ソガイ

批評と創作を行う永久機関

禍のなかで—校正、安住紳一郎、シスター・クレア—

 一時期、あまり本が読めなかった。

 大学院の卒業式は早い段階で中止が決まり、出不精な自分にしては珍しく一週間で二回の飲み会の予定が入っていたが、結局どちらにも参加できなかった。妹がひとさまの子どもを扱う仕事をしていることもあって、私は早い段階で外出の機会を減らしていた。4月1日からの開始が予定されていた常駐の仕事も、初日にパソコンの設定を軽くしただけで、以降はしばらく自宅待機が続き、数週間前から在宅での仕事が始まった。仕事がもらえ、かつ当初の契約通りの報酬がもらえるだけ本当にありがたい話なのだが、どこかすっきりしない気持ちがあることはたしかだ。

 このように、自由に使える時間はあったにもかかわらず、なかなか本に手が伸びなかった。もっとも、小説が読めなくなったのはこのウイルス禍よりも前からではあったのだが、時間ができれば読むものかな、と思っていたので、意外だった。また、しばしば周りから驚かれるのだが、マンガも実はそれほど読む方ではない。

 だからと言って、映像作品を観るわけでもない。もともと映画をそれほど観る方ではないし、テレビドラマはもう十年弱はまともに観ていない。唯一中高時代にそれなりに観ていたアニメ、これもほとんど観なくなって久しい。

 じゃあなにをしていたのか。ひとつは、この度刊行に至った『ソガイvol.5』の製作に注力していた。今号は私の責任編集、ということにして自分にプレッシャーを掛けたのだが、自分の原稿を含め、五人の作品をすべて校閲・校正し、著者と連絡を取り合いながら組版を調整、紙見本をめくりながら用紙を選び、表紙を造って、データ形式を整えて(とはいっても、一度不備があって差し替えさせてもらった)、といった工程は、思いのほか忙しかった。

 加えて、今回はBOOTHでの通販も始めてみよう、と思い、そのために必要な諸々のことを調べたり準備したりと、傍から見たら、なんてこの人は要領が悪いのだろう、と思われても仕方のない進み方ではあっただろうが、ともかくいろいろと動いていた。

 その甲斐もあって、できあがったものは、現時点の自分にできることは余すことなく注ぎ込んだものになっている、と自信を持って言える。もちろん、完成したものを見て、ここはもっとこうすることができたかもな、といくつかの改善点も見えてきて、次へのモチベーションも上がっている。

 実際の頒布は今秋の文学フリマ東京がメインとなるだろうが、できるだけ早く、多くの人の手に渡って欲しいな、と思う。そして、常に新たな読者を迎える可能性を作っておくことが、これからの出版を考えていくうえでは必要なことなのではないか、と考えるようになった。

 

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 さて、小説の方は相変わらずほとんど読めない日々が続いているのだが、本自体は、少しずつ読むようになってきた。これも不思議なのだが、ほとんどの時間が自分の思いのまま使えた時期よりも、在宅での仕事が始まって、一日最低六時間は仕事に拘束されるようになり、身体的にも精神的にも負荷がかかるようになってからの方が、本を読めている。夜勤のアルバイトをしながら学校に通っていたときの方が本が読めた、と話したひとがいるが、その気持ちがよくわかった。

 最近は、出版に関するテーマの本を主に読んでいる。

 大西寿男の『校正のレッスン——活字との対話のために』(出版メディアパル)、電子版ではあるが『校正のこころ——積極的受け身のすすめ』(創元社)では、校正という行為を通して筆者が感じてきた言葉との向き合い方を学び、大西氏よりは一時代前になる校正者、長谷川鑛平『校正の美学』(法政大学出版局)では、特に活字時代の校正の心得から、いまの出版に取り戻すべき意識がそこにはある、と感じた。間村俊一『彼方の本——間村俊一の仕事』(筑摩書房)では、装幀家としては名前を知っていた間村俊一の、散文家としての魅力に気づかされ、その間村俊一の名前も出てくる臼田捷治『〈美しい本〉の文化誌——装幀百十年の系譜』(Book&Design)で、人が装幀を通して、どのように本というものに取り組んできたのか。その歴史を見て、出版という行為の意義や意味を改めて考えた。

 このように、ここ数週間はまあまあ充実した読書をしている。一方で執筆の方は停滞気味だが、これは少しずつ、進めていきたい。

 

 で、ここから一気に話題は変わるのだが、物語に疲れ気味ないま、なにもしたくはないが眠れない、そんなときにしばしば開くのがYouTube。いろいろな動画を観るが、最近ちょこちょこ観るのが、バーチャルYouTuberの配信動画。なぜいまさら、と思われるかもしれない。私自身、そう思う。意識的に避けていたわけではないが、あまり触れてはこなかった文化だ。

