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限定本と「貧しい」本—「美しい本—湯川書房の書物と版画」

 日本の出版において豪華本・限定本といえば、長谷川巳之吉の第一書房を初めとして、野田誠三の野田書房、江川正之の江川書房、斎藤昌三の書物展望社など、主には戦前昭和期に隆盛を極めた出版社とその社主の名前が思い浮かぶ。

 だが、1969年に設立してから、辻邦生や小川国夫を皮切りに、加藤周一、車谷長吉、秦恒平、谷崎潤一郎、塚本邦雄など、多くの作家の限定本を数多く作り、社主の死の2008年まで活動を続けた出版社があった。湯川書房。社主の名は湯川成一。

 

 神奈川県立近代美術館 鎌倉別館にて開催中(2023年4月16日まで)の「美しい本—湯川書房の書物と版画」は、そんな湯川書房の本と、湯川書房で多くの共作をした版画家、柄澤齊の版画を展示している。

 湯川書房の最初の本、辻邦生『北の岬』と小川国夫『心臓』、特に前者の方を見ていると、やはり江川書房の堀辰雄『聖家族』を思い出させる。江川書房といえば「純粋造本」の代表的存在だが、実際に湯川がそれを意識しているかどうかは別にして、どこかその意識や精神を引き継いでいるように感じる。

 湯川は自分の作りたい、そしていい本を作ること目的としており、当然といえば当然だが作家の選定から自分で行っている。故に特定の作家との関係性が深くなる傾向にもあったようだが、それもまた、第一書房などの往年の豪華本・限定本版元と共通している。

 私がいま関心があるのは「ただの本」だ。たとえば文庫や新書、単行本も革装やクロース装よりも並製本のあり方を考えている。紙も、ファンシーペーパーなどではなく、ただ書籍のための用紙が普通に使われた、普通の本を求めている。文庫本でも、カバーを外したときの統一的デザインの状態の方が美しいように感じている。

 そう考えるといまの私の関心と湯川書房のような本は正反対にあるようにも思われる。事実、これはちょっと綺麗すぎるな、と感じる本もあるにはあった。しかし、まったく正反対ということではなかったようだ。

 もちろん素材に対するこだわりがあったり、プラスチックケースに入ったものなど一見「普通」ではないものもある。だが、なにかを見せびらかそう、見る者を惹きつけよう、圧倒しよう、という意識は感じられない。奇をてらったのではなく、なにか必然性がそこにはあるように感じた。それは限定本という、いわゆる不特定多数の一般読者に対しての目配せがあまり必要ではないものであるが故にできることなのかもしれない。しかし最近のゴタゴタした本の風景に慣らされている身には、畏れを覚えつつ、同時になんだかホッとする佇まいがあった。とにかく「いい本」を作ることを追求した湯川の生き方が滲み出ていた。

 それが「本」であるということ。当たり前のことと言われるかもしれないが、しかしいま書店を見回していると、果たしてそれが「本」としての宿命を込められているものなのかどうか。別にこれ、本でなくてもいいんじゃないか? そう疑問に思うことも少なくない。あるいは、なんでこんな形の本にする必要があったのだろう、というものもある。その「本」であるという必然性。それを問われることなく、その意識をまったく欠いたまま作られるものが沢山あるから、売れないにもかかわらずこんなにも本が溢れているのではないか。

 話を戻すと、今回の展示で特に印象に残ったのは、「容器」と題された、木口木版画・柄澤齊、銅版画・北川健次、詩・高柳誠・時里二郎のシリーズだ。フランス装表紙古版画全面印刷のⅠ、ほぼ正方形で革装表紙のⅡも良いが、とくにA4くらいのサイズのプラスチックケースにすべてが収められたⅢに惹きつけられた。なにより高柳誠の詩が「詩葉集」と名付けられ、文字通り「葉」、一枚一枚になっているものが厚めの灰色の紙に仕舞われている姿に、「綴じる」とは必ずしも紙を一冊に束ねて糸や糊でくっつけることではないのだ、と改めて思わされた。

 もう一つは湯川ではなく、柄澤齊の工房・梓丁室で製作された、郵便で届けられる限定150部の隔月刊『SHIP』。16頁の未綴じの冊子はルリユールができる。書店などには置かない郵便という形式も相俟って、「出版」という営みの本質を見た気がした。

 

 一方で、本を展示することの難しさも痛感した。表紙を見せるように置かれていれば中が見たくなり、開いて中を見せていれば今度は表紙が見たくなる。そのジレンマは感じ続けていた。

 この点は本の展示には付き物で、たとえば2018年に上野の森美術館で開催された「世界を変えた書物展」では鏡を使うことで開いた本の表紙を見せる工夫もあって、これにはなるほどと感心させられた。しかしながらそれも鏡を通して見ることしかできない点では、そのものを見たとは言いづらい。2部ずつ用意すれば可能なのかもしれないが、これはまったく現実的ではない。

