ソガイ

批評と創作を行う永久機関

『ソガイvol.5』ネット通販のお知らせ(試し読みあり)

『ソガイvol.5』は第三十回文学フリマ東京で発売予定でしたが、中止になりましたので会場販売は次回の文フリになります。ただし、冊子自体は完成済みですのでBOOTHでネット通販を行います。

https://sogai.booth.pm/

 

以下、試し読みを公開します。収録作品は以下の通りです。なお、本号については特定のテーマは存在しません。

「いま本を造るということ    ――これからの出版論のための覚書」 矢馬潤

約27000字

「パッセージ」 長谷川美緒約5000字

「ベターシング」 冨所亮介約1700字

「強い言葉、弱い言葉」 荒居宏平約7000字

「反復への恐怖 小説『サバイバー』書評」 雲葉零約4000字

                                                       「いま本を造るということ    ――これからの出版論のための覚書」 矢馬潤>

(序章を省略して第一章から試し読み開始)

一 本造り

 日本エディタースクールは、一九六四年に開校した、編集者や校正者を育成する教育施設である。この講座のためのテキストを造る目的もあり、ここは出版部も持っている。それが、日本エディタースクール出版部である。出版部はテキストのほかに、出版にまつわる学術書も刊行しており、なかには近代の読者、読書空間を子細に論じた永嶺重敏の著作のような重要な本がいくつもある。

 『新編 出版編集技術』(以下『新編』)は、日本エディタースクールによって編まれた、出版の仕事のすべてをまとめたテキストである。この『新編』は一九九七年の刊行であり、さすがに現代と環境が異なるものの、いまだみるべきところの多い良書だ(まさに出版のピーク時に刊行されていることが、また考えさせられる)。

 で、新編というからには、その元がある。それが『出版編集技術〈第二版〉』(一九七八年)(以下『〈第二版〉』)であり、さらに遡り『通信教育 出版編集技術』(一九六八年)だ。その著者が、藤森善貢(ふじもりよしつぐ)。一九三二年に岩波書店に入社して『広辞苑』や『日本古典文学大系』などの作製を担当、退社後はほるぷ出版の顧問を経て、日本近代文学館復刻全集の製作顧問となる。特に造本について研究し、日本エディタースクールでも講師として活動していた。

 この『新編』は、藤森が一九八五年に没した後に編まれた(ゆえに、『新編』はそのすべてが藤森が記したものとは限らない)。B5判、九ポイント横書き二段組みで、上下巻合わせて七〇〇頁強の分量を誇り、企画や編集、校正や装幀はもちろん、定価の決め方や法律関係に印刷機、果てには「本の良し悪しの見分け方」という章まであることから分かるように、まさに出版ということについて網羅しているテキストだ(『〈第二版〉』はさらに厚い)。ここに「本ができるまで」という図があるが、これだけの膨大な流れが本造りには求められるのか、と途方に暮れる(図2)。

 毎日のように新しい本が刊行されるから勘違いしてしまうかもしれないが、本来、一冊の本を造るには時間もひとの手もかかり、大変なことなのだ。

 これは藤森の言葉ではないだろうが、本書でも、これだけ多くの本が造られる状況に対し、おそらく皮肉交じりに、こんな感想をこぼしている。

〝出版年鑑〟によれば、わが国の一九九五年度の新刊点数は5万8310点であり、よくもこんなに新しい本ができるものだと驚かされる。(上巻、二五頁)

 

 序文に、『〈第二版〉』刊行時の藤森の言葉が収められている。

 

 この書の出発点となったものは、今から十数年前に刊行された〝出版技術入門〟(日本印刷新聞社、昭和40年、絶版)である。それまでの本づくりの仕事は、出版社のみの仕事とされていたが、この頃から一般の会社でも社史をつくったり、PR誌や社内報の発行が盛んになり、個人でも、遺稿集や詩・歌・俳句集、あるいは写真集などを自費出版する例も非常に多くなった。(ⅰ頁)

 

