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空気のような—鈴木一誌『ブックデザイナー鈴木一誌の生活と意見』

 本という製品において、著者以外の名前にも目を向けるようになったのはわりと最近のことだ。もちろん、本においてもっとも大きく明示される名前は著者である。その他、翻訳書なら訳者、アンソロジーなら編者などはカバーにも現れる。しかし、ときには名前がほとんど挙がらない、あっても、カバーのソデなどに小さく姿をのぞかせるくらいのひともいる。そのひとつが装幀者であり、そしてブックデザイナーであろう。

 鈴木一誌は、そんなブックデザイナーのひとりである。1950年生まれ。1973年に東京造形大学を中退して、日本のブックデザイン史を語るうえで外せない人物のひとり、杉浦康平のアシスタントとして経験を積み、1985年に独立して、いまに至る。

 現在、一般に「装幀」といったときには本のカバーのみを示し、「装幀家」はカバーの表面をデザインするひと、と捉えられることが多いように感じる。従来、「装幀」とは本全体の設計を意味する言葉であった。それがいつから、このような語感をもつようになったのか、その背景はなんなのか、これも重要な問題であるだろうがここでは措く。そのようななかで鈴木は、「ブックデザイナー」を自称している。この自称は、ただの肩書きではなく、宣言にほかならない。鈴木は、現代日本を代表する「装幀家」菊地信義について論じた文章のなかで、次のように書いている。(「個と孤 菊地信義と文字のあいだ」『ユリイカ 装幀者・菊地信義』青土社)

(…)一般的に、「装幀」は本の外装のデザインを、「ブックデザイン」は本文の設計やレイアウトまでも手がけたとき、というように使いわけられる。菊地はある時期から仕事のフィールドを、ブックデザインから装幀へと縮減させた。

(中略)

 ブックデザインは本の内と外を区別しない。かたや菊地の装幀は、外側を強固にすることで内部の強度も高まる、との発想である。

  この文章は全体を通して、菊地を論じながら、「装幀者」である菊地と自分は違うスタンスをとっていることの宣言として読むことができる。それは同時に、菊地の装幀を権威としている日本の出版界に対して、彼がとる姿勢をもうかがわせるものだ。

 余談であるが、鈴木がデザインした本で私が所有しているもののひとつが、角川の『新字源』(改訂新版)である。ここにはしっかり、「ブックデザイン」として鈴木の名前がクレジットされている。いくつかの漢和辞典を見てきたが、この『新字源』はかなり実用性の高いデザインで組まれている、と私は思う。特に音訓索引と総画索引の見やすさは群を抜いている。こんなにも字が小さく、そして扱うものは漢字だから、線も細々しているにも関わらず、探している漢字をしっかり見つけることができる。これは単純なようで、とても難しい。

 実用書の最たるものである辞書こそ、ブックデザインの質が如実に表れるものだ。私は、この『新字源』をもって、鈴木のブックデザイナーとしての腕の高さが証明されていると感じるほどだ。

 

 鈴木一誌はデザインほか、映画や写真について造詣が深い。そんな彼が2005年から2016年まで、さまざまな媒体で発表していたエッセイを集めた本が、『ブックデザイナー鈴木一誌の生活と意見』(誠文堂新光社)である。誠文堂新光社とは雑誌『アイデア』を刊行している出版社で、当誌は鈴木一誌特集を組んだこともある(第379号)。

 鈴木の著作には『重力のデザイン』『ページと力』(いずれも青土社)といった硬派なデザイン論もあるが、本書は「生活と意見」という題からも想像がつくように、柔らかいエッセイ集になっている。長くても3000字程度の文章156篇が年代順に並べられ、1年ごとに書き下ろしの「後日付記」が置かれる。ある意味では「ただそれだけの本」と言えるような、ストイックな本である(本にストイックという言葉を付せるものなのかどうかは、あとで考えたい)。

 かつてこの国で「デザイン」といえば「ファッション」のことくらいしか表せないくらい狭い概念だったそうだが、いまは「デザイン」には様々な言葉がくっついて、むしろ人間が関わるもので「デザイン」でないものなんてひとつもないのではないか、と思われるくらいだ。「グランドデザイン」という、大規模な計画を表す言葉もある。ただの長期計画となにが違うのだろう、と思わないでもないが、計画設計もデザインであることには確かに変わりないかもしれない。

 この本のエッセイの、すべてがすべて、直接的にデザインについて論じているわけではない。しかし、やはり発想の根底にデザインがあることはたしかだ。そうでなければ、道端の雑草を見て「雑草を見るのは楽しい。なぜなら、人為的なデザインとは無縁だからだ」とは感じないであろう。

