか。

そもそもである。著者は「フォトリーディング」を速読一般として見なしている節がある。映像化して記憶するというフォトリーディングは確かに速読に用いられるが、すべてがすべて、フォトリーディングではない。このあたりの表現がちょっと迂闊である。これもやはり、速読を悪く言いたいがために勢い余って、というところだと思われる。

 

次に気になるのは。「本」とは言うが、それがほとんど「文学」と見なされるということだ。文章中でも、それまで基本的に本一般を語っていたはずなのに、唐突に「そもそも小説は、速読可能だろうか?」と始まったりする。それまでは、そこまで小説の話はしていないように見られたのだが。

しかし、これは議論の進め方として疑問がある。

私も詳しい訳ではないが、速読本はそもそも小説のようなものを読むことを目的にはあまりしていないはずだ。速読教室を開いている人の記事などを読んでも、小説を読むときには普通に読むと言っているものが多い。

速読とは手段の一つであり、速読が出来る人はすべての文章を速読するわけではない。批判として的外れだろう。

それに、はっきり言ってしまえばここで著者が提示する「スロー・リーディング」は、ちゃんと速読を自家薬籠中の物にしている人ならばできることのようにも思う。速読一般の問題と言うより、個々の読者の問題と思われる箇所が散見される。

 

あとの「実践編」などを見ていくと分かるように、著者の目はほとんど小説、しかも「文学」と呼ばれるものばかりに向いている(最後に「応用」としてフーコーの文章を挙げているが、むしろこういった評論系の文章こそ「スロー・リーディング」の対象であり、そうして初めて速読へのアンチテーゼとなるのではないか)。思うに、小説とは本の中でも、かなり読むのが難しいジャンルだ。元からゆっくり読まれる傾向にあると言ってもいい。すると、見方によっては、そもそも読むのが遅い傾向にある文学作品を引き合いにして、速読ではこういう読みは出来ないでしょ、と言っていることにもなる。果たしてそれでは速読への批判になっているのかどうか疑問だ。

本書のタイトルは「本の読み方」となっている。しかし、そんな特殊なジャンルをもって「本の読み方」とは無理がある。本書は本来「文学の読み方」などにした方がまだ的確である。

これは「本の読み方」とすることでより多くの読者、とりわけビジネスパーソンの読者を獲得しようという編集を含めた意図かと思われるが、だとすればやはりこの本も、「仕事が忙しいと、なかなか本を読む時間も取れなくなってくる。読めてビジネス書くらいだろう」「(カフカや安部公房の作品は——引用者註)新書(そもそも本書は最初新書として出されているのだが……——引用者補足)やビジネス書のように、今日、明日役に立つことは教えてくれないかもしれないが、自分自身の価値観を大きく揺さぶるような経験をもたらしてくれるかもしれないのである」などと、言外に下に見ていることが感じられる「ビジネス書」と変わらない(実践編で新書やビジネス書を挙げなかったのには、そもそもそれらの本は深く読み込めるような内容のものではない、という偏見もあるのかもしれない)。

 

ところで、本書について自分は特に得るところがなかった、と言ったが、それはここで示されている「スロー・リーディング」の方法が、それほど目新しいものではなかったことが大きい。

傍線を引く、助詞・助動詞に注意する、辞書を引く癖をつける、接続詞に印をつける、人に説明することを前提に読む、「我が身」に置き換えてみるなどの方法が説明されているが、受験勉強時代に散々やったことであり、その後も普通に使っていることだったから、少なくとも私には今更のことと思えた。

無論、この「大したことのなさ」が、皮肉ではなく、間違いなく本書の真の長所ではある。これなら誰でもやってみようと思える。それは非常に重要なポイントである。

しかし、だとしても内容的には国語の参考書と変わらない。むしろ実践問題などもある点で、この点においては受験参考書の方が身になると思われた。また、フォトリーディングの場合は少し違うのかもしれないが、速読をきちんと身につけている人はおそらく、これらの一部のことを頭の中で自動的におこなうことで素早く内容を理解しているのではないか、とも感じられた。速読の批判には、やはり微妙に的を外しているように思えてならない。

 

本書の示す「技術」は、平凡という意味で良くも悪くも妥当なものだが、それでも気になったことはある。たとえば音読の否定だ。

曰く、作家はそもそも「黙筆」をしている。19世紀後半になって黙読が習慣になり、作家もそれを前提とするようになって表現が内面化していったことで、エロティックな表現などが醸成された。音読だと読める本が限られてくる。また、音読をすると上手く読むことばかりに意識が向いてしまい、読んだだけで満足してしまい内容をあまり理解できない。文章のリズムは黙読の方が正確に取れる。音読は執筆や読書とは別の技術である。そして「一冊の本を隅から隅まで味わい尽くすためには、ひたすら黙読すべし。響きを楽しみたいときは、寂しく自分で読むのではなく、誰かに読んでもらうのがいいだろう」という。

