ソガイ

批評と創作を行う永久機関

文章を読む・書くということについて、最近の私が考えていること

 私が本格的に読書を生活のなかに入れるようになったのは、せいぜい五、六年ほど前のことでしかない。

 まあ当たり前のことと思われるが、自分の好みを知るためには、自分が好まないものも知っていなければならない、と私は思っている。そして、ひとりの人間などというものがすべて一貫しているとも思わない。もちろんすべてがすべて、常に変化する可能性をはらんだ形のないものだとは思わないけれど、常に一貫した人間でなければならないとすれば、それはけっこう息苦しいことだと感じる。

 それを言い訳にしているのではないが、私の読書傾向というものも、ここ数年でそれはまあ、変化を繰り返している。大学の文芸サークルに入会した当初に挙げていた好きな作家は、いまとなっては見る影もないほどだ。もちろん、嫌いになったわけではないけれど。

 さて、人間、もともとは初心者。にわかはだめだ、などと若かりし頃の私は自分を棚に上げてずいぶん愚かなことを言っていたが、それこそがにわかの証拠。しかも、それを認められないでいる小心者。上を見ればきりがない。結局、自分などはそんなひとから見ればにわかでしかない。私の場合、それを素直に認められるようになってから、なにか一歩、進んだような気がする。

 そんな自分は、周りの本を多く読んできたひとたちなどの話を聞くなかでいろいろな本を読んできた。そのあたり、私は柔軟だったと思う。もっとも、ただ自分というものがよく分かっていなかったからだ、とも言えるだろう。しかし、それを言ってしまえば、いまだって自分というものはよく分からない。そしてたぶん、それはこの人生の終わりまでよく分からないままなのだろう。いや、もしかしたら死の間際くらいには、少し分かってもくるのかもしれない。

 話を戻すと、これはどんな趣味や業界にも言えることなのだろうが、やっぱり、人間、玄人ぶりたくなる時期というものがある。私もたぶん、そうだった。小説で言えば、いろいろと技巧が凝らされている、(ちょっと怒られそうだが)玄人好みのものがある。そういった作品を、批評的用語、観点から評価することにたのしみを覚えていた時期が、まあほんの一時期だけあった。これは、深さを追求しないのなら、実は手っ取り早く上から目線になれるし、けっこう気持ちいいものではあるのだ。真剣に取り組もうと思ったら、もちろんこれも大変なことである。

 しかし、ある日、といえるほど明確ではないので、ある時期としておこう。あらゆる小説や漫画をその視点から読もうとしている自分がいることに気づいた。そして、いつしか読書がただの勉強になり始めていることにも。

 いや、その読み方も一概に否定できるものでもない。研究としては、それも正しいことだと思うからだ。ただ、自分が果たしてその読み方に魅力を感じているのかどうか。

 あの日、それはなにかしらの表現する者を志した日、私が数多の作品から感じ取ったものとは、そういうものだったのだろうか。自分に問いかけてみる。当時は断言できなかったが、いまならもう少しはっきり言える。答えは否だ。

 そして、どうやら私の肌に合うらしい作品たちは、こういった研究や批評の対象になる主流の作品からどうしてもこぼれてしまうような、いわば傍流の作品にあるらしいのだ。

 いわく言い難いものを言葉にするのが物書きの使命だ、とはよく言われるし、その意見もよく分かる。しかし、世の中にはやはり、そういったいわく言い難いものというものがあるように思われる。ああ、いいなあ。吐息混じりにそんな一言をもらすことしかできないような作品が、きっとどんなひとにもあるはずだ。そして、そういったものの方が案外ながく心に残っているものなのだ。少なくとも、私はそうらしい。

 漠然とそのようなことを感じていた今日この頃だったのだが、ちょうどそんなときに、こんな北村透谷の言葉を知った。

余は是れを記臆せんがために時と紙筆を費やす者なり(「一生中最も惨憺たる一週間」より)

 この「是れ」とは、恋愛関係にあった石坂ミナという女性への想いを断ち切ろうとした一週間のことである。しかし、ここの「是れ」には、どんな物事だって入れることができるだろう。

 この言葉を教えてくださった方は、この言葉をひいて、ここには物を書くという行為の意味が完璧に要約されている、と言っていた。まさにその通りだと思う。私が最近、私小説的(あえて「的」と付けるが)を好んでいる理由のひとつにもなるかもしれない。

 私は、一人称の匂いなくして、物事は語れないのではないか、と最近思っている。おそらく大学のレポート、論文などで「私は~思う」なんて連発した日には、低い評価が返ってくることもあるだろう。

(もっとも、私の学部時代の卒業研究を読み返すと、かなり「~と思う」やら「だろう」やら、果てには「~と思われてならない」などと、明確に「私」という文字こそは現われていないが、ずいぶん「私」が出ているものであった。
 これは、分野が文学であったこと、そして私の所属していたコースがやや特殊な環境であったこそ、ゼミに所属しない少数の学生であったこと、指導教授が「論文もひとつの「作品」として見ているし、そのつもりで書いて欲しい」とおっしゃっていた方で、あとから考えると私に合っていた方であったこと、などなどが幸いしたのだろう。)

 事実、レポートの書き方について説明してくれている本やサイトでは、そのような主観的な言葉、ならびに推量的なニュアンスは出さないことを勧めている。

 ここで私は、レポートの文体を否定したいのではない。しかし、これはレポートではないのだから許されてもいいだろう。私は、基本的に断定に抵抗が生まれている。そして、自分の意見が普遍的である、という感覚を拒んでいる節もある。そう考えると、このブログのそもそもの出発点もそのあたりの違和感にあったのかもしれない。