 アスファルトやコンクリートの縁石の隙間から雑草が伸び、そして花を咲かせているのを見つけると、私も嬉しくなってしまう。なるほど、それは溢れる人為的デザインに窒息しそうな心身に、人為的なデザインの弱いところ(ここでは水の浸透するところ)をついてみせる命が、爽やかな空隙をもたらしてくれるからなのかもしれない。

 この本では、しばしばDTP(desktop publishing)の影響やその実感について論じられている。それまでブックデザインは、それこそ方眼紙やトレーシングペーパー、鉛筆に定規にカッターといった道具を使っておこなわれていた。それがDTPの登場により、これらの工程をコンピュータのモニタ上で完結させることが可能になった。もちろん、これはなにも悪いことばかりではない。編集は容易だし、なにより気軽に本を造ることができるようになった。私自身、その恩恵を大いに受けている。

 しかし考えさせられるのは、DTPによってカラーによる試行が容易になったこともあって、編集者への提案の際に、デザイナーが完成形に近い形での装幀案を、しかも複数案提示することを要求されるようになった、と鈴木が繰り返し語っていることだ。

 それまではモノクロの、字が入る場所にはダミーをいれたもので編集者に説明し、編集者はできあがりを想像しながらゴーサインを出していた。それが、「ちょっとここの色変えて見せて」「ここの字、ゴシックにしてみて」といわれることもあるらしい。鈴木にはこのときが、「編集者が、目の前に気に入った品物が現われるのを待っている消費者に見えてしまう瞬間である」と言う。

 鈴木も、そして私も、技術の進化そのものを否定するものではない。が、鈴木が仮説として提唱する〈一二〇パーセントの法則〉、すなわち「新しい技術が、既成の技術に置き換わろうとするとき、(…)これまでより二割増しの一二〇パーセントのエネルギーを注がないと」元通りにはならないという法則が、ここに姿を現す。

 モノクロ、ダミーのデザイン案を前に、完成形を想像して可否をくだしていたDTP以前。DTP以後、その高度な想像力が放棄された。それでは「一二〇パーセント」のエネルギーを注いでいるとは言えないだろう。その結果、「版面意識」の希薄なデザイナー志望者が増えたと言う(『ページと力』)。版面意識が希薄さは、版面の外、つまり余白への眼差しが希薄であることの裏返しだ。

 個人的な体感だが、本において余白を意識するには、やはり紙の存在が切り離せない。もちろんデスクトップ上でも余白は確認できるのだが、そこでは紙面と背景とのあいだに段差がない。本を読んでいるとき、それが紙に印刷されたものであることはほとんど意識しないのだが、このように「消える紙」を生み出すには、「空気のような本文組」が求められる。先の雑草の例を挙げた鈴木の文章の題は「空気のようなデザイン」だ。空気。見えないけれど、生に必要不可欠なもの。ページにおいては、精巧な版面の設計によって生まれた余白が、紙を空気にする。いまから自分が意識させないようにするものを、まず意識する。この矛盾を介して、それはようやく達成に近づく。

 近頃、大学のレポートでは本文組がめちゃくちゃなものが少なくないという。異様に字が大きい。おそらくMacでWordを起動したときのデフォルト、游明朝、12ポイントのまま作成したレポートや、紙を節約するためだろうか、余白をぎちぎちに詰めたもの。おそらく、提出の前に紙に出力して確認していないのだろう。実際に出力してみれば、自分の作成したそれが読みにくい代物であることは見てわかるはずである。だれかに文章を読んでもらうとき、デザイン(ここでは版面設計)が障壁となってしまっては、読みを阻害する。成績を付けてもらうために提出する文章、一生懸命資料を集めて書いた文章もあるだろう、それをしっかり読んでもらいたいならば「空気のような本文組」を目指さねばならない。ただでさえ、文章に込めた思考が読者に十全に伝わることなどありえない。その屈折が読書のおもしろさとも言えるのだが、レポートにおいては可能な限り、直線を目指すべきだろう。ならば、Wordの設定をちょっといじるだけで自分で操作できる本文組にも注意を払うことは、読者に対する最低限のマナーと言えるだろう。

 ところが、いまや、PCでレポートを作るものも減りつつある。つまり、スマートフォンで作成するのだ。それが一概に悪いとは言えない。道具の変化に伴って文章のあり方が変わるのは当然のことだ。しかしあの大きさ、そして縦横の比のタッチパネルで、果たして余白は意識できるのか。そこでは、大幅に縮小、あるいは一部を拡大していくことになる。このとき、紙は「空気のような」ものではない。もはや存在しないのだ。