 いまも、リアルタイムで追ったり、コメントを打ったり、スーパーチャットを送ったり、ということはしていない。2.5次元のなんたらこうたら、ということに興味があるわけでもない(その方面には、私の食指は伸びない)。たぶん、私の場合はラジオの感覚で観ている。

 最近はテレビ嫌いに拍車が掛かっている。本当にごく一部の番組を意識的に観る以外は、とりあえず付けておく、ということは一切ない(実家住まいで、チャンネル権は私にはないから、嫌々音を聞くことはある。テレビについて、家族のなかで私の意向の優先度が最も低いのだが、基本は消したいと思っている人間だからそれはやむを得ない)。別にテレビとラジオは相補関係にあるわけでもないと思うのだが、比例するようにしてバーチャルYouTuberの配信を観る時間が増えている気がする。ゲーム実況も観るが、どちらかと言えば雑談配信のようなものが好きだ。

 私はラジオリスナーではない。が、ラジオという媒体には最近興味を持っている。なんだったら、自分もラジオのようなものをやりたい、と思っているほどだ。しかし、なぜいまラジオに関心を抱きはじめたのだろうか。自分でもよく分かっていなかった。

 そんなとき、4月16日発売の『週刊文春』を流し読みしていたら、興味深い記事を見つけた。名物記事「阿川佐和子のこの人に会いたい」。今回の相手は、アナウンサーの安住紳一郎だった。ラジオ『安住紳一郎の日曜天国』でパーソナリティを務めている安住氏が、テレビとラジオの違いとして、こんなことを話している。

阿川 同じ喋る仕事でも、テレビとラジオでは全く違うものですか?

安住 違いますね。テレビは一般論的なものを先に提示して、視聴者が個人的に理解することが多いのに対し、ラジオは逆で、個人的な話に対してリスナーがご自身の中で一般論に置き換えてくれる特性があると思います。

阿川 私はラジオのほうが距離が近い気がする。リスナーもすぐに話に反応して投稿してくれるし、それに対して、こちらもその投稿を受けて話題を展開していったり。

安住 あと、テレビの場合は肯定的な意見はほとんど局に寄せられず、不満しか来ないんですけど、ラジオは比較的肯定意見のほうが多く来ます。やはりそれは距離が近いこと、『日曜天国』の場合は、僕自身のパーソナルなことを話していることが理由だと思います。

 これは面白い。もちろんこれは一概に「テレビ」と「ラジオ」とに括られるものではなく、ラジオであってもパーソナリティや構成によっては否定的な意見ばかりが寄せられることもあるだろう。しかし、ラジオの方が距離が近い、というのは感覚として理解できる。リアルタイムでなく、アーカイブで聴いているときでも近く感じる。生中継のテレビ番組よりも、である。そして、ラジオの方が、パーソナリティが自分の話をするイメージがある。ラジオのお決まりの始まり方がパーソナリティの最近の身の上話であることが、まさにその象徴だ。

 すこし話が逸れるが、報道番組やワイドショーの司会やコメンテーターの、大上段に構えた物言いが好きになれない。最近のウイルス禍では、その傾向に拍車が掛かってはいないだろうか。どうにもこの国は専門家というものを低く見ているのか分からないが、声が大きいのは決まって、本業でなにをやっているのか分からない「知識人」や、ご意見番と呼ばれる芸能人だったりする。もちろん、専門の知識がなければものを言ってはいけない、なんてことはない。が、専門知に対する敬意や畏怖はあってしかるべきもので、それが欠けた人間が、公共の電波を通して好き勝手に言いたいことを言って現場を混乱させている。それを抜きにしたところで、そもそも捲し立てるような物言いばかりをする人間の言葉を、私は信用していない。彼らの口ぶりからは、自分の意見があたかも一般論、正論であるかのような自負、もっと言ってしまえば傲岸さが滲み出ているように思えてならない。ラジオの身近さとはやはり違う。

 また、これはやや個人的な話になるのだが、テレビで観たことは、あまり記憶に残っていないことが多い。これは私が映像作品だったりマンガだったりから少し距離を置いている原因とも重なるのだろうが、情報量が多すぎるのだ。

 マンガが分かりやすいだろう。マンガには絵とセリフ(文字)がある。このふたつの情報を同時に理解することが、私は不得手だ。絵から文字へ、文字から絵へ、と順番に見る。映画であれば、映像と字幕を一緒に観ることができない。テレビであれば、映像とテロップとワイプとBGMとSEと、情報が多すぎて、いったいどれを見ればいいのか分からなくなる。そして映像作品は、私が視線を往復しながら考えているうちに次の場面に進んで、前の映像は消えてしまう。

