ソガイ

批評と創作を行う永久機関

『ソガイvol.2 物語と労働』紹介

 

表紙と裏表紙

f:id:sogaisogai:20180401125538j:plain

表紙に書いてあるようにソガイ第二号のテーマは「物語と労働」です。

B5版で80ページ、定価は500円です。

 

目次と概要(クリックすると該当箇所の一部が読めます)

論考 次元を越えた「瓜二つ」―― 磯﨑憲一郎『赤の他人の瓜二つ』 宵野雪夏 2

 『赤の他人の瓜二つ』を中心に磯崎憲一郎の文体の不気味さが検討されている。一例を上げれば、渡辺直己が言うところの移人称小説という概念にも磯崎の小説が当てはまらないことが本論考では指摘されている。

 

書評 『勝手に生きろ』書評 ブコウスキーは正論に対して虚構で対抗する 雲葉 零 24

 チャールズ・ブコウスキーの小説『勝手に生きろ』ではしばしば労働への言及が見られる。ただし、主人公が目まぐるしく職場を変えるように、肯定的というより否定的な意味合いで。このことを足がかりに労働とブコウスキー、正論と虚構の関係が語られる。

 

創作 『富が無限に湧き出る泉』 雲葉 零 37

 マルクス「ゴータ綱領批判」の一説に出てくる富が湧き出る泉という比喩をモチーフに、労働せずに生活することが可能になった世界が描かれている。

 

書評 ロボットからのギフトの可能性について ~『プラスティック・メモリーズ』所感~ 宵野雪夏 47

 そもそもロボットという言葉が強制労働、強制労働者を語源に持つようにロボットと労働は深く結びついている。このアニメのヒロインでありロボットの一種であるアイラもまた、人間に労働を背負わされていた。その上で、本評論は人間とロボットの労働にとどまらない関係性を考察している。

 

論考 働かないことを夢見た人間たち 雲葉 零 60

本論考では不労主義という概念が導入されている。不労主義とは簡単に言えば、短時間労働や労働の廃絶を主張する思想のことである。論考、エッセー、小説などの形で表された不労主義を比較検討し、不労主義が空想的にならざるを得ないことが語られている。

 

    ソガイ第二号試し読み

 また、以下ソガイの本文の試し読みを公開します。それぞれの文章につき、全体の一、二割ほどが対象となっています。なお、縦書きが横書きになっている等、冊子との形式的な差異が一部あります。

                                       次元を越えた「瓜二つ」――磯﨑憲一郎『赤の他人の瓜二つ』

 

宵野雪夏

語り手、移人称小説、不気味

 小説作品において、もっとも仕事量が多い役割を担う者。それはきっと、語り手である。
 たとえば芥川龍之介の短編作品には、作中人物が物語を語るものがいくつもある。しかし、実際にそれを休憩を挟まずに語り尽くすことは、ほとんど不可能に近い。短編作品であっても、それをすべて音読することは難しいのだ。ましてやそれが長編であれば。気の遠くなるような労苦が費やされることだろう。
 同時に、小説は語り手なしでは成り立たない。読者は、語り手を通じて初めて、物語の世界に触れることができる。出来事があるだけでは、小説にはならない。小説を小説たらしめているものは、この仲介者たる語り手の存在である、と言ってしまってもいいかもしれない。それほどの功労者なのだ。
 しかし、そんな語り手がどうにもあやふやで、だからこそかえって、妙な存在感を示している作品がある。磯﨑憲一郎『赤の他人の瓜二つ』の語り手、より正確に言えば、語り手だったはずの「私」は、ちょっと異様な存在である。

血の繋がっていない、赤の他人が瓜二つ。そんなのはどこにでもよくある話だ。しかしそう口にしてみたところで、それがじっさいに血の繋がりのないことを何ら保証するものでもない。――私が初めてあの男と会ったとき、そんな自問自答が思い浮かんだ。それほど男は私にそっくりだった、まるで記憶の中の自分の顔を見ているかのようだった。にもかかわらず、周囲の誰ひとりそれを指摘しようともしない、気づいてすらいないように見えることが、私の不安を煽るのだ。(五頁)

 このようにして登場した「私」は、「私」自身の話をし始めるのかとおもいきや、そうはならない。その町の男はみな工場労働者で、どの家庭も同じような生活をしている、と語って、「私」も含めた工場労働者や子ども、妻の生活について、話を始める。もちろん、その工場労働者のなかには「私」はもちろん、その「私」と瓜二つの男も含まれているのだろう。しかし、しばらくそれが続くと、次のようなまとめに入る。