 このように本造りは一般的になり、広く興味も向けられているにも関わらず、出版社では口伝えで仕事が受け継がれ、体系だったものがないのが現状だったという。そして、こうしてひとつひとつの知識が有機的に結ばれていないために造本の技術が上がってこないのだ、と藤森は分析する。このような問題意識から生まれたのが、この『出版編集技術』なのである。

 本造りが一般的になっているということ。ここはまさにいまと通ずる。だから、このテキストは現代においても大いに参考になるであろう。そこで説明されている技術がいまやほとんど使われていないものだったとしても。 裏を返せば、いまこのテキストを読むときただ方法論に終始するのではなく、このテキストが編まれるに至るまでの精神性や思想、いや、あるいは詩想(ポエジー)と言ってしまってもいいだろう、そこに目を向けなければ、あまり意味がない。それは表層をなぞるだけになってしまう。

 

 他人の書法に模擬せんとすれば始めは必ず拙き字を書くべし、是れ其形を見て其神を見ざるが爲なり(正岡子規「筆まか勢」)

 この『新編』は、原著者である藤森の詩想をしっかりと受け継いでいるテキストだ、と個人的には思う。

 少し寄り道をしてしまうが、ここでは現代の書籍の装幀について論じた長田年伸の言葉が共鳴する(「装丁表現が書体表現にすり替わらないために」『ユリイカ 特集・書体の世界――書・活字・フォント』所収)。

 水戸部功が装幀したマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(鬼澤忍訳、早川書房)の、白地にタイトル、著者名、訳者名、出版社の文字だけがスミ一色で刷られた非常にシンプルな装幀は、商業的に大成功を収めた。その結果、同様の装幀が書店にあふれる現象が生じた。これについて長田は、水戸部の「テクストに肉迫し、そこから透徹したコンセプトを立ち上げ、それを徹底的に表現につなげようとする態度」が、サンデルの作品にこのような装幀(しかも、一見、ただ字を並べただけのこの装幀には、細かい操作がおこなわれている)を要求したのであって、間違っても目的ではない、と言う。

 

 この態度こそが、いまの装丁が抱えるジレンマを解消するためのひとつのヒントになる。なにを考え、なにを見据えて、書体を選び、文字を組むのか。書体を使うために、装丁する人間はなにを考えなければならないのか。水戸部功的なあり方が唯一絶対の答えでないことは当たり前だけれど、表層を追うのではなく、その裏側にある精神性に注目しないことには、ただの模倣を繰り返すだけになる。スタイルではなくコンセプトに目を向ければ、なにを学び真似ベばいいかは自ずと浮上してくる。(二七九頁)

 

 これが装幀の話にとどまらないことは、言うまでもない。そもそも長田も、出版現象のひとつのかたちとして装幀を論じている。

 話を『新編』に戻そう。この本がまず、本の概念を確認するところから始めていることは見逃せない。そもそも、あなたが作ろうとしている本というものがなんなのか、それを知らないのは言語道断だ、ということだろう。しかし、これを定義することは思いのほか困難だ。それを認めつつ、ここでは「本」の五つの条件が挙げられている。

 一・内容のあること。二・持ち運びが容易にできるものであること。三・紙葉がばらばらにならないようになっていること。四・中身とそれを保護するもの(表紙)があること。五・ある程度の分量があること。これが、いちおう狭義の本の条件となる。言われてみれば当然のことに思えるが、これをすべて満たしたものを造るのは、案外大変だ。 そして、そこからは子細に、本の各パーツの名称や、本文の造りについて説明されていく。これも納得だ。アクセルとブレーキ、シフトレバーとハンドルを区別できない人間に車は設計できないし、任せられない。自分が造ろうとしているものが、どこまで細分化できるのか知っておくこと。名詞には分節化の役割がある。その名詞を認識していることで、初めて私たちはそれを別個のものとしてみることができる。

 しかし、この章の白眉は「1︱6 本の正しい扱い方」の項だろう。ここに写真入りで説明されているのは、本の開き方、頁のめくり方、函からの出し方、保管の仕方といったものだ(図3)。

