もうテレビドラマどころか、テレビ番組自体を真剣に観なくなって久しい。また、このドラマが好き、と熱く語れる作品もぱっとは出てこないような人間なのだが、折に触れて思い出す、テレビドラマの場面がある。2001年にフジテレビの「月9」枠で放送された、木村拓哉主演『HERO』の第10話、クライマックスのシーンだ。
『HERO』は木村拓哉演じる型破りな検事、久利生公平を主役としたドラマシリーズ。平均視聴率は34.3パーセントという大ヒットを記録したことでも有名だが、私は主にこのドラマは、夕方の再放送枠で度々観ていた。私が高校生くらいまで、夕方の4時から5時あたりの時間にはドラマの再放送がよくやっていた。とくに、次のクールで主演を演じる役者が出演しているドラマが流されることが多く、フジテレビだから『プライド』(2004年)、『エンジン』(2005年)、『CHANGE』(2008年)のどれかの放送前に観たのではないか、と思う(ちなみに、いろいろ言われている木村拓哉の演技だが、私はけっこう好きだ。いま挙げた作品は、リアルタイムですべて観た)。
さて、この第10話は、最終話の1話前の話だ。
話は、人気ニュースキャスター榎本を暴行した被疑者として青年、古田が送検されてきたところから始まる。古田はかつて、不法投棄の現場を榎本にとらえられ報道されたことがあった。このような動機もあって、警察の取り調べでは容疑を認め、自白していた。しかし、久利生に対し一転、そんなことはしていないと、古田は自分の無実を訴える。
現場に行く検察、久利生はここでも自らの足で証拠を集めようとする。結局、榎本が犯人の顔を見ていないことなどから、証拠不十分で不起訴処分にする。そのことに不満を持った榎本が、検察審議会に提訴。また、久利生には学生時代に逮捕された過去(友人を庇ったことによる傷害で、黙秘をしなければ正当防衛が認められる可能性も十分にあった。当時の担当検事沼田が、拘留期限ぎりぎりまで捜査をして証拠を集め、証拠不十分として不起訴にしている)があることなども明らかになり、マスコミの報道は激化。検察や久利生個人への非難が巻き起こる。
当の榎本も、自ら久利生への非難を続けるなか、彼女は再び襲われる。そのとき彼女は、犯人の腕に傷があることを確認した。古田には、そのような傷はなかった。古田は暴行事件の犯人ではなかった。しかし、あれだけ公共の電波もつかって非難しておいて、私の勘違いでした、では済まされない。榎本は、このことを刑事に話す。しかし刑事は、自分の面子を守るためにも彼女に口止めをする。警察としても、無実の人間を逮捕して追いつめたとなれば、大きな問題になる。
そうして真相が隠されたまま、再び起きた暴行事件は報じられる。久利生の過去というセンセーショナルなエピソードも手伝って、世間のバッシングはさらに悪化。久利生は審査会にかけられ、そしてこの事件の担当検事を外される。
古田は無実の罪で警察、マスコミ、世間から追われることになる。なかなか連絡がつかなかった古田から久利生のもとに、電話が掛かってくる。公衆電話からだった。
2度目の事件のとき、自分は母親のお墓参りで函館に行っていた。チケットの半券も持っており、アリバイが証明できる。なのに、帰ってきたら自宅の前に刑事がいるし、テレビや新聞では自分のことばかり報道している、どうしていいかわからない。混乱した様子の古田は、パトカーのサイレンを聞くと電話を切ってしまった。これが、久利生が聞いた古田の最後の言葉になる。まもなく、古田はビルから飛び降りて自ら命を絶つ。久利生は、刑事から古田の遺品を見せてもらう。そこに、古田の言っていた半券はなかった。紛失したのか、あるいは揉み消されたのか。
これは物語であると同時に、紛れもない現実である。いまとなって、改めてそのように言う必要がある。
その後、足を使って証拠を集め、最後は榎本を説得して証言を取った。そして久利生は刑事を呼び、真実を突きつける。往生際悪く否定する刑事が、「もうこんな事件は終わったんだ」「被疑者が死んだような事件なんか」と口にしたとき、それまでぎりぎり堪えていた久利生は激昂し、「あんたが殺したようなもんだろ!」と刑事の胸ぐらを摑む。ここからのセリフが、私はいつまでたっても忘れられない。記憶に従って書くから、一語一句正確なセリフではないが、確かに憶えている。
「俺たちみたいな仕事は、その気になれば簡単に人を殺せるんだよ。あんたら警察も、俺たち検察も、マスコミも。これっぽちの保身の気持ちで、ちょっと気緩めれば、簡単に人の命奪えるんだよ。俺たちが、そういうこと忘れちゃいけないんじゃないですか」
ここでは、人を裁く権力を持たされた人間の心得を説いている。人が人を裁く。その責任感の重さ。検事バッチが表す「秋霜烈日」、刑罰や権威の厳しさを忘れては、正義のために持たされたその剣は、そのまま人を刺して殺す。作中でお散歩と呼ばれる、検事として異常なほどの捜査をする久利生の精神は、ここにある。人を裁く権力を持たされた人間は、それを絶対に誤ってはならない。だから、しつこくしつこく、自分の目で確かめて、被疑者の処分をくだす(現実の検事は同時にいくつもの事件を抱えているから、久利生のように捜査することは難しいかもしれないが、それはドラマということで)。