これが工場労働者の生活だった。私の生活がそうだったのだから、その男も同じ生活を送っていたことはまず間違いない。ほかの生活が入り込む余地などはないのだ。男の家には男の子と女の子の二人の子供がいた。(八頁)

 こう語られた以降、しばらくはこの「男の子」に寄り添った視点で語られるようになる。「私」はもう出てこない。その後、「男の子」「女の子」「コロンブス」「コジモ三世」「医者」「男」「女」「父」「母」と、視点は目まぐるしく移動するが、この「私」には再登場の機会が訪れない。こうしてわずか三頁後に、「私」は姿を消すのだ。
 この事態は、それこそ、冒頭での「私」の「不安」が、現実のものとなってしまった、ということになろう。つまり、当初は「私」によって語られていたのだが、それはすぐに入れ替わってしまい、最終的にはその異様さに気づかれないまま、読者にも『赤の他人の瓜二つ』という作品にも、忘却させられて終わる。「私」とはいちおう、小説の文法、とりわけ近代以降の日本の文学において、どこか特権的な地位を有している存在である。「私」が語っている。そのことが物語の正当性を担保している、というくらいに。人口に膾炙した例示かもしれないが、『大鏡』は、その語り手に、一九〇歳の大宅世継と一八〇歳の夏山繁樹を据えたのだ。彼らが実際に体験したことを語っている、という体が、『大鏡』のリアリティを支えている。それだけ、だれかが「見ている」ということ、そしてそのひとが「語る」ということが重要視されているのだ。いや、必ずしも語り手の話は信用できない。「信用できない語り手」がいるではないか。もちろんその通りだ。しかし、それはいわゆるメタフィクションの手法のひとつ。メタ、とはつまり批評のことで、語り手は本当のことを語る、という暗黙の了解がなければそもそも成立しない。
 ひとつの小説のなかでは人称をひとつにするのが一般的だ。もちろん、これは視点をひとつにしなければならない、ということではない。一元も多元もあるだろう。二人称小説は例外的な存在だから置いておくとして、一人称か三人称か。細かい分類を抜きにすると、小説は概ね、このどちらかの人称で語られる。
 しかし、近年の日本文学では、この一人称と三人称をひとつの作品内で移動する小説が増えている、という。批評家の渡部直己が「移人称小説」と名付けたものがそれだ。
 要点だけを簡単にまとめると、渡部の「移人称小説」とは、作中で一人称と三人称が入り交じる小説のことである。具体的には、小野正嗣『森のはずれで』、岡田利規『三月の5日間』『わたしたちに許された特別な時間の終わり』、青木淳吾『このあいだ東京でね』、柴崎友香『わたしがいなかった街で』『春の庭』、松田青子『スタッキング可能』など、最近の作品に、そういったものが多い、という。そこには、『赤の他人の瓜二つ』も挙げられている。
 これは現代的な「純粋小説」である、という渡部が念頭に置いているのは、もちろん横光利一「純粋小説論」である。「通俗小説にして純文学」「偶然性」「感傷性」など、未だに議論を呼ぶ、ある意味では悪名高い文章であるが、それを一番複雑にしているのは、そのために必要な「四人称」という、謎の定義である。一般的には、序数としての四、つまり、一でも二でも三でもない人称、と取ることが多いのかもしれないが、渡部は、これを「一+三」の四、と考えられないか、と主張する。それが、一人称と三人称が混在する「移人称小説」ということになり、これが現代の「純粋小説」の形だ、と。(もっとも、ここには横光の語る純粋小説とは大きな差異もある。つまり、横光は、純粋小説は長編小説でなければならない、と主張しているのに対し、現代の「移人称小説」には短編小説が少なくない、ということだ。この長さの問題については、のちに触れたい。)

 

 これより後の部分は、文フリ当日に御覧ください。

 

底本
磯﨑憲一郎『赤の他人の瓜二つ』講談社 二〇一四年一一月

参考文献(試し読み以外の部分も含む、以下他の文章も同様)