 藤森はほかのところでも、本の使い方を知らないひとが多いことを嘆いている。なぜ彼が、ここまで本の扱い方にこだわるのか。本を慈しんでいるから? それもあるだろう。が、彼には、本はまず道具である、という意識がみられる。  彼がとりわけ造本に精通していたことは紹介したが、彼はまず、本を造るときにはそれを買ってくれる読者のことを考えるところから始めなくてはならない、と言う。その意識が、次のような造本に対する基本的な考えにも繫がってくる。  

 第一に、本づくりというものは、その本の原稿の内容によって制約され、規制されるということです。内容が造本形態を制約するのです。

第二は、本づくりは、その本の用途によって造本形態までが規制されてくる。

 第三は、その出版社の刊行意図によって本の形態までが規制される。(『本をつくる者の心―造本四十年』二一二頁)

 

 「制約」「規制」という言葉が目立つ。これはネガティブな意味で用いられているのではない。藤森に言わせれば、中身を理解し、このような考えをしっかり持ち、かつ製本についてちゃんとした知識を持ってさえいれば、造本形態は相当に限定される。その中から選択すれば、大きく誤った変な本はできないはずだ。そういうことであろう。造本に唯一絶対の正解はたぶんない。が、だからといってまったくの自由でもないから、不正解はある(たとえば、『大辞林』の紙を厚くしたり、開いて置けないような背の固い上製本にしたりするのは、たとえ高級感があっても間違っている)。そのため、少なくともできあがってから遡及的に、その造本が正しかったことが分かる造本でなければならない。使えるから道具なのだ。

 たとえば、彼はとにかく、本がちゃんと開くことにこだわる。なぜか。本とは中を読むために造られたものだからだ。しっかり開かなければ、読むのに不便だ。どんなにデザインが良い掃除機でも、ゴミをほとんど吸えなかったら掃除機としての役割は果たさない。それとまったく同じだ。当然である。そのはずなのに、読みづらい本というのはけっして少なくない。開かない。ノドに字が巻き込まれ、背を割るくらいの勢いでなければ読めない。紙が硬くめくりづらい。頁いっぱいに文字を詰め込んで余白が狭く、可読性が低い。といったように。

(試し読みは以上です)

                                      「パッセージ」長谷川美緒

 滑り始めは、体がずれているような感じだ。準備運動をしておくべきだった。リフトを降りて、最初の傾斜へと体を倒す瞬間に思う。思う間に、滑り出す。板がわたしの意志とは無関係に、ギプスのように硬く大仰な靴を固定したまま先へ進み、スキーバスの浅い眠りから醒めきっていない背中がふいを突かれてのけぞる。

 新雪の斜面を存分に楽しめるよう薄くワックスの塗られた板の速度に、追いつけない。気持ちゆるめに締めたふくらはぎのところの留め金が引っ張られて、靴の中に遊びが生まれる。サイズの合わない宇宙服を着て無重力空間へ躍り出た無資格の宇宙飛行士がいたら、こんな気分かもしれない。へっぴり腰で滑る。来なければよかった。雪へ身を乗り出す始めの時には、必ずそう思う。

 色とりどりの爆竹をコンクリートの地面に撒き、踏みつけると派手な音がする。パアン、パアン、と空気を壊す音に、腹の底から恐怖がのぼった。小学校低学年の頃だ。平気なふりを装い、適当な理由をつけて帰り支度を始めたわたしを、同級生たちの粗雑な笑いが追いかけてくる。――逃げるのお? キャハハハハ。ちょうど同じ音程で歓声を上げながら、蛍光色のウェアを着た男女のスノーボーダーが、すぐ横を追い抜いていく。カラオケも、遊園地も、修学旅行も、放課後のファミレスでのおしゃべりも、着ぐるみを着て舞台に上がるショーの時間だった。誰かと会う約束ができると、鏡の前に陣取って髪の毛をアップにし、念入りに化粧をし、衣装を決める。自分で作ったわたしにわたしはおおむね満足していたけれど、着ぐるみと体との間には常に隙間があって、その空隙を意識するのはとても怖かった。だから見てしまわないように、自分の役を演じることに集中した。うまく演じられると、その日は一日とても誇らしい気持ちでいられた。舞台の上で、観客から割れるような拍手をもらっている気分。逆に失敗すると、着ぐるみの中の体だけが底の見えない暗がりへずるりと落ち込むのが分かる。もう這い上がれないのではないか。そう思って不安に駆られた。暗がりに落ちたわたしの姿は誰にも見えない。着ぐるみだけが舞台に残り、笑いを貼りつけた顔を照明の中に浮かび上がらせている。