 技術により自分たちはなにを得たのか、そして、それまでの技術に慣らされて気づかないで、あるいは忘れさせられていたものはなんだったのか。それを考えて、そして「一二〇パーセント」で臨まなければ、なにかを失う。鈴木の、デザインを基盤に置いた生活への視線からは、失われつつあるものが浮かび上がってくる。

 無限であるかのような選択肢や空間は、本当は有限だ。選択肢が無数にあるかのように、すなわち、提示されたものでこの世界は満たされていると感じる。ここではグラデーションが捨象される。選択肢と選択肢のあいだには、微細だとしても、空隙がある。この空隙を埋めるものはなにか。想像力である。膨大な選択肢は、ときとして想像力を奪う。これは狭義のデザインに限らない。人間関係、政治、経済活動、環境問題……あらゆるものに関わることだ。

 提示された選択肢だけから選ぶ。それは物差しを外部に譲り渡すことにほかならない。まず、自分の物差しをもつことだ。鈴木は、加藤典洋が鶴見俊輔に会ったとき「心のなかに三〇センチの物差をもらった気がした」と述べていた記憶をひいて、「三〇センチ」とは「粗すぎず細かすぎず」に「ちょうどよい」基準だ、と言う。

 数字の大きさを競う世の中で、「三〇センチ」という自分の物差しを心の中に持っているかどうか。ここが、本書のハイライトであると私は思った。

 

 さて、最後に「ただそれだけの本」ということについて考えておきたい。この本のデザインは、非常にシンプルだ。しかし、だからといってただ単に組版ソフトに流し込んだだけではない。

 まず余白の広さ。小口は、本を開いて持ったときにも指がかからない。そして天地。人間の目の錯覚で、反面の中央に版面を置くと、ページのなかにも重力があるからかわからないが、少し下がり気味に見えることが知られている。試しに定規で測ってみた。版面から、天が17ミリ、地が28ミリのアキだ。読む時の目線の動きが、ページのなかで収まる。故に「紙が空気のように」なる。

 そして、見逃してはならないのは見出しであろう。おそらく、拗促音、すなわち小書きの仮名は標準よりも縮小され、そして仮想ボディの右端に配置されている。このようなことは、特別に意識しなければ気づかないようなことである。だからこそ重要なのは、もう繰り返すまでもないだろう。(これは、『ページと力』で鈴木が実演してみせた、タイトルを組む際の手間を思い起こさせる。)

 この本の編集者、郡淳一郎は編集後記で、「(イッツ・オンリー・ロックンロール的な意味で)」の「ただの本」を目指したと言う。これをあえて言い換えるなら、きっと「空気のような本」となる。 

言葉はビジネスや娯楽や私有のための情報やコンテンツなどでなく、水や土や空気と同じ公共財であり、本はエンドユーザーを分断統治するため配給された端末とは対極的に、物事の大本に帰属する「みんなのもの」であるから。アルドゥス・マヌティウス以来、人文とは出版とともにあった。出版物〈ルビ・パブリケーション〉は公共性〈ルビ・パブリックネス〉を本義とする。本の美しさは公正さ〈ルビ・フェアネス〉をいう。(「編集後記」より)

  いま、本は、そして言葉は「空気」たり得ているだろうか。まさに言葉が氾濫する時代だからこそ、しばし立ち止まって考えなくてはならないのかもしれない。

 

(2023/08/27追記)

鈴木一誌氏の訃報に接した。出版という営みを根となる部分から丹念に考え続け生きた氏の死は、もしかしたらあまり多く語られることはないのかもしれない。しかしながら、彼の残した作品、そして言葉を、私は今一度、嚙み締めたい。

商品には消費者目線が必要だとよく言われる。よい消費者はよい商品をつくれるのか。表現が、消費者目線から生まれるとは思えない。どこかに、現在への批判や批評をふくんでいなければ、〈新製品〉にすらなりえない。重力なり水圧のないことばや表現は人びとに届かないだろう。どうしたら表現を、上からでも下からでもなく、路上や巷、マチバや平場を水平に貫く横殴りの風にできるか。その問いをたなごころにのせて考えてみても、解答への端緒はみえないようだ。〈小ささ〉に突破の可能性があるのではないか。(『ブックデザイナー鈴木一誌の生活と意見』371頁)

「重力」や「水圧」のない、「消費者目線」の言葉や表現の氾濫に辟易している。だが鈴木は、最後の最後までその突破の可能性を模索していた。であれば、まだ若いと言える私が匙を投げるのは違うのではないか。

地に足を着けて、言葉や表現、そして現実と向き合いなさい。そう言われているように、今の私には感じられている。

 

(矢馬)