安藤宏『「私」をつくる 近代小説の試み』岩波書店 二〇一五年一一月
石原千秋『読者はどこにいるのか――書物の中の私たち』河出ブックス 二〇〇九年一〇月
磯﨑憲一郎『肝心の子供/眼と太陽』河出書房新社 二〇一一年二月
     『世紀の発見』河出書房新社 二〇一二年五月
     『終の住処』新潮社 二〇一二年九月
     『往古来今』文藝春秋 二〇一五年一〇月
     『電車道』新潮社 二〇一七年一一月
     『鳥獣戯画』講談社 二〇一七年一〇月
大岡昇平『現代小説作法』筑摩書房 二〇一四年八月
佐々木敦『小説家の饒舌 12のトーク・セッション』メディア総合研究所 二〇一一年七月
『新しい小説のために』講談社 二〇一七年一〇月
真銅正宏『偶然の日本文学 小説の面白さの復権』勉誠出版 二〇一四年九月
横光利一『愛の挨拶・馬車・純粋文学論』講談社 一九九三年九月
渡部直己『小説技術論』河出書房新社 二〇一五年六月
フォースター『小説とは何か』米田一彦訳 ダヴィッド社 一九六九年一月
http://www.getrobo.com/(閲覧日2018/3/1)

 

                                     『勝手に生きろ』書評 ブコウスキーは正論に対して虚構で対抗する 雲葉 零

ブコウスキーと労働の奇妙なつながり

 チャールズ・ブコウスキーと言われて、思いつくものはなんだろうか。作品名を別にすれば、酒や詩あたりではないだろうか*1時に酔いどれ詩人と称されるようにこのイメージは間違ったものではない。しかし、そんな破天荒なイメージがある彼の作品を労働という観点から見ても面白いのではないか。この書評はそんな一種の変化球である。
 ブコウスキーの他の長編小説と同じように、この小説『勝手に生きろ』も自伝のような作品だ。語り手であり、主人公でもあるヘンリー・チナスキーの言動や体験は、作者ブコウスキーを思い出させる。チナスキーはこの小説だけでなく、『くそったれ少年時代』、『パンク、ハリウッドを行く』、『ポストオフィス』、『詩人と女たち』の主人公でもある。そんなこともあり、時にチナスキーはブコウスキーの分身とも言われる*2
 この小説の中で、チナスキーは勝手に生きている。まさしく邦題どおりに*3。彼は職を変えながら、全米を放浪する。酒を飲み、セックスをし、投稿用の原稿を書きながら。そんなチナスキーにとっては第二次大戦ですらたいしたものではなかった。それは彼が大戦をこう語っていることからも分かる。

(前略)戦争はおれにとって、せいぜいぼんやりとした現実くらいの感じでしかなかった(後略)*4

 ちなみに原因は分からないが、彼は兵役不適合とされている。そんな彼に労働意欲があるはずもない。チナスキーの労働は至って不真面目であり、かつ彼は短期間で仕事をやめてしまう。上司からすれば問題社員、いや問題外の社員とさえ言える。
 この書評の最後にチナスキーの仕事と就業期間の一覧を整理しておいた。期間がはっきりと分かるものの中で、一番長いものでも数カ月にすぎない。思わず、私は彼に賛辞を送りたくなる。すごいぞ、チナスキー。どうやったらこんなに会社を辞められるんだ。こんなチナスキーには働かない労働者という矛盾した形容がふさわしいように思える。
 ここで見落としてはならないことがある。そんな不真面目な労働が、この小説では多く描写されていることである。ブコウスキー、あるいはチナスキーにとって労働は生きがいとは正反対のものだ。しかし、それでも、あるいはそれだからこそ労働が彼らの人生にとって大きな意味を持っているのだ。いわば否定的で重大な意味を持っているということだ。彼らにとって労働は数え切れない死者を出し、大きな歴史的影響を持つ第二次世界大戦よりもずっと重大だったのだ。

 

これ以後は、文フリ当日にご覧ください。

参考文献一覧表

チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ』(2007)    河出書房新社 都甲幸治 訳 
『死をポケットに入れて』(2002)河出書房新社 中川五郎 訳
『パルプ』(2016)       筑摩書房   柴田元幸 訳
桜庭一樹        『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(2009) KADOKAWA