 天袋に片付けておいたスキーウェアを、一年に一度だけ引っ張り出して着る。ゲレンデに出ると、デスクワークに明け暮れ、運動らしいことはろくにしていない鈍った体が悲鳴を上げる。井戸の底で眠っていたところを揺り起こされた、小さな丸腰の生きもの。一年に一度だけ、生きものは目をこすりながら地上に出て、懐かしい服の中にまた戻ってくる。

(試し読みは以上です)

                                        「ベターシング」 冨所亮介

(途中から途中まで)

男話す騒然(という言葉は静かだ

   「If you can't treat someone with dignity and respect, then get out.

 

ある日YouTubeでレコメンドされた

アメリカ空軍士官学校予備校でのS中将による五分ほどの声明 その動画には日本語字幕が付いていて 賞讃のコメントがあふれ とおい絵空事への中空 地に足の浮いた亡霊を見るような気分で ただぼくは彼の言葉よりも訳された言葉ばかりを反芻する

betterを よりよい とポジティヴに(いまの空気みたく 訳すものだと生真面目に馬鹿正直に考えていたぼくには ましな とネガティヴで けれどずっとシンシアに 転移されてきたbetterがいたくひびく よりよく だなんてナイーブにはもどれず もっとましに 生きると思うほかない くらい抑圧とは相容れぬもっとましな

(試し読みは以上です)

                                        「強い言葉、弱い言葉」 荒居宏平 

 僕は、YouTubeをよく見る。

 

 社会人になってからはますます閲覧時間が増えている。そういった人は、僕に限らないのかもしれないから、〝僕たち〟は、YouTubeをよく見る、と書くべきか。いや、僕と同じ傾向をもつ人たちのことを知っているわけではないし、 〝僕たち〟、と書くのはおこがましい。これから書き進める内容によっては、〝僕たち〟に含まれなかった人たちを不当に貶めることにはならないか。そもそも〝僕〟という人称はとても厄介でできれば使いたくない。〝僕〟からは、あまりに気持ちが漏れ出てしまう。自慰行為を見られているような恥ずかしさすらあるけれど、〝俺〟と書くほど、僕には自信が備わっていないし、不遜さを感じてしまう。〝私〟と書くほど、精神年齢が高くない。本当はそんなのただの思い込み過ぎなくて、何を使っていいのだけれど。単に〝僕たち〟、ではなく、こう書いてみる。

 

 僕と何人かの人たちは、YouTubeをよく見る。

 

 ただ、今から言葉を尽くして語りたいのはとても私的な生活のことだ。けれど、きっと同じようなことを考えている人たちがどこかにいて、その何人かの人たちの存在をかすかに感じながら、こう書く。そして、書き進める。

 

 僕は、YouTubeをよく見る。

 YouTubeで見るジャンルは大いに偏っている。好きなアーティストのMV、新作映画の予告編なんかを見ることも多いけど、一番はゲーム実況だろう。同世代の人に比べて、ゲームをプレイしない方だが、僕は、ゲーム実況が大好きだ。レトロゲームの実況、最新のゲームの実況、インディーゲームの実況、どれもまんべんなく見ていると思う。ゲーム実況の何が好きなのか、と聞かれると、やはりゲーム体験をした人がどういう気持ちを抱くのか知りたいということなんだろう。僕の好きなMOTHERシリーズやUNDERTALEのラスボスとのバトル動画は、定期的に見返してしまう。自分が感動したあの瞬間を実況者も体験していることに喜び、コメント欄に書かれた感動の言葉、自分のプレイ体験なんかを読んで、やっぱりこのゲームは神ゲーだったよな、と気持ちを新たにする。関連動画を漁っているうちに、あっという間に日をまたぐ。