 ガラスにぎりぎり顔を付けない範囲で頑張って見えない後ろや下を覗こうとしながら、やはり本とは手に取って見るものであることが今回、逆説的によく分かった。ネットで本を探して買うと外れることが多いのも、やはりそれを手に取っていないからなのだろう。本を手に取れる書店のありがたさを感じた。

 本展は写真撮影はNGで、図録もどうやらない。出品リストはあるからそれを基に調べればかろうじて画像を探すことはできるが、おそらくその内に記憶の中でどれがどの本だったのか分からなくなるだろう。

 少しもったいないようにも感じるが、それでいいのかもしれない。当然のことだが、生命維持に本は必要不可欠なものではない。日常生活を送っていれば自ずと抜け落ちていくものだ。だがそれでも欠片、あるいは砂金のように残るものがある。それが大事なのだ。私の作る本も誰かにとってそんなものになってくれればいい。

 また、展示場の外には湯川の年譜と写真、それと彼の死後に作られた冊子の別冊に収められた柄澤齊の追悼文「川にて」がパネルで掛けられている。この「川にて」がとても良かった。これだけでも来た甲斐があった。「正史」とされる文学史は大手版元と作家によって形成されており、現代においてもまず語られるのは、一部の悪目立ちする社主や編集者を除けば作家についてばかりだ。だが、当然のことながら出版は大手だけのものではないし、作家だけがメインプレーヤーではない。中小の出版社、そして多くの人々の手によって成り立っている。出版もまた、人と人との仕事なのだという当たり前のことを私に思い出させてくれる文章だった。

 

 せっかく1時間半もかけて鎌倉に来たのだから、観光というよりは散策をした。鶴岡八幡宮ももちろん良かったが、やはり私は「観光地」的なスポットよりもその街の生活を感じられる場所の方が好きらしい。商店街よりも小路の方に入ったりしているうちに、高価な海鮮丼やいかにも鎌倉、というお店に若干惹かれつつも、結局は「昔ながらの醬油ラーメン」と書かれた、とても狭い普通のラーメン屋に入った。ちょうど酔っ払って陽気なおじさんと入れ替わりで店内には私一人。やはり醬油ラーメンを注文すると、ほうれん草、チャーシュー、ネギ、メンマがのった普通のラーメンが出てきた。癖のない味に安心して麵を啜ったのちチャーシューに箸を付けると、その柔らかさに驚いた。いままでいくつかチャーシューは食べてきたが、一、二を争うくらいに美味しく、これならチャーシュー麵にすればよかったと後悔するくらいのものだった。会計時にそのことを伝えると、毎朝仕込んでいる自信の逸品だと言う。こういった普通の佇まいのところに垣間見えるこだわりが、私は好きだ。

 以前に一度鎌倉に来たときに入った古書店にも寄った。文芸書も豊富でとても良い古書店だ。湯川書房の展示を見たあとということもあり、小川国夫『回想の島尾敏雄』(小沢書店)がまず目に入り、次に谷崎潤一郎『二月堂の夕』(全國書房)の函付きが1000円で積まれていたので手に取った。この2冊を買って帰ろうとレジに向かう途中に棚を見ていたとき、ふと目に留まった本があった。

 上林曉『夏曆』(筑摩書房)。もちろんこの作家に、まだほとんど著作を読んでいないながらも関心があったことも事実だ。だが、一番の理由はそこではない。その「貧しい」作りに手が伸びた。

 元は緑だったと思われる茶色く灼けた薄い表紙に、墨一色で「上林曉 夏曆 筑摩書房」。カバーなど当然なく、作りとしてはペーパーバックと言ってよいだろう。奥付を見ると、「昭和廿年十一月二十日印刷 昭和廿年十一月廿五日發行」。「特別行爲税」、そして配給元の「日本出版配給統制會社」という文字列に、息を飲んだ。戦後直後の本だ。

 戦後の貧困、焼け跡の中で作られた本。明らかに紙の質も良くない。今の書店の風景にあれば色彩や光沢に挟まれてあっという間に埋没してしまう本だ。

 だが、戦後という食べるものにも苦労する時代のなかでそれでも作られたこの本には、「本」というものの根源的な形、そして精神が表れているように思えてならなかった。湯川書房の本とは、一見正反対にあるものだ。しかしこれもまた、私にはそうは思えなかった。むしろ展示を見たが故に、私にはこの粗末な本が限りなく尊いものに思えてならなかった。

 本が売れないと言われるなか、圧倒的な情報の手数で耳目を惹こうとする本が増えている。ときには、作家のポートフォリオとしてきらびやかにするためのような本も見受けられる。同人誌を見ていても、どうしてもそう感じずにはいられない。本って、そういうものなのだろうか。私はずっと考えている。

 戦時体制版、戦後直後のこういった本の存在を、私たちは忘れてはならないのではないか。なぜここまでして本を出すのか、そして出さなくてはならないのか。ガワばかり煌びやかな本が溢れる現代の風景にじっと問いかけているように感じられるこの羽のように軽い本が確かな重さを湛えて、私の手の中にあった。

 

(矢馬)