ところで、ここで「マスコミ」が入っていることを私は考えたい。
マスコミを広く解釈すれば、言葉や情報を流して、拡散するものである。
マスコミ叩きはいつの時代にも存在し、いまだに蔑称で呼ばれることもある業界だ。マスコミ業界に大きな問題があることは、私も同意だ。しかし、そのようにマスコミを非難する者のなかに、あまりにも悪し様に物事を非難することばを流している人間が少なくはないことはどういうことだろう。はっきり言えば、いまや誰もがマスコミュニケーションの担い手である、ということに無自覚な人間が多すぎるのではないか。
たしかに、業種としてのマスコミは、それこそ新聞やテレビ、出版などが当てはまるだろう。しかし、原義としての「マスコミュニケーション」は、「不特定多数の大衆に物事を発信すること」である。当然、SNSだってそこに当てはまる。いまや老若男女、多くの人間が利用しているツールも、マスコミュニケーションを担う媒体のひとつである。
もちろん、SNSと従来のマスコミ業界を一概に同一視することはできないだろう。しかし、いまや誰もが、不特定多数に自分から情報を発信することを容易におこなえる、ということは疑いない。
つまり、久利生の言葉は、(もちろん、当時の脚本家もそれは意識していたと思うが)ありとあらゆる人間に当てはまる言葉だ。
最終話、久利生はサッカースタジアムでの警備員刺殺事件の捜査をしていた。この事件には政治闘争が絡んでいた。若手議員の諸星は腐敗した政治に怒り、党内の大物議員の贈収賄を暴いて失脚させるために準備を重ねていた。その決定的な証拠をもらうためにお忍びでスタジアムを訪れていたのだが、そこで刺客に襲われる。しかし、警備員がそれを庇って刺された。結果、諸星は助かったが、警備員は死亡した。
この真相にたどり着いた久利生は、証言をしてくれるように頼みにいく。しかし、それはできないと言う。いま証言してしまったら、それは自分が進めていることも隠せなくなり、大物議員に決定的な打撃を与えられない。まだそのときではない。諸星はそういった。亡くなった警備員には申し訳ないと思っている。いずれ、なんでもするつもりだ、と。
それに対して久利生は、言う。
殺された警備員、咲坂の息子が、なぜ自分のお父さんが殺されなければならなかったのか知りたがっている。ニューリーダーとか言われているようだが、やっていることは全然新しくない。まず最初にやるべきことは、500万の香典を持っていかせることではなく、自分を守って死んだ人の子どもに、真実を話してあげることではないのか。申し訳ないと、頭を下げることではないのか。そんなこともわからないのに、国の将来を語るな。
久利生が立ち去ったあと、諸星は日が暮れるまで考え込む。そして、非常識な検事でしたね、と慰める秘書に対し、異端児は叩かれる、かつての自分と同じだ、と言ったあと、静かにこう語る。「俺は政治の話をし、あいつは人間の話をした。あいつはなにも間違ったことを言っていない」。その話が、ここで思い出される。
久利生は人間の話をしている。刑事に言い放った言葉は、私たちにも当てはまることではないのか。私たちは、その気になれば人ひとりくらい、簡単に殺すことができる。自ら手を下すことなく、言葉によって追いつめて。そのような事例は、事欠かない。もちろん、当時は小学生か中学生だったと思うが、そのときからそのように考えていたわけではない。が、いま改めてこの言葉について考えると、そんなことを思わずにはいられないのだ。
このとき、簡単に「言葉は怖い」と感慨を表してしまうことに、私は疑いを持つ。あるいは、理不尽の感を抱く。この一言は、どうしても「言葉」に責任転嫁しているように感じられてしまうのだ。悪いのは「言葉」なのか? それを使う「人間」の方に、責があるのではないか?
もっぱら相手を打ち負かす意味で用いられている論破という言葉に、私は嫌悪感を覚える。
最近、私は頻繁に、久利生の激昂の言葉を思い出す。いま、自分はこうして文章を書いている。これから、私はどのように言葉に向き合っていくべきなのか。まだ答えは出ていない。ただひとつ、わかることがある。いままで通り、当たり前のことを言い続けていくしかない。地味だし、徒労感を味わうことも多いだろう。過激なことを言えば、耳目を集めることはそう難しいことではない。が、反対はそうはいかない。つまらない、と言われることも多くなるかもしれない。野暮ったい。かつて、私の文章がそのように評されたことがある。それでも、いま必要なのは当たり前の言葉だ。それを続けることで、もしかしたら一人くらいは、こんな私の言葉でも救うことができるかもしれない。
これは有名かもしれないが、もうひとつ、別作品で忘れられないセリフがある。手塚治虫『ブラック・ジャック』から。ブラック・ジャックがテロリストに対して言った、このセリフ。
「たいしたやつだな、簡単に五人も死なせるなんて。こっちはひとりを助けるだけでせいいっぱいなんだぜ」
(矢馬)