 結局、私は享受者だったということだろうか。

 これまで書いてきた記事を読み返すと、なるほど、たしかにこれは一般的な批評とは言えないだろうし、立派な解釈といえるほどのものでもない。言いようによっては感想ということにもなるだろう。なにより、かなり自分の話をしている。なので、万が一、いま大学生でレポートを書く機会が多い、特に人文系の学生がこれを読んでいるとしたら、これは絶対に真似してはいけない。教室か、あるいはTwitterかなにかで叱られてしまうことになるだろう。(正直、大学の教授がSNSで学生のレポートについて批判するのはいかがなものかとも思う。)

 もっとも、それすら無視して自分の意志を通そうというのなら、私個人としてはその意気を買いたい。もちろん責任は負えないが。

 北村透谷の話に戻るが、書くという行為には時間が必要だ。それを選んだからには、その時間はほかのことができない。もちろん、それはどのような行為についても言えることではある。が、そう考えると少なくとも書くという行為は、いっけんだれでもできる手軽なものに思えるかもしれないが、ほかの行為と同様にはそれなりに重いものを背負っているとも言えるかもしれない。

 そして、私の実感としては、それなりに真剣になにかをそこにそそぎ込もうとすれば、それなりの紙幅を必要としてしまう。それだけ、やはり時間はかかってくる。いわゆるコストパフォーマンスがあまりよろしくはないことは確かだ。

 もちろん、そう感じるのは単に、私に要約の能力がないだけだからなのかもしれない。しかし、短ければいいという問題でもないだろう。そして、これも私の感覚でしかないが、短すぎる言葉には、どこか一人称の匂いが欠けている。箴言というものがあまり好きになれない理由もそこにあるかもしれない。もちろん、書かれたものには一定の普遍性があるとは思う。思うが、あたかも自分の考えは全体の総意だ、といったような態度でこられると、こちらとしては鼻白んでしまう。というより、単に自分がそのような言説が好きではないからなのかもしれない。

 いったいなんの役に立つのかはわからない。しかし、困ったことに私が魅力を覚えるのはその類の文章であるようだ。それでも、読むものと書くものは違うとなれば、まだよかったのかもしれない。が、少なくとも私には、読むことと書くことを分けて考えてかつ実践できるほどの器用さはなく、書くものが読むものに影響されてしまうことは避けられない。いや、もともとの自分がこれだったという可能性も考えられるが、それはそれだ。

 たぶんこれからの私は、衆目を集めるような性格の文章を、それほど書いていかないだろう。しかし、そう考えるようになってから、少し気持ちが楽になってきたのも事実だ。

 これは、いわゆる売れる文章を否定しているのではない。売れるものが書けるひとは、それをどんどん書いていけばいい。まあ下品なものは個人的には嫌いだし、明確にひとを傷つける、蔑むものに至っては論外だと思うが、ともかく、売れるから、というひとつの結果だけで不当に評価されるのもおかしい話だ。

 同時に、あまり目立たない文章を書いてしまうひとは、それを書いていけばいいのである。幸いにして、いまはそんなまったく売れない文章をあげる場なら、いくらでもあるのだから。

 ここまで長々と話してきたわけだがまとめると、べつに各々、好きに読んで好きに書いていればいいのではないか、と最近は思っている。読書や執筆を神格化しているひとは、それこそ読書好きや物を書いているひとのなかにも少なくないようだが、あえて言うならば、プロでもない限り、しょせんは趣味のひとつに過ぎないではないか。

 なので、私の願いを言うならば、もっとみんな、気軽に物を読んで、そして書いてみてくれればいいのにな、と思う。恥ずかしいかもしれないが、そもそも物を書くこと自体、自分を目の前に見せられて、非常に恥ずかしいことなのだ。でも、恥ずかしさだってそのひとの一部なのだし、むしろ妙に澄ましている文章は、私にはあまり魅力的に思えない。

 そして、これをブログにあげている身としてはおかしなことを言うようだが、べつに書いたものを公開しなくたっていいのだ。事実、私のパソコンや引き出しのなかには、発表のあてもない文章がごろごろある。そもそも最初にあげた記事だって、ただ勢いに任せて書いただけで、だれに見せようとか、そのときにはまったく考えていなかった。(しかし、そういった経緯で書かれた文章の方が、あとから読み返すと熱のある文章になっているのだから、不思議なものである。)

 けれども、そこに少なくともひとり、自分という読者がいる。自分の目が入ることによって、自分の頭が整理されている、あるいは自分の知らなかった自分が発見されることもある。それがおもしろくて、だからときにつらいことがあっても、書くことはやめられない。

 ともかく、ひとりの人間の体験談として言えることがある。

 書くことは、ときにはつらいこともあるし、けっこう恥ずかしいものでもあるけれど、なんだかんだ楽しいものです。そして、文章を書くようになってみると、読みが思わぬかたちで広がることもあります。読書を趣味にするのは間違っている、などと言う就職活動について語っている記事を私は読んだことがありますけれど、楽しいのだから、べつに趣味でもよかろう。少なくとも私には、読書をなにかの役にたてようと思ったことはない。しいて言うならば、人生のなんらかの役には立つかもしれない。

 自己アピールに有用な「実学」ではないが、そういった意味では、読書やものを書く行為は実学とも言えるのだろう。

 むろん、それはきっとどんな趣味についても言えることなのだと思う。ゆえに、私はこれからも、趣味は読書、と言うのであろう。

 

(文責 宵野)