                                     『富が無限に湧き出る泉』 雲葉 零


 ある日、大都市郊外に忽然と現れた泉は様々な情報媒体の関心を引き起こした。平凡な更地に現れたそれの半径は人の背丈の数倍ほどもあった。僅かに緑色に濁った液体が泉の一面を覆っている。その液体に有害性がなかったことは不幸中の幸いとして捉えられた。それにしても、一体これはどういう現象なのか? 説明を求められた地質学者や役人たちは回答に窮した。というのも、これまでの観測記録に存在しない現象であったからだ。
 とはいえ、多くの人々にとって、これは単なる意外な話題に過ぎなかった。数日が経つと、世間はあっという間にこのことを忘れ去った。
 対照的に困っていたのはその土地の地主であった。この一件により、土地にとんでもないけちが付いてしまったからだ。また現状回復にかかる費用も馬鹿にならない。最も彼の富裕な財産からすれば、この損害はごく一部に過ぎなかったのであるが。
 地主は泉の側にじっと座り込み、考えをめぐらした。忌々しい泉だ。温泉でも湧けば儲けになったのかもしれないが。あるいは油田でも湧けば。そんな馬鹿げた妄想をしながら、彼は泉の中を見つめていた。それにしても、一体この緑色の液体はなんなんだろうか?
 そう思って彼は手を入れる。その瞬間である。突如として、黒い液体が湧き出てきたのだ。調査の結果、それは正真正銘の原油であるということが明らかになった。これこそ大騒動の始まりであった。

 

                                     ロボットからのギフトの可能性について~『プラスティック・メモリーズ』所感~
宵野雪夏

 MAGES.所属のシナリオライター、林直孝によるオリジナルアニメ作品『プラスティック・メモリーズ』(以下『プラメモ』)は、「ギフティア」と呼ばれるアンドロイドが実用化した社会を舞台とした、近未来SF作品である。主人公、水柿ツカサは、親のコネで、ギフティアを製造、管理している大企業「SAI社」に入社させてもらう。しかし、彼が配属されたのは窓際部署である「第一ターミナルサービス課」だった。ここでの仕事は、定められた寿命である八万一九二〇時間(九年強)を迎える寸前のギフティアを所有者から回収すること。それは思い出を引き裂く、報われない仕事。
 ここでの仕事は、人間とギフティアがコンビを組んでおこなうことになっている。ツカサがコンビを組むことになったのは、少女型のギフティアであるアイラ。三年間、現場からは離れてお茶くみ係のような役割を担っていたアイラに、ツカサはかつて出会っていた。エレベーターのなかで涙を流す彼女に、ツカサは一目惚れに近いような魅力を感じていた。さまざまな事件や出来事を通じ、距離を縮めていくふたり。しかし、このときアイラの寿命はもう幾何もなかった――。