 昔のことは知らないけれど、今ほど多くの人たちの言葉に触れることのできる時代はないのだろう。僕は、名前も顔もその人のことで何一つ知っていることはないのに、YouTubeのコメントやTwitterのつぶやき、Yahooの映画レビューなんかに書かれている熱のこもった文章を読んで、僕は嬉しくなったり悲しくなったり、怒りを覚えたりする。アイドルを応援することに熱中している時期、その界隈にしか通じない言葉を使って、ネット上でワイワイ楽しくやっていたこともあったし、ネットスラングを多用して、中身のないことを言い合ったりして、日々を消費していた。そういう時期から少し月日が経ち、就活でもしようかと動き始めた頃、自分のブログにこんなことが書いてあった。

 

 アイドルのことをある程度追っかけていた時期と今で1番変わってしまったことは、コールをするときにも醒めきった自分が相変わらずいることで、ライブの一体感よりも周りのファンの打ち込みようを肌で感じて疎外感を覚えてしまう。この先アイドルのライブに行ってもこういう感じになってしまうならもう行けないな…。 ファンがオタク的な活動をしてしまうほど、アイドルはアイドルの文脈でしか生きられない…? 今はとにかく現実をひたすら見つめていたいし、局地的にしか通用しないことより普遍的に響くものの方が共感できて、多分そんなことが影響して、アイドルの現場に行くことに少し抵抗があるのだ。 (〝痛々しさ〟、on the road, https://aoccoon.hatenablog.com/archive/2015/05/24(参照二〇二〇年三月一二日))

 この頃は、内輪ネタというか、特定の人たちにしか伝わらないようなものへの嫌悪が強い時代だったのかもしれない。それはなんでだったんだろう。疎外、という言葉を使っているが、今思うと、オタク的言語が外側の誰かを全く想定していないというか、存在していないように振る舞う態度が嫌だったんだろう。内輪ネタとか、こういうネットでの言葉、ということを考えていると、柴崎友香の『公園へ行かないか? 火曜日に』での描写が頭をよぎる。

(試し読みは以上です)

                                        「反復への恐怖 小説『サバイバー』書評」 雲葉零

 一昔前にヒットした映画『ファイト・クラブ』の原作者であるチャック・パラニュークの作品ではあるが、『サバイバー』(以下、本作)は日本ではほとんど無名の小説である。そういう意味でいえば、私がこの作品と出会えたのは幸運だった。そもそもこの作品と私が出会ったのは高校生の頃だったと思う。きっかけは、『ファイト・クラブ』からパラニュークを読み始めた知人が本作も持っていたからである。それで借りて読んでみたのであるが、白状してしまうと始めはつまらなかった。面白さのあまり寝食を忘れて読み進めるという、ありふれたキャッチコピーがあるが、それとは正反対の読書体験であった。いろいろと原因はあるが、単純に私が海外文学を読みなれていたかったことが大きいだろう。読書遍歴を披露すると小学生のころにはおよそ文学的な小説はほとんど読んでいなかった。中学生のころになって、せいぜい芥川など日本文学を少し読み始めたぐらいだろう。それでも私は本作を少しずつ読み進めていった。その理由は今となってはあいまいではあるが、せっかく読み始めたのだから最後まで読み終えたかったのだと思う。つまり意地を張りたかった、背伸びをしたかったからではないか。案外、新しい小説ジャンルを開拓したいときにはそんな気持ちが必要なのだろう。頑張って読んでも金がもらえるわけではないのだから、つまらなければ読まなければよい。そういう発想しかなければ、読書世界は広がっていかない。

 ともあれまずは時系列順に(実際はもっと錯綜しているが)あらすじを紹介することから始めよう。主人公は外部から隔絶されたカルト教団で生まれ育ったが、現金収入を得るために家政夫として教会から一般社会に派遣される。しかし、教会は集団自殺事件を起こし、主人公は他の派遣労働者達と共に数少ない生き残り=サバイバーとなる。やがて他のサバイバーたちが次々と自殺したり、殺されたりしていくことになって、主人公は唯一のサバイバーになる。そこ目を付けたエージェントによって祭り上げられた主人公はヒロイン、ファーティリティの予知能力も利用して、新興宗教の教祖のようになっていく。