ここで「寂しく」と余計な一言を付けてしまうところに、件の「手っ取り早く」と同じものを感じるがそれは措く。

しかし、これはどうだろうか。著者はそうかもしれないが、私にはこの気持ちがまったく分からない。私は黙読で理解できないときには声に出す。場合によっては何度も同じところを読みかえす。とりわけ外国語の勉強などではそうだった。声に出すことでリズムが摑め、意味がおぼろげながら取れるようになる。外国語の精読など、まさに「スロー・リーディング」の一つだと思われるのだが。また、そもそも私たちの多くは最初、読み聞かせによって物語に親しむのではないだろうか。絵本など、世の中には声に出して読まれることも想定した本もたくさんある。紙幅の関係もあるのかもしれないが、その点について無視されているように感じる。

また、普通に読んでみたとき、音読の方がそもそもスピードは遅い。音読は前へ前へ行ってしまうというが、別に音読だって戻ってはいけない理由はない。強いて言うなら、それはどちらかといえば朗読だ。事実、著者は本文では「音読」と「朗読」を一緒くたにしているが、辞書を引く癖を付けることを訴える者として、これは迂闊だろう(朗読だからといって著者のこの論理が通るとも思えないが)。

それに、もちろん人によって読み方は違うだろうが、黙読であっても、どこかでその文字を音にして理解しているはずだと思う。著者は、近代小説で描かれたものは「黙読の前提があればこそ」書かれたものであり、それは「声帯の肉声ではなく、魂の肉声で届けられるもの」と太字で強調するが、この「魂の肉声」とやらがふわっとしている上、その根拠となる論がこのように強引であるために、私には説得力を持たない。

それにしても、揚げ足を取るようになってしまうが、声に出しては意味が取れないというのなら音読が習慣だった、たった100年ちょっと前の人々は、本の内容をあまり理解していなかったとでもいうのだろうか。筆者が言うように、日本においてみれば黙読が習慣になったのはほんの最近の話だ。しかもそれは、読書法が「進化」したということではなく、列車、図書館などの公共の場で文章を読む、という社会の変化がそれを促したという側面もあるのだ。

つまり、一つには、これは要は習慣の違いだろう、と私は思うのだ。

単純に現代人には音読の習慣がないから、音読で意味を取ることが得意ではないことが多い。それだけの話ではないだろうか。実際、現代人においても黙読だと流れてしまうから音読をする、という人も少なくはない。そういう意味では、ただ単に合う/合わないの要素も大きいかと思われる。本書ではあたかも音読より黙読の方が意味が取れるのが普遍であるかのように言うが、それはさすがに勇み足だろう。著者は「音読は執筆や読書とは別の技術」と言うが、その根拠も、いろいろ挙げてはいるもののそれほど説得力はなく、根幹にあるのは「自分はうまくいかなかった」というものであり、自己正当化のための決めつけのように思える。

また、上手く読むことに意識が向いてしまうというが、ならばそこに意識が向かなくなるまで練習すればいい。運動などでもそうではないか。意識して手足を動かしている内はまだまだ。無意識で出来るようになって、初めて会得したと言える。

読書は技術という冒頭の著者の言うことはまさに正しい。だからこそ、どんな読み方でも、練習を重ねねばならないのだ。これは「スロー・リーディング」でも同じことだと思うのだが。

速読についてもそうだが、この本の主張の根拠は多くが、著者がやってみて出来なかったこと、上手くいかなかったことを間違ったことだと否定し、それが自身の周りの「作家たち」にも共通していた(から正しい)、という展開になっているように見えてしまう。無論、人には向き不向きがあるのだから、著者が中途半端で練習を投げたとは思わないし、結果としてこの方法に辿り着いたことはなんら否定しない。自らが尊敬する「作家」が同じだったことで自信を深めても構わない。しかし、だからといって自分に合わなかった手法を悪、劣ったものであるかのようにことごとく否定するのはいかがなものだろう。

いくつか速読関係の人のインタビュー等を見てみたが、その多くは、読み方は場合によって使い分けるべきだ。遅読は遅読で価値のある読み方だ、と言っている。それに比べるとこの「スロー・リーディング」への固執は、あまりにも狭量に感じてしまう。

それにしても、本当に作家は声に出されることを想定していないのだろうか。私が信頼する書き手や読み手は、むしろ声に出すことにも黙読と同じくらい意味を感じている人が多い。また、日本近代作家の文章は、声に出すとそれは読みやすくて感心する。著者も実践編で挙げている夏目漱石や森鷗外など、まさにその代表例のような作家ではないか。例えば漱石にとっては、漢詩は自らの素養であり、また表現の一つだった。漢詩はやはり「読む」ものだろう。また、落語や能などの舞台芸術も、漱石とは切っても切り離せない。故に、私は漱石の作品には声に出さなければ味わえないものがあると思う。

いや、それとも著者が言いたいのは、自然主義小説や内面的な私小説のことなのか。だとしても、志賀直哉や国木田独歩など、やはり声に出しても味わいがある作家だと私は思う。現代作家でも、一度、大学院の講義で村上春樹の短篇を声に出して読んだことがあるが、音読して初めて、この作家の文章の妙を痛感したものだ。これらの作家の文章は、音読したから内容が取れない、などということは私は感じたことがない。だから、特にこの節はまったくと言っていいほど共感できなかった。もっとも、私は音読に関してはまあまあ上手い方だと自負しているから、そのためなのかもしれない。しかし、それでも文学作品にとっても「声」という身体感覚は重要だと思う。