 この作品は、既存のジャンルに当てはめれば近未来SF作品であろう。科学技術が高度に発展し、ほとんど人間と区別のつかないアンドロイドが生活に浸透している世界、という設定は、これまでもよく描かれてきた世界観である。アンドロイドは、ロボットのひとつの形態、ということができるだろう。本論では、そして、人間とロボットの友情や恋愛、というテーマも、もはや現代の創作作品において普遍のテーマのひとつとなっている。事実、高度に発達したロボットのなかに、知性や感情らしきものを見いだすことは難しくない。極端な話ではあるが、Pepper(ペッパーくん)と「同棲」する女性もいるらしい。このテーマは、もはや空想のものではなくなっている。まさに「近未来」の世界のことであるのだ。
 ロボットの共生は、なかなかの機械音痴である私にとっても、どこか胸躍る未来の可能性である。そして、この『プラメモ』は、人間とロボットの恋愛をストレートに描いている。それも、あまりの優しさで。
 たとえば、『イヴの世界』というアニメーション作品がある。こちらもアンドロイドが一般に普及している世界を舞台にした近未来SFである。しかし、その世界の描かれ方が、『プラメモ』とは対照的だ。ここでは詳しく触れないが、人間とロボット、という問題をより切実なものとして描いているのは、明らかに『イヴの時間』であろう。
『イヴの時間』ではアンドロイド反対団体が存在し、そして人間とアンドロイドが明確に峻別されていること。「ロボットの作る農作物なんて食べられない」などと訴える団体は大きな影響力を持っている。アンドロイドには、一見してすぐわかるように頭に徴が置かれる。また、人間のアンドロイドに対する態度は、まさに人間のために働く機械、語弊を怖れずに言えば奴隷か召使のようなものが大勢で、アンドロイドと恋をしようものなら変質者として社会から弾かれる。
 『プラメモ』は、見た目からだけでは人間とロボットの見分けがつかない。もっとも、ギフティアだって所詮はロボットだろ、と考える民間警備会社アール・セキュリティ社の人間もいれば、SAI社の名前を騙って回収前のギフティアを奪って闇ルートで売り捌く悪人はたしかに存在する。それでも、人間とロボットの関係は、兄弟、親子、孫、恋人、ボディガード、など多種多様で、それが受け入れられている。アイラとツカサの関係についても、それは種族を越えた恋愛が社会的にどうか、というのではなく、絶対の別れのなかで本人たちがこの恋愛をどう生きるのか、ということが問題になっている。人間とロボットの寿命の違い、定められた命とどう向き合うか、心(OS)だけが入れ替わったボディは、同じギフティアといえるのか。そういった問題のほうが話の中心で、実のところ、人間とロボット、という根源的な問題には関心が薄いように思えるし、実際そうなのかもしれない。
 これらの違いは、話の特性の違いにすぎない、と言われてしまえばそれまでである。しかし、根っこは同じところにあるのではないか。つまり、どちらもロボットが進化して、家庭に入り込んでくるようになった世界である。そのなかで、人間とロボットの共生がそれなりに進んだのが『プラメモ』、人間に近いロボットが身近に存在することで、かえって「人間らしさ」にこだわり、住み分けを徹底し、お互いの領分を守らせよう、としているのが『イヴの世界』、といったように。だから、これは究極的には、ふたつの未来の可能性である。そういった意味で、いっけん切実な問題とは無縁に思える『プラメモ』の世界にも、その背後にはやはり、人間とロボット、という重い問題があるのだ。
 その点を考えるうえで、切っても切り離せないものこそが、「労働」である。そもそもの「ロボット」という単語の由来が、チェコ語で「強制労働者」や「強制労働」を意味する単語の語幹をとったところからきている。さらに、そのチェコ語は、ドイツ語で「仕事」を意味する単語と語源を共有している。

 

これ以後は、文フリ当日にご覧ください。

                                     働かないことを夢見た人間たち 雲葉零


 働きたくない。あるいは労働時間が長すぎる。こんな言葉を日常生活で聞いたことは、誰しも一度や、二度ではないだろう。本論考を読んでいるあなた自身、そう考えているかもしれない。しかし、この主張というか愚癡は具体性を持った思想、理論に昇華されていないように思える。
 さらには、思想、理論の名前すら共有されていない。これが他の思想だったらどうだろうか。例えば、生産手段を始めとする私有財産の共有化を謳う者たちには共産主義がある。政府の廃止を謳うものたちには、無政府主義がある。
 何故、働かないことを謳う思想には名前がないのか。ひょっとしたら、働きたくないと考える者達は怠け者だから、理論を考えたり、運動を形成したりすることすら面倒だったのかもしれない。とはいえ、名前がない思想を語ることは困難である。そこで、本論考では便宜的に不労主義*5という名称を導入する。不労主義の中核的な主張は以下のようなものになる。
 人間は働かないほうがいい。もし、働くにしても労働時間は必要最低限度に抑えられるべきである。より具体的には、現実の労働者たちの労働時間よりも格段に少ないべきである。と言ったところだろう。ボブ・ブラック『労働廃絶論』の冒頭文は、不労主義の核心を見事に表している。

 人は皆、労働をやめるべきである。
 労働こそが、この世のほとんどすべての不幸の源泉なのである。
 この世の悪と呼べるものはほとんど全てが、労働、あるいは労働を前提として作られた世界に住むことから発生するのだ。
 苦しみを終わらせたければ、我々は労働をやめなければならない 。*6

 このような不労主義を主張している、まとまった量の論考は少ない。おそらく、本論考で紹介するものだけで、日本語で読める文献のかなりの部分を占めているだろう。もちろん、私の調査が足りなかったという可能性はある。また、和訳されていない文献が多いという問題はある。しかし、それらを差し引いても少なすぎるのだ。これはどういうことだろうか? 
 このことは不労主義にこれまで名前がなかったという問題とも関連していると考えられる。不労主義は、共産主義はもちろん、無政府主義よりも思想的には少数派であるということだ。ろくに文献がなく、決まった名称がないほどに。その意味において、不労主義は先鋭で過激で夢想的な思想と言って良い。
 別の言い方をすれば、不労主義は根源的に馬鹿*7の思想である。例えば、ボブ・ブラックは『労働廃絶論』の中でludic革命を唱えている。ludicとはふざけた、遊びの、という意味がある英語の形容詞である。同じ語源を持つ言葉にはludicrousがある。こちらも馬鹿げた、不条理なといった意味がある。大多数の人間にとって、不労主義は馬鹿げた、不条理な思想であることに違いない。