 本作はあらゆる面で既視感に溢れている小説である。形式面では、主人公が死の直前にフライトレコーダーに自分の人生を告白するという体裁で始まっていることが挙げられる。つまり、語り手である主人公は自分の体験を思い出しながら語っているわけだ*1さらに冒頭で主人公は、これまた未来予知ができるファーティリティの兄から電話相談を受けるのだが、彼が語る飛行機の墜落とはまさしくこの物語の最終場面に他ならないのである。つまり飛行機をいつのまにかハイジャックしてしまった主人公による墜落である。だからこそ、主人公はフライトレコーダーに自分の人生を録音するわけである。初読では気づきようがないが、始まりからオチがついているのである。 また、家政夫としての仕事に飽き飽きした主人公はこう述懐する。

 

 十六年間、来る日も来る日も個人宅で働いたあげくにもっとも深く学んだのは、平手打ちを食らった頬、クリームコーン、黒痣のできた目、丸めた背、泡立てた卵、蹴られた向こうずね、傷ついた角膜、玉ねぎのみじん切り、あらゆる種類の咬傷、ニコチンの染み、ベッド脇の潤滑剤、へし折られた歯、裂けた唇、ホイップクリーム、ねじり上げられた腕、膣の裂傷、細切りにして胡椒を混ぜたハム、煙草の焼け焦げ、潰したパイナップル、ヘルニア、中絶、ペットのつけた染み、刻みココナツ、えぐり出された目玉、捻挫、それに皮膚線条についてだ*2

 

 現実には、同じ雑用を繰り返す日常の些事に埋もれることしかできない。 掃除すべき暖炉がある。 刈るべき芝生がある。 ワイン保管庫の全ボトルを回転させなくてはならない。 刈るべき芝生がある。ふたたび。 磨くべき銀器がある。 その繰り返し。(3)

 

 およそ文学や芸術とはかけ離れた生活感にあふれた言葉*3である。そして主人公はそんな日常感を礼賛する*4わけでもなく、極めて醒めている。この類の面倒ごとが厄介なのは決して終わることなく、ひたすら繰り返されることだ。掃除をしてもいずれ汚くなる。芝を刈っても、いずれ生えてくる。この反復への退屈は、多くの人に思い当たることがあるのではないだろうか。例えば、家事や、あるいは家庭を出れば延々と繰り返さなければならない賃労働である。一体あと何枚の皿を人生で洗わなければならないのか? まるで雑用で人生のほとんどが費やされるような感覚である。

 主人公のスケジュール表はすべきことで埋まっている。計画して行動する。今風に言えば、PDCAだろうか。ビジネスなどでは当然に良いとされるこの枠組みが苦痛をもたらすのはなぜだろうか。それはよく計画されていればいるほど逆説的に、行動を起こす意味がなくなるからではないか。それは一種の八百長試合である。結果が分かり切っているのならば、実際にやる必要などないのではないか。自由研究で結果の分かり切った実験を再現しなければならないような白けた感覚。予見不能なこと、不可解なことは存在しないか、少なくとも手に届かないほど遠いところにある。

(試し読みは以上です)

*1:とはいえ、実際の語りとしては回想調というよりは、基本的には実際に目の前で起こっていることを語っているような感じである。

*2:『サバイバー』三九〇ページ。(以下、引用は全て同書から)ちなみにこの小説ではページ番号が通常と逆転している。つまり最後のページが一ページ目としてカウントされている。

*3:こういうなんでもない単語の多用、生活上の知恵の紹介、あるいは専門用語の解説は内容面だけではなく文体面でもこの小説の特徴だと思う。それらに字数が割かれることによって、反面で主人公の直接的な心理描写が控えめになって、文章が感傷的になりすぎないようになっている。

*4:例えば、日常にこそ幸福があるのだという風に。