 一方、雑談配信で聴いたものは、案外しっかり憶えている。キーポイントのみならず、そこにいたるまでの流れだったり、ディティールだったりも、思い出せる。

 このことについて、安住氏は「情報浸透度」という言葉を用いて指摘している。

安住 たとえば「安住さんのテレビ一時間観ていました」という人に対して、覚えていることは何ですかと聞いたら、二つ三つなんです。それがラジオだと、八個くらい覚えてくれている。二つ覚えてくれている人が十人と、八個覚えてくれている人が一人だったら、情報の浸透度はそこまで変わらない気がします。 

 このあとに語られている、ラジオ番組に集まってくる、Wikipediaとは違うかたちの集合知の話も面白かった。パーソナリティとリスナー、それぞれの身の上話によって構成される情報は、まさに唯一無二のものである。

 

 私が、いまの報道番組に足りないと思うもの、それは「間」である。昨今もてはやされるのは、ひとを捲し立てるように、ときに専門家の話を遮って、そして立て板に水のように話す知識人だ。コメンテーターに限らない。番組の構成自体に、間がない。次から次へと、威圧的な言葉が溢れ出る。

 具体例を挙げよう。これは実際にあった話だ。

 医療の現場が逼迫し、自分もウイルスに感染するリスクと隣り合わせで仕事をすることに悩む妊娠中の看護師を取りあげていた。これは深刻な問題であり、私として真剣に考えるべきことだ。今回のことで、これは日本に限らない話だが、医療の現場とは平時からかなりかつかつで回しており、非常事態に対応できない脆弱さがあることがわかった。それは「効率化」や「無駄の削減」と称揚された政策の弊害であることは、他にも保健所の例、役所の例を見れば明らかだ。日頃、余裕やゆとりがなければ、非常事態に容易くパンクする。医大入試における女性に対する不利益な採点が、少し前に問題になった。もちろん、あれは絶対に許されないことだ。しかし、ようやく仕事を覚えはじめてきたくらいの年齢の女性が、しばしば結婚や妊娠、出産を機に休業、退職する現実があり、すると、ただでも人手が不足している医療の現場では、女性よりも男性を優遇したいという心理が働くことも、理解された。だが、当然それは女性が悪いわけではない……と、とても考えさせられる話題だった。

 しかし次の瞬間には、トレンドにもなっているリモート飲みに興じる会社員の男性を追い始めた。しかも、ここで取りあげられた男性は、会社からリモート飲みに対して月8000円の補助が出ているのだと言う。

 もちろん、この男性や会社が悪いと言っているのではない。それはひとつの企業努力であり、福利厚生である。立派な取り組みだとすら言える。

 しかし、この差はなんだ。危険を承知で、周りから差別される可能性もあり、それでも外に出て働かなくてはならない。そのお腹には新たな命も宿っている。風評被害を恐れてだろう、顔を隠して語った女性の涙について考える時間もなく、あまりにも落差がある。そんなテレビで「医療従事者を応援しよう」「大切なひとを守るためにも、家にいよう」などと言われても、説得力がないのだ。

 こういった間のなさが、視聴者に考える隙を与えない。端的に言って、編集能力の欠如だろう。ただ入ってきた情報を、右から左へ流す。視聴者も、そうして垂れ流される大量の情報を受けるだけになりがちだ。自分の身に着地させるためのワンクッションがない。だから案外、覚えていることが少ないのだろう。

 

 先日、夕食後だったが、メールを確認してから休憩がてらYouTubeを開いた。少しスクロールすると、ほぼ一日前に配信をしていたひとつの動画のアーカイブがあった。シスター・クレアという、文字通りシスターのバーチャルYouTuberの動画だった。この方の存在は知っていたが、投稿動画を観たことはなかった。

 そのタイトルが、「【大切なお話】休止についてと、最近のお話をちょこっと。【にじさんじ/シスター・クレア】」。切実さが伝わってくるものであったため、観てみることにした。休止といってもそれほど長い期間ではなかったが、更新頻度がとても重要な業界であるから、たしかにそれは休止と言えるのかもしれない。最近は一週間に一度もブログを更新できていない自分には、耳が痛い。そもそも、休止中とはいえ、毎朝投稿している二、三分の「まいにち動画」は続けている。

 配信は、やや緊迫した空気で始まった。開始後、クレアさん(でいいのだろうか?)はとても緊張した様子で、なにから話せばいいかわからないようだった。やがて、最近の話でもあり、休止の理由でもある出来事について、話し始めた。