 

ところで、先に少し触れたが、この本は「作家」たちの本の書き方、読み方をかなり神聖なものとみなしている節がある。「作家はスロー・リーディングしてもらう前提で書いている」「作家はみんなスロー・リーディングをしている」といった主張がところどころで見られる。この作家信仰がどうにも邪魔をする。

なにも作家の読み方だけが正しい訳ではないだろう。それに、この著者のいう「作家」とは概ね小説家、しかも純文学系の作家である。すべての本の中で小説家はあくまで一部分であり、また小説家があらゆる書き手のなかで特別に偉い訳でもない。しかし本書では小説家とは本の読み書きのプロという自負が強すぎて、ちょっと傲慢ではないか、と私は感じてしまう。これは読者に対しても思うのだが、作家というものを、あまり偉いものだと思いすぎない方が良いかと思う。それはリスペクトしないということではない。リスペクトと過度に有り難がらないことは両立可能だ。

 

このように、私には問題点ばかりが目についた。もっとも、文章を丁寧に読もう、ということであるなら、「スロー・リーディング」にも大賛成である。そして、実のところ本書はそれしか言っていないのである。実践編を見ても、紙幅の関係もあるとは思うが、現代国語的な解釈の域は出ておらず、それほど「スロー」でもない。それこそ、『時間のかかる読書』だとか、灘高校の「銀の匙」の授業で有名な橋本武くらいの時間をかけてこそ、本当の「スロー」と言えよう。

故に、「丁寧に読もう」と言うために、あえて速読を、強引な論まで使ってここまでケチョンケチョンに貶すのも、どうにも大人げないと思ってしまう。だから私は評価できないのだ。

 

本書の印象として、「文学読みには喜ばれそうだな」というものがあった。事実この本に対する好意的な評価を見ると、「自分は読むのが遅かったが、それでいいのだと思えた」「芥川賞作家の読みの深さに感服」といったものが多かった。本書はまさに、文学読みにお誂え向きのものだったようだ。

文学読みは、そもそも読むのがあまり速くはない傾向にありそうだ。そんななかで速読ブームが起き、速く読めない自分にコンプレックスを抱いている人たちに、自分たちのほうが優れているんだ、と思わせて救いとなる本なのかもしれない。なるほど、だとすれば「本」と言いながら文学ばかりに焦点が当てられているのも道理だろう。すなわち、文学こそが優れた出版物だ、という意識を共有している人々のための読み物である。

しかし、それでは慰撫にしかならないし、「ビジネス書は読書にならない」「エンタメ小説は娯楽で純文学は芸術」的なくだらない排外主義的な共同体意識に繫がりかねないのではと思ってしまうのは私だけだろうか。それは、立場が変われば、自分の国に自信を持てないでいるなかで、周りの国を貶めながら「日本は凄いんだ」と言ってくれる本を喜んで買う人々の心性と、さほど変わらないとも思う。著者は、そういった人々を日頃から批判してきたのではなかったか。

 

最後に。速読に対する批判で、著者は速読では「その本を読んだという結果だけしか残らない」といった旨のことを言っている。件のツイートの「『読んだことがある人』になれる」という言い方とそれは何が違うのか。

こういったところを見るに、著者は速読に対するコンプレックスから、まだ脱していないのかもしれない。だから「手っ取り早く」という風に言ってしまうのだろう。

 

この後、他の人の「読書術」が気になり、松岡正剛『多読術』(ちくまプリマー新書)を読んだ。本にはいろんな読み方があっていい。いやむしろ、一冊の本でもいろいろな読み方をすべき、「チェンジ・オブ・ペース」が必要だ、とあるこの本の方が私には説得力があった。また、速読についても、「速読にとらわれるのがダメ」で「どんなテキストも一定の読み方で速くするというのは、読書の意義がない」のであり、そして、その分野の知識や理解力が高まればおのずと読む速さが上がる。これが本来の速読力なのだ、と言う。こちらの方が、「速読本」氾濫に対するクリティカルな批判になっていると思うのだがどうか。つけ加えると、松岡は音読をかなり重視している(「黙読だけでは考えが深まりませんね。音読、朗読、併読、そして解読が必要です。そうでないと身体が大事なことを忘れる。身体が忘れると、思想にならない」*1)。

そして、この「速読にとらわれるのがダメ」という言葉は、そのまま「スロー・リーディング」にも適用される。「スロー・リーディング」にとらわれるのも、それはそれでダメなのだ。これも数多くある読み方の一つとして、いろいろな読み方を身につければいい。

本書をもし読むのならば、それくらいの距離感をもって読むことをすすめる。

「平野啓一郎」という「芥川賞作家」の本の読み方が知りたいのであれば、その限りではないが。

 

(矢馬)

*1:

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閲覧日2022/02/05