ソガイ

批評と創作を行う永久機関

『イブニング』休刊と文芸文庫

『イブニング』休刊のニュースには驚いた。たしかに『モーニング』や『アフタヌーン』と比べると最近はあまりヒット作に恵まれていない印象はあるが、それほど漫画好きでもない私ですらよく知っている名前だし、それに版元はあの講談社だ。しかし、それくらいいまは紙の雑誌が売れないということなのだろう。

出版不況と言われるが、よく知られているようにそれは書籍以上に雑誌において深刻だ。取次ルートで販売額を推定している「出版指標」によると、ピークの1996年から2021年までに、書籍の販売額は1兆931億円から6804億円にと40%弱減少しているのに対し、雑誌は1兆5633億円から5276億円と約66%、およそ3分の1にまで売上が落ち込んでいる*1。そもそも日本の出版は流通や販売の面からも雑誌に支えられてきたといっても過言ではないのだが、その土台がもはや崩れている。

その理由はパッと思いつくだけでもいくつか考えられる。

ひとつは、よく言われるように娯楽の多様性だ。雑誌とは——ある面では本もまたそうなのだが——基本的に読み捨てられるものだ。電車での移動の暇つぶしや、あるいは帰宅途中で買って、夜寝る前に自分の興味のあるところだけを拾い読みするような読み方をされることも多かったはずだ。

しかし、いまは同じ目的でスマートフォンに代表されるデバイスを使えばゲームでもSNSでもYouTubeでもNetflixでも、いくらでも無料、あるいは月額制で楽しめるコンテンツがある。あえてこう言う言い方をすればより手軽に手に取って捨てられるコンテンツが無数にあるなかで、実は捨てるのが若干面倒な雑誌を選ぶ人間が果たしてどれだけいるだろうか。

少し逸れるが、コロナ禍になって出張等がなくなってから週刊誌を読まなくなったという話を聞いた。コロナ禍によって適当に潰す時間そのものが減った、ということだろうか。それに、家にいて時間を潰そうと思ったときにわざわざ書店に行って雑誌を買ったり、あるいはAmazonで週刊誌を取り寄せようとする場面は想像しづらい。私だって、Amazonのページを開けるパソコンやスマートフォンで、YouTubeやらなにやらを見る方を選ぶだろう。思わぬところで出版もコロナのダメージを蒙っているのだなと納得したものだ。

ふたつめは、これは卵が先か鶏が先か、といった問題でもあるが、広告収入の減少だろうか。雑誌はその収益の大きな部分を広告収入が占める。しかし、いまや雑誌は広告を出す側にとってそれほど魅力的な媒体ではなくなってきている。それは端的に雑誌の売上の減少もあるが、ほかにも社会の多様化によって、以前ほど明確なターゲットを絞りづらくなった、ということもあるのかもしれない。雑誌はジャンルや内容によって大体の購買層が決まっている。広告主にとってはそれを参考にすればより的確に自社の商品を訴えかけることができるのだが、今はそういった「なんとなく共有されているイメージ」のようなものが薄い気がする。それが良いことかどうかの議論は手に余るのでここでは措くが、だったら絨毯爆撃的に降らせるか、個々の検索データなどを分析して自動的にリコメンドするようなネット広告の方が良いのかもしれない。

ほかには、雑誌という単位の崩壊も挙げられる。しかしこれは、やむを得ないとはいえ、出版業界の自滅の面もあるだろう。すなわち、たとえば漫画ならアプリで単話で販売したり、週刊誌も記事ごと小分けにされて配信されることで、読者の側にひとつの「雑誌」というフィジカルが想定できなくなっているのではないだろうか。

私がそのことをよく感じるのは、『日刊ゲンダイ』や『FRIDAY』といえばやや信憑性がないメディアである(あった)はずなのに、SNSではしばしばこれらのネット記事を元に真面目に議論が繰り広げられているのを見るときだ。ネットスラングに「なソゲ(なおソースはゲンダイ)」という、信憑性の低いメディアの記事を以て物事を語ることを揶揄したものがあるが、もはやそれが通用しなくなった世界といえるだろう。最近は『日刊ゲンダイ』の方がまだマシなのではないか、と思えるほどの怪しい情報を根拠に侃々諤々の議論が行われているきらいもある。

話を戻すと、ひとつの雑誌を購読することは、ある意味である一つの共同体に参入することを意味していた。私の例で言えば、学生時代、周りはみな『ジャンプ』か『マガジン』を読んでいたのだが、私はどうしてもその輪には入りたくなくて『サンデー』を読んでいた。いまになって思えばこのときから天の邪鬼な性格が顔を覗かせているのだが、ともかく、少なくとも当時の私にはまだひとつの雑誌の読者が作る共同体の概念があったようだ。雑誌はまさにひとつの世界だったのだ。

だが、いまやそれは細切れになって統一的概念がない。雑誌そのものが記事というパーツに解体されているからだ。だからひとつの記事をとっても、それを通してひとつの世界に入っていくのではなく、それは自分に興味のあるものをこちらからピックアップした結果、というように、まさに方向が逆になったのだ。だとすれば、たしかに1部の雑誌というものの魅力は消滅するだろう。