 本論考ではまず、不労主義の論考を一つ一つ、大まかに紹介していく。そして彼らの主張に共通する部分はなにか、どのように論理展開がなされていくのかを比較検討する。
 最後に、不労主義と空想の関係について考えていきたい。この二つは密接な関係を持っている。その理由の一つはユートピア文学の中に不労主義の主張が見られるからである。しかしもっと根本的には、馬鹿げた、不条理な思想である不労主義は空想的な色を帯びざるを得ないからだろう。

 

これ以後は文フリ当日にご覧ください。

参考文献一覧
オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(1974)講談社 村松達雄 訳
カール・R・ポパー『歴史主義の貧困』(1961)中央公論社 久野収・市井三郎 訳
トマス・モア『ユートピア』(2011) 岩波書店 平井正穂 訳
バートランド・ラッセル『怠惰への賛歌』(2009)平凡社 堀秀彦・柿村峻 訳
ボブ・ブラック『労働廃絶論』(2014) 『アナキズム叢書』刊行会 高橋 幸彦 訳

  細部が異なるが、おそらく同じ訳者による訳文及び、原文が以下のページで読める。なお、本論考は書籍から引用している。
「労働廃絶論        (1985年)」 アナーキー・イン・ニッポン

http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/black1.html

「THE ABOLITION OF WORK」

http://www.zpub.com/notes/black-work.html

 ポール・ラファルグ『怠ける権利』(2008)平凡社 田淵晉也 訳
原文は以下のページで読める。
「Le droit à la paresse」

https://www.marxists.org/francais/lafargue/works/1880/00/lafargue_18800000.htm

(WEBサイトの最終閲覧は全て二〇一八三月二二日である)

マルクス『ゴータ綱領批判』(1975)岩波書店 望月清司 訳

 

 第26回文学フリマ東京

 第26回文学フリマ東京で批評・創作雑誌『ソガイvol.2 物語と労働』を発売しました。

 以下、文フリの開催日等の情報です。

開催日 2018年5月6日(日)
開催時間 11:00~17:00
会場 東京流通センター 第二展示場

その他の文フリの詳しい情報につきましては、以下の文フリ公式サイトで確認してください。

文学フリマ - 第二十六回文学フリマ東京 開催情報

 またソガイのブースはカ-41、カテゴリは評論|文芸批評でした。

ソガイ@第二十六回文学フリマ東京カ-41 - 文学フリマWebカタログ+エントリー

 

f:id:sogaisogai:20180407152935p:plain

 隣のブースはカ-40「クライテリア」さんとカ-42「抒情歌」さんでした。

*1:もっとも現代日本では、名前すら知らないという人が大半だろう。だが、そんな事実はくそったれだ。ちなみに彼に敬意を表して、私は日本酒を飲みながらこの文章を書いている 。

*2:

例えば『パルプ』三二〇ページ。自伝に近い小説を書く作家の作品を読む時には、その作家と語り手の関係をどう捉えるかという難しい問題がある。この書評ではかなり、チナスキーをブコウスキーの分身、あるいはブコウスキーをチナスキーの分身として捉えている。もっとも、この作品に創作部分がないというわけではない。

*3:ちなみに原題のFACTUMは雑役係という意味である。次々と仕事を渡り歩く、チナスキーが就ける仕事は限られている。その内容は主に雑用である。例えば、『勝手に生きろ』一七ページでは、上司がブコウスキーに割り当てられた仕事を「普通、この仕事は大学生にやらせる」と言う。学生がやるような雑用というわけだ。そんなことから、この題名は由来しているのだろう。

*4:『勝手に生きろ』一二四ページ。

*5:あるいは反労働主義、労働廃絶主義とでも言えよう。しかし、私は不労主義という言葉を気に入っている。それは不労、働かないという言葉の主体性の無さにある。

*6:『労働廃絶論』 九ページ。

*7:一応断っておくと、ここでいう馬鹿とは知識量が少ないとか、計算ができないという意味ではない。