 それは、自分をとても可愛がってくれたおじいさんの死だった。死というものに接するのはけっして初めてではなかったが、身近で、しかも愛する大切なひとの死に直面して、最初はなにが起きたのかよくわからず、やがて、もう会えなくなることがわかって悲しみ、そして、自分を含めて誰しも、すぐ隣には死がある生を生きていることを考えたのだと言う。また、いまはウイルス禍によってより死というものがすぐ近くにある世界のなかで、自分はなにをすればいいのか、考えていたのだ、と。ときおり涙声になりながら、ゆっくりと、ひとつひとつ、言葉を選びながら話していた。

 この配信で、私が最も惹かれたところは、その話し方だった。

 ゆっくりと、考えながら、慎重に言葉を選んで、ひとつひとつ、言葉を発する。他の動画も観ると、この話し方はこの配信に限らず、このひとの持っている話し方であるようだ。とにかく、この話し方に好感を持った。

 話の内容自体は、それほど特別なものではないのかもしれない。いつも死はそばにある。生きていることは当たり前ではない。大切なひとの死を前にすると、最初はなにがなんだかわからなくて、なにも考えられなくなる。こういうことも、こうして実際に経験してみないとわからないことだ。毎日を、後悔のないように生きたい。

 いま、人びとの生活を支えるために外に出て働かなくてはならない、医療従事者や物流関係者などの方には感謝の心を忘れず。その上で、自分を、そして大切なひとを守るために、家にいられるひとはできるだけ家にいましょう。

 それはテレビやさまざまなメディアで散々さけばれていることと変わらないかもしれない。が、私はこの言葉を、ひとつひとつ嚙み締めるように聴いた。有り体に言って、胸に響いた。誠実な言葉だと思った。

 どうしてここまでも、違う響きをもって伝わってくるのだろうか。

 それは奇しくも、安住氏が齋藤孝と共著で出版した『話すチカラ』(ダイヤモンド社)の内容ともかかわってくるのかもしれない。未読だが、記事の中で「世の中に対して不満を抱えている人も多いと思うんですけれど、自分の喋り方を変えれば、周りも変化して、少しはストレスを軽減できるかと」と語っていることから、大きくズレてはいないと思われる。

 話し方。それは当然、書き方、読み方にも通じる立ち振る舞いである。

 

 このウイルス禍が収まったとして、しかし世の中は以前の姿に戻るわけではないだろう。ソーシャルディスタンス、リモートワーク、リモート飲み。コミュニケーションの形の変化を示す現象が巻き起こることだろう。そんななかで、言葉というものの持つ力や意味合いに変化が生じることもあるかもしれない。

 これはきっと、本などの印刷されたテクストにとっても同じことだ。なにがどうなるのか、はっきりは私には言えないし、まったく分からない。その変化が良いことなのか悪いことなのかもわからない。ただ、きっと変わるだろうとは思う。このとき、先に挙げた大西寿男の、たとえばこのような言葉を胸に抱えておきたい。

 最近、生きづらい世の中をいかに勝ち残るかという、声の大きな本の造作や言論が多いように思えます。それはいわば、読者や受け手にとっては、頼まなくてもどんどん押しかけてサービスしてくれる、押しの強いセールスみたいなものです。

 ですが、校正者は、大きな声のかげに隠れ、震えている、小さな声を聞き逃さないようにしないと、肝心なものを読み取れないことを、日々の仕事のうちにイヤというほど経験しています。

 今日も、どこかで、文字の言葉によって、誰かが泣くことすらできずにいます。私たちはそれを知ることはできません。知るときは、たいていかけがえのないものを失ってからです。けれども、もしもそうなる前に、その人に寄り添いたいと願うのであれば、やることはあるはずです。大きな声から小さな声を守る盾になること。そして、活字の持つ肉声 に耳を傾け、どうあればその言葉が生き生きとするか、みなで智恵を寄せること。

 耳や目にすぐに入ってくるものだけが、言葉ではないのですから

(『校正のレッスン——活字との対話のために』99頁) 

 思うに、だれもが簡単に発信者になれるいま、みな校正の意識を持つべきなのだ。

 もちろん校正は専門的な技術である。が、その意識は、出版の現場においてのみしか通用しないものではない。発信する側に回ったときはもちろん、受け手としても、目の前の言葉を校正の目で見ることで、地に足を付けて、「大きな声」に流されないようにすることができる。その実践のひとつとして、話し方というものも含まれてくる。

 見方を変えれば、いま自分はまさに、言葉が変化するその過渡期を目撃しているのかもしれない。だったら、見つめるべきだ。ただ上から命じられるがまま、自粛するのではなく、変化していく言葉の有り様を見つめ、そして、考えていく。

 それがきっと、いまの自分にできることのひとつだ。

 

(矢馬)