これは私も他人事ではなく、大学に入ってから私は定期購読する雑誌というものが欲しくて、文芸誌だったり趣味雑誌だったりいろいろ買ってみていたのだが、結局長くは続かずにここまできてしまった(この前『東京人』を買ってみたのだがこれがかなり面白く、ちょっと定期購読してみようと思っているが)。

ことほどさように雑誌はいままさに存亡の危機にあるのだが、これは連鎖的に書籍にも襲ってくるだろう。本が売れなくなっていることに対して「本を買おう」と呼びかける声を耳にすることも多いが、より正確には「本を、特に雑誌を買おう」と言った方が良いのではないか、とも思うのだ。

さらに言えば、大事に読め、ちゃんと読めと言い過ぎだ。もちろんそのような姿勢を持つことも大事なのだが、それでもむしろ、べつに流し読みや拾い読みをしてもいいんだ、と言うべきだとも思う。自分たちでハードルを上げておいて「本が読まれない」と嘆く様は滑稽である。あえてこういう言い方をすれば、本や雑誌とは、必ずしも真剣に読むばかりのものではないのだ。これは、そこに伴う労働に対して敬意を持つこととなんら矛盾しない。

 

さて、講談社というとつい先日も講談社文芸文庫の話題が少し出ていた*2。私は常々、この文庫に対しては批判的なことを言ってきたから細かくは繰り返さない。そもそも件の記事に関しては講談社(『現代ビジネス』)の自社広告だと思っているので、あまり本気で捉えてはいない。あのタイトルを付けたのは編集サイドだろうが、しかしあの内容で文芸文庫の価格の高さの理由、要因はほとんど説明されていない。素材やデザインは数多くある理由のひとつに過ぎないだろう。ただ表面的なことをなぞっているばかりで、反応に困るというのが正直なところだ。

ただ、この記事に対する反応には思うところがある。私が批判的なのは講談社文芸文庫の造本や姿勢ももちろんだが、「文芸文庫教」的な空気に対する違和感によるところも大きい。そもそも物・道具としての「本」という意味ではこのレーベルはまったく良いものとは思えない。それを、本に高いお金を出す人々があまりにも有り難がっている状況は非常に不健全であり、やがてじわじわと出版の土台を蝕んでいくのではないか。

講談社が便乗して「私の文芸文庫」「文芸文庫の風景」といった連載を『群像』で始めたのもそれをよく表しているのではないか。どんどん内輪になっている。

あるいはそれは、雑誌による共同体意識が衰退する代わりに生まれた仲間意識とも言えるのかもしれない。しかしここには、読み捨てで内容が雑多であり、ある面ではやがては読まなくなる通過儀礼的な存在でもあるが故に雑誌にはある通気性、換気性がない。

近年の講談社文芸文庫の発行点数やラインナップを見ていると、さながら限界集落の様相を呈しているように思えてならない。もはや現役バリバリの作家が数年前に単行本で刊行した作品や、かつて自社で刊行していたものでも入ってしまうのを見ていると、すでにジリ貧のようだ。

かつてのラインナップにあった気骨が、ここには最早ない。講談社文庫では十分な売上が見込めない作家を、文芸文庫として箔付けして高い付加価値を付けて高く売っているようにしか見えない。しかし、少し頑張ればそこまで価格が変わらない単行本や、むしろもっと安い古本を買うことができる文芸文庫に、一体何の価値があるのだろうか。あるとすれば、それが「文芸文庫である」ということだけだ。こうなったときに内部から腐敗して衰退していくのは、なにも出版業界に限った話ではない。

そのような内輪褒めの裏で、まさに講談社の大きな軸である漫画部門において、名前のある雑誌が休刊しているのだ。当然、それはやがて不採算部門である文学の領域にまで影響を及ぼすだろう。出版の仕事は、読者のニーズを満たすことだけだろうか。むしろ、読者を生み出すことが大事なのではないか。いまの文芸文庫の姿勢は、「読書好き」「本好き」の自尊心を充たしたいという欲求に敵うものを提供することに齷齪しているように思えてならない。

以前私は『ソガイ』第5号で出版の「内輪」の空気を念頭に、このままではその文芸文庫すら出せなくなることになるぞ、と主張したのだが、それがまた違った形で出てきた。そう書いてからもう2年半以上が経つが、その危惧があまりにも早く顕在化したことに、暗澹たる気持ちになっている。

しかし、もとを辿れば講談社文芸文庫が言う「文芸」の文庫、ペーパーバックが、このレーベルの寡占状態になっているように見えるのが根本的な問題であるのかもしれない。私がときに嫌々ながら文芸文庫の本を買うことがある要因のひとつも、そこにあるだろう。「本はありすぎる。同時に、まったく足りていない」と私が言うのはそういうことだ。

果たして、「大ベストセラーが出た」といったその場しのぎの類いではない、本当の意味での出版の明るい話題を聞けるのは、一体いつのことになるのだろうか。

年の瀬に、こんな暗い気持ちにはなりたくなかったものだ。

(矢馬)

*1:

shuppankagaku.com 閲覧日2022/12/30

*2:

gendai.media

閲覧